『アリータ:バトル・エンジェル』

 封切から二週間少々の3月初旬の日曜日、夜9時55分からの終電枠の回をバルト9で観て来ました。終了は12時5分。日曜なので深夜でも家に帰らねばならない人が多いはずですが、それでもシアターには若い年齢層の客を中心に20人以上の人々がいました。女性客は少なく、ほとんどが男性とのカップルでした。男性が7割以上だったように記憶しますが、単独客はぽつぽつと私ぐらいに高齢の客も目立ちました。

 このタイミングでの1日に3回の上映はまあまあの人気であることの証左です。しかし、1日のうちの3回目の上映であるこの回は、ロビーと同階の小型のシアターが割り当てられていました。コアなファンでなくてはこの作品の魅力を見いだせないのかもしれません。本来、監督を務めるはずだったジェームズ・キャメロンの作品としてスタートから告知できたのなら、もう少々話題を作れた可能性もあるかと思います。

 この作品は、その上質な世界観と主人公の魅力で多くの強烈なファンを生み出したコミック『銃夢』を原作とする作品です。海外でも様々なクリエイターに影響を与えた和製コミックを上げるとしたら、多分、『攻殻機動隊』、『AKIRA』、そしてこの『銃夢』ではないかと思います。

『攻殻機動隊』はウィキに拠ると1989年が初出で、10年後にウォシャウスキー兄弟(後に二人とも性転換して姉妹になっていますが)による『マトリックス』の世界を創り上げたと言われています。(ウィキを見ると、企画自体は『攻殻機動隊』のよりも早かったと言われていますが、『攻殻機動隊』のコミックを見て、「これを実写映画化したい」と考えたのは間違いないようです。)

『AKIRA』は初出がさらに早く1982年です。かなり早い段階から海外でも人気を呼び、2000年過ぎから米国での実写映画化の話が持ち上がっていますが、いまだに実現していません。日本でのアニメ映画は1988年に公開されています。これも『マトリックス』に影響を与えたとウィキには書かれています。

 そして、『銃夢』は三作の中で最も登場が遅く1991年です。OVAが早くも1993年には制作され、それを観た、『パシフィック・リム』などの作品群でも和製SFの強烈なファンと分かるギレルモ・デル・トロが1999年にジェームズ・キャメロンに紹介するや否や、彼はそのコンセプトに惚れこみ2000年には映画化権を獲得したと言われています。(ちなみに、ギレルモ・デル・トロとは好きな作品を見せ合う関係のようで、ウィキに拠れば「ギレルモ・デル・トロはキャメロンの勧めで見た、押井守の『機動警察パトレイバー』が、2013年の『パシフィック・リム』に多大な影響を与えたと語っている」とのことです。)

 ジェームズ・キャメロンは、『銃夢』の映画化を進めようとしますが、主に『アバター』(米国映画)本編と未だ公開されていないその続編の制作にかかりっきりで手が回らず、私は『シン・シティ』シリーズと他数本ぐらいしか作品を知らないロバート・ロドリゲスが監督することになったと言います。ジェームズ・キャメロンは既に細かなキャラ設定や長大な脚本を創り上げていたと言われ、その脚本を圧縮してまとめることができたことで、ジェームズ・キャメロンから最終的なゴー・サインが出たという話のようです。未だに完成しない『AKIRA』の実写映画もそうですが、権利取得から脚本の完成、そして実際の制作へと、様々な調整の必要な時間のかかる映画づくりのプロセスが実感される話です。

 私は三つの作品の中で最も好きなのが『攻殻機動隊』で、その緻密に創り上げられた近未来社会の設定と、そこで繰り広げられる組織間の謀略戦が際立った魅力となっていて、さらに主人公の「少佐」が最高にカッコいいというおまけつきです。スカヨハの主演の実写映画化作品は、原作アニメへのリスペクトも十分に感じられるものの、少佐の人格が全然ダメで私は評価できませんでしたが、アニメのシリーズは最新の『ARISE』シリーズを除いてすべてがダントツに洗練されています。

