『ザ・プレイス 運命の交差点』

 4月5日封切のイタリア映画を約二週間後の水曜日に観て来ました。封切から二週間後でも、多分、封切段階から変わりなく、23区内ではたった2館でしか上映していませんでした。1館はこの映画の存在を知ることになった、有楽町の比較的最近私が『ウトヤ島、7月22日』を観た映画館です。そして、もう一つは新宿の武蔵野館でした。その日、昼の一番の仕事が茅場町で早く終わった私は、最初この映画を観ようと近くの有楽町に移動しましたが、着くとかなり時間が残っていたので、急遽、新宿にまで戻り武蔵野館の14時35分(このスタート時間はなぜか有楽町の館でも一緒でしたが…)を観ることにしました。

 この日は「映画ファンサービスデー」とのことで、1000円で観られるのでしたが、そのせいか、単に上映館が少なく観客が集中するせいか、1日に3回の上映のうちのこの回には、小さなシアターが8割以上埋まっているように見えるぐらいの、50人ぐらいの観客が集っていました。客層はなぜそのように偏るのか分かりませんが、中高年層が完全に中心で、若い方でも(少数の例外を除いて)40代半ば。上は70代ぐらいまでは確実に行っているように思えました。男女二人連れも、女性の二人連れも多く、概ね男女比は半々かやや男性が多めと言う感じでした。

 少々ファンタジーと言うか、見ようによってはスピリチュアル的なテーマを抱えた作品です。イタリアの都市の街角にあるカフェというかダイナーのような店の一番奥の4人席に日がな一日一人で陣取ったおっさんの、向かいの席に座って自分の願い事を言うと、それを実現する条件を言い渡されるのです。願い事を叶えるためにその条件となっている事柄を実践するか否かは本人の自由です。「契約」と呼ばれていますが、契約の履行をするもしないも、本人の自由と言うことになっています。しかし、多くの契約で指定される行動は、犯罪めいたものが多く実践が極めて困難です。

 老いが進んで病院に入ったままの夫を家に呼び戻せるぐらいに回復させたいという老婆には、「カフェやレストランの飲食店を一店決めて、爆弾を仕掛け、その時にいる人々を爆殺しなさい」と告げていますし、盲人の青年が視力の回復を願うと「女を一人犯せ」と告げています。願いと実践行為の間には全く関連性がなく、この手の条件を告げられると、皆、逡巡し、何度もこの奇妙なご託宣を示す男を訪ねて来ては、「他の条件に変えてくれ」などと無駄な交渉を図ったりします。

 この名前もない主人公は分厚いシステム手帳のようなものを常にテーブルにおいていて、中にはびっちりとイタリア語で何かが書き込まれています。比較的アップになる場面もあるので、イタリア語が堪能なら何が書かれているかが読み取れるはずです。主人公の男は、条件を言い渡す際には、ノートの該当ページを索引して条件を見出します。その実践経緯や逡巡内容を面談で聞くと、何某かをノートに追記しています。そして願いが叶う頃になると、なぜか、ノートの該当箇所は綴じた状態ではなくなっていて、紙片として取り出され、願いの成就と共にテーブル上の大きな灰皿で燃やされるのです。

 想定としては、ノートにはびっしりと世の中のありとあらゆる運命が記述されていて、それを書き換えることができるのは本人の行動のみであるという前提で、主人公は、それを読み取って本人に運命の変更の方法だけを告げる能力があるということのようです。ノートそのものの機能は海外ドラマ『ワンス・アポン・ア・タイム』の登場人物たちを操る物語本のようなものではないかと思われます。限られたページ数で多くの人々の運命を決める非常に高性能のRDBの機能が搭載されているということと考えるしかありません。

 主人公は積極的に良い方向へノートに上書きなどをしてくれている様子はありませんし、持掛けられる色々な交渉に対しても、頑として妥協しません。つまり、その手の能力はなく、「運命を変えるなら、決められた方法を実践するだけのことで、嫌なら止めろ」と言う姿勢を一応貫いています。

 この主人公の様子を見て思い出したのは、若い頃に読んだ海外ミステリの『隅の老人』シリーズです。正確にはそのようなシリーズ名はなく、同じ作者による同じ登場人物が謎を解く幾つかの作品群があるだけです。ウィキでは…

「名前を始めとして職業、経歴などは一切不明。エイアレイテッド・ブレッド・カンパニーのノーフォーク街支店、略称「ABCショップ」の隅の席に座り、チーズケーキと牛乳をたいらげ、そしてそこで出会った女性新聞記者のポリー・バートンに、迷宮入りとなった事件の概要と(恐らくは真相を言い当てているのであろう)自身の推理を聞かせる。

 頭は相当禿げ上がっており髪の色は薄い。眼は淡い水色で大きな角縁の眼鏡をかけ、服はだぶだぶのツイードのアルスター外套を着る。常に紐の切れ端を持っており、話しながらそれを結んだり解いたりする癖を持つ。余程のことが無い限り真相を警察に伝えようとは思わず、巧妙なトリックを考え出した犯人を称賛することもある。

 現場に出向かず新聞の情報などから真実を導き出す推理法は安楽椅子探偵の先駆とも言われているが、時折自ら証拠を集めることもあり、また検死審問にも積極的に参加するなどそうとは言い難い面も持ち合わせている」