 その『攻殻機動隊』を含めて私はコミックで三作とも読んでいません。『攻殻機動隊』でさえ、実は、見始めたのがシリーズがだいぶ進んだ後の『イノセンス』からで、それ以前の作品群に遡って行ってアニメ作品はほぼ全部観ました。『AKIRA』は登場人物が暴走族の子供で能力がよく分からない超能力戦の話であることなどから、何となく関心が持てないままに今に至っています。その世界観にハマっている人が私の周囲にもたくさんいることを知っていますが、どうも、伝え聞く面白さに共感できないままです。

『銃夢』の方は連載が、私が留学中に行われていたので、“発見”がずっと遅れてしまっていて、気づいた時には第一シリーズの連載が終了した後でした。それでもかなり広い人気を獲得したようで、インターネットもない時代、床屋や病院などの待合室の本棚にあるコミックには、ぽつぽつと『銃夢』が置かれていました。私はそうした行く先々で、散発的に『銃夢』を読んで、面白いと思っていたものの、「銃夢」と書いて「ガンム」と読ませる、今で言う「キラキラネーム」的な発想がどうにも許せず、コミックを自分で買いそろえるには至りませんでした。それでも、多分、私が初めて見た本格的に描かれたスチームパンク的な世界観も知っていましたし、主だった物語の展開もざっくりは把握している状態でした。

 しかし、この映画のトレーラーを観た時、これが『銃夢』の実写映画化作品であることには全く気付きませんでした。単にコミックの『銃夢』を拾い読みしていた当時から長い時間が流れて、その間、『銃夢』は続編がぽつぽつと出続けていたものの、大きく話題になることもなく、私の知る範囲に浮かび上がってくることがなかったことによります。トレーラーを何度か頻繁に見て、「これ、実写の映画なのか?」という単純な疑問を持ったのが、第一段階の関心事でした。同じトレーラーの筈なのに、主人公のアリータはよくできた3DCGである一方で、他のシーンで写っている他の登場人物は全部生身の人間だったからです。

 過去に如何にも平坦な描画のディズニーキャラクターが実写の物語に重ねあわせられているような作品を観たことはあります。手塚治虫原作の『バンパイヤ』の実写テレビドラマでは、バンパイヤの水谷豊の変身シーンとその後の動物フォームが唐突に挿入されるアニメになっていましたが、あまり日本の作品では為されない手法だと私は認識しています。それぐらい、アニメが実写に混ざり込むことには、2Dアニメの描画表現では無理があったのだと思います。

 3DCGの時代になってからでも、アニメと実写の混合の事例は少なく、多分一番売れたのはジェームズ・キャメロンの前述の『アバター』(米国作品)だと思いますが、3DCGキャラなのは原色のカラダを持つ異星人なので、大分違和感が少なくなっているように思います。(私はあの異星人の顔つきが好きになれないのと、物語展開がまるまる『ダンス・ウィズ・ウルブズ』と被っていて好きになれず、観ていません。私にとっての『アバター』は橋本愛主演の佳作です。)そんな中で普通っぽい人間のキャラが3Dになって、本当に実写の世界の中に溶け込んでいる作品は、初めて見るように感じられたのです。

 その関心から、主人公の少女をまじまじと見るようになり、チラシも手に入れ、解説を読んで初めてこの作品が『銃夢』の実写化作品であることを知り、さらに関心を膨らませられました。『銃夢』の主人公はガリィという名前なのですが、“gully” は峡谷で “gurry” は魚の腐った肉のことで、ロクな意味がなく、「ギャリー」っぽい発音にしても “gally” は驚かせることで、“Garry” は男性の名前ですから、イメージが合いません。「アリータ」にはコミックの英訳の段階で変更されたとパンフに書かれています。デル・トロもキャメロンも最初から主人公を「アリータ」として知ったことになります。この名前の違いも『銃夢』が原作であることがピンとこなかった大きな原因の一つです。

 或る時、長めのトレーラーを見る機会がありましたが、そこには、キャメロンの日本のファン向けのコメントもつけられており、本人が出てきて「“グンム” は素晴らしい作品だ」のようなことを、群馬県のPR映像かと思うような発音でのたまうのでした。英語の “gun” からこの名称になっていることに気付いているのかどうかはかなり怪しく感じられましたが、少なくとも、彼の強い思い入れが制作の背景にあることだけは分かりました。実際、この作品には数々の『銃夢』のエピソードやキャラが盛り込まれていますし、アリータが黒髪で漆黒の瞳を持っていることなどからも、この作品が所謂「お粗末ハリウッド・リメイクもの」では全くないことが分かります。原作への忠実度では、『ジョジョの奇妙な冒険…』には及びませんが、『ガッチャマン』や『破裏拳ポリマー』を遥かに上回っています。封切近くになってから公開されていたジェームズ・キャメロンのコメントは、多分、先述のようにプロモーションの梃入れにキャメロンを動員しなくては危ういと考えた配給側の配慮の結果なのではないだろうかと思えます。

 日本のコミックでも人間の顔において目は非常に大きく描かれますが、それは、特にここ近年のディズニーのアニメ作品(含むピクサー作品)においてもかなり顕著で、3DCGの世界になってよりその傾向が強まったように私には思えます。(たとえば、先日劇場で観たばかりの『シュガー・ラッシュ:オンライン』でも例外がほとんどいません。)その顔がそのまま実写の人々の中に紛れ込んだらどうなるかという壮大な実験が、この作品の最も話題となっているポイントのようで、トレーラーが公開されると同時に米国では、その賛否がかなり喧しい状態だったとパンフに書かれています。

 私にとっても、(目そのものは、或る意味どうでも良いのですが)3Dアニメキャラが実写に紛れ込んだ違和感はどれほどのものかが、最大の関心事でこの作品を観に行こうと思い立ちました。結論から言うと、不思議なほどに違和感がありません。もし近い将来、現在のセックス系用途の精巧なドールがそのまま汎用化された様な極近未来型ドールが、siriのような機能を内蔵してきちんと話しつつ、pepper君よりもより精巧に動き回るようになったら、多分、こんな感じになるんだろうなと言う、違和感が解消していく認識変化のプロセスが映画鑑賞の最中に堪能できるのです。

 この一点でもDVDを買う価値が間違いなくあるのですが、その主人公の成長譚がきちんと紡がれているのもこの作品の魅力です。人間に近く人間ではない者たちの“心”の変遷はSF作品では頻繁に主題とされていますが、この作品においてはその味付けが少しに抑えられていて、実質、自身の暴力性と向き合いつつ成長し自立していく少女の物語として見る方が正解であろうと思います。その観点からでもかなり上質な作品になっていると思います。それは、原作の幾つかあるエピソードを上手くまとめつつ圧縮し、原作の登場人物達の設定をかなり忠実に反映したことに一つの成功のカギがあると思えてなりません。

 自信が出演するトレーラーでジェームズ・キャメロンは、これは家族の物語でもあると述べていますが、原作ではかなり若かったサイバー医師のイドは、本作ではかなり高齢の設定になっていて、その父性愛を受けて育つアリータと言う切り口も見える作品です。しかし、ウィキにも書かれている通り、原作の若いイドが抱く「自分の人形としてのガリィ」への拘りが消えてしまっている点が、“美しくなりすぎている”気がしないではありません。

 ウィキの解説が、そのような精神構造を「ピグマリオンコンプレックスめいた偏愛」と表現しているのを見て、初めてこの言葉を知りました。この言葉は和製英語で、本来、英語では「ピュグマリオニズム」と言うようですが、ウィキに拠れば「狭義には人形偏愛症(人形愛)を意味する用語。心のない対象である「人形」を愛するディスコミュニケーションの一種とされるが、より広義では女性を人形のように扱う性癖も意味する」とのことで、狭義でも広義でも社会によく見られる現象のように思え、非常に勉強になりました。

 この作品の映画化権を取得した当時、ジェームズ・キャメロンは映画の制作から離れ、ジェシカ・アルバ主演のテレビドラマ『ダーク・エンジェル』に関わっていたはずですが、その主人公マックスのキャラの能力設定やビジュアル設定は、ガリィと『AKIRA』の誰かを混ぜ合わせた感じになっていて、ここでも、戦いの世界に身を投じる少女の話になっています。

 ジェームズ・キャメロンの思い入れを強く反映したこの作品は、どうも続編が出るようなエンディングを迎えていて、現実に『銃夢』のファースト・シリーズの主に前半を描いた内容にとどまっていますから、続編の可能性はかなり大きいものと思います。楽しみです。好きになれない『アバター』(米国映画)よりも多くシリーズ化され、より売れて欲しいように思います。