と説明されています。この作品の主人公はそれほどの老人でもなければ、推理をしているのではありませんが、かなりイメージは近いように感じます。隅の老人がデスノートの変型判のような「運命ノート」を持っていると考えれば、この主人公の像にかなり近くなるように思えます。

 この映画は一応群像劇風になっていて、10人もの相談者の経過を描いています。先述の老婆も盲人も結局願いを叶えることはできませんでした。老婆の方は、「そんなことをして仮に夫が戻って来ても、多くの命を奪った私は以前の私でいることはできない」と至極真っ当な悟りに至ります。盲人の方は煩悶した末、一人の女性と親しくなり、性交に成功しますし、本人はかなり無理強いをして成功したつもりでしたが、女性の方はかなり親しくなった後のことだったので、寧ろその性交を喜びを持って受け止めてしまい、視力回復に至らなかったのです。

 このような出来事は、すべて10人の人物の語りで分かることで、再現シーンなどは全く存在しません。映画のシーンは舞台となっているダイナーの周囲の路上の風景とダイナーの中のみです。延々と色々なアングルから同じ空間が切り取られた映像が続きます。群像劇でもなかなか面白い構成だとは思いますが、群像の運命が互いに交錯する妙の方はイマイチな感じで、二人一組になっているケースが幾つかあるだけです。(ロバート・アルトマンの幾つかの作品のような見事な組み合わせや、邦画で私が最近観た『エイプリルフールズ』などの交錯具合に比べると、捻りが今一つです。)

 息子と和解したい警察官と、父から離れて人生を歩みたい不良息子が並行して相談に来ていたりします。その際に、主人公は契約成立からかなり後になって、相互に契約がされていることを明かしたりすることがあるのが、ギリギリ、ノートに従った「読み取りサービス」を一応逸脱している部分です。それ以上の干渉も何もありません。

 ただ、運命には従っているのでしょうが、契約の履行に多くの相談者たちは失敗し、命を落としたり、契約とは関係のない犯罪行為に走って身を滅ぼしたりもします。(勿論、一部、非常にハッピーに契約を終える者もいます。)このダイナーの妙に豊満な女給が主人公に興味を持ち、閉店時間になるとモーションをかけてきますが、彼女のヒアリング能力によって、主人公の内面が僅かに漏れ始め、物語の理解を助ける役割を果たしています。

 主人公は相談者達のあまりに酷い運命を知って、「もうこの役割を果たすことに疲れた」と言った弱音を女給に吐露します。そこで、女給はいきなり分厚いノートを取り上げ、ノートに自分で何某かを書き込むのでした。そこから唐突に二人の消えた開店前の朝の光に包まれた無人のダイナーが映って映画は終わります。彼女が運命を操る次の担当者だったのかもしれませんし、単に主人公を運命解説係から解放することができたということなのかもしれません。結末にややスッキリ感が足りませんが、人生に関する「願い」について考えさせる映画です。

(理路整然としたストーリーをイタリア映画に期待してはいけないのかなと、以前観た『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』とたった二作で一般化してみたくなる欲求が湧きます。)

 劇中で中には実践が比較的簡単なものもありましたが、基本的に子供の殺害や店舗の爆破など穏やかではない選択肢と自分の欲望の成就とを相談者は天秤にかけることになります。私には、そこまでこだわりたい欲求というのは何だろうかと思えます。『ウトヤ島、7月22日』の感想にも書いた…

「 私は幼少期に数知れぬほどの疾病に罹患し法定伝染病も二つも経験して隔離生活も長く続きました。交通事故に巻き込まれたことも2度3度ではなく、首にギプスをつけた状態や松葉杖状態で合計したら2年近くを過ごしていると思います。自分の命の危機を自覚できたこともその当時でさえ何度もあります。さらに、20歳の時に初めての海外旅行で行ったソビエトで初めて背中に銃を突き付けられました。24で米国留学してからは、帰国途上に寄ったLAでは、2回行って2回とも銃撃に巻き込まれています。おまけに、知人が乗せてくれたセスナ機がエンジン・トラブルで高速道路に不時着したこともあります。若い頃から常に死は身近にありましたが、それでも、「ああ、これは死んでも不思議ない状況だな」と思える状態を冷静に捉えられるようになったのは30歳過ぎのことです」

にあるように、人生は儘ならないことだらけで、本気に叶えることを追求したら、願いは多過ぎて人生が何回あっても足りなくなってしまいます。仏陀は多分そのような状況を戒め、「知足」を旨とする生き方を説いたのだと思います。私も別に「知足」の境地の高みに辿り着いたなどと奢る気はありませんが、パッと思い返してみても、特にこの映画の主人公に頼みたいことが見当たりません。敢えて言うなら、やや右傾化した考えが湧きやすいので、「竹島と北方領土から不法外国人をいなくしてください」とか試しに言って引き換え条件を聞いてみるかもしれませんが、その程度しか思いつきません。

 寧ろ、主人公のそんな役回りに関心を持つ、女給の方に共感できます。私が主人公なら多分、ノートを読み耽ってしまって、相談には応じることができないのではないかと思えます。その意味で、少々映画全体のコンセプト自体に共感が湧かない部分があるものの、「願いを持つなら相応の犠牲を覚悟して貫徹すること」を人々に妥協なく迫る主人公の姿には、共感できる部分が多かったので、DVDは買いです。

追記:
 これが『脱兎見!…』の400個目の記事エントリーですが、作品で言うと二度観して感想をアップしている作品が二件あるので、まだ398本目です。