『翔んで埼玉』 番外編@小樽

 2月下旬の封切から約2週間の日曜日。またいつもの小樽築港駅間近の映画館に足を運び、娘と午後2時からの回を娘と共に観て来ました。1日4回の上映です。札幌市内二ヶ所の上映館も、同様に1日4回から5回の上映をしているようで、それなりに人気作であるようです。テレビをあまり見ない私は、この作品のテレビCMが流れているのかどうか知りませんが、マイナーな、というよりも、キワモノな作品だと思います。それが地味なバズなどを経て、観客を動員し続けているのかなと思えます。

 娘は比較的スラップスティック・テイストのコメディが好きであるようで、過去に一緒に観た中では、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』や、少々前ですが『テルマエ・ロマエ』などが、その範疇に入ると思います。今回もその観点から選択なのだと思います。私の方は、MovieWalkerの紹介文の冒頭に「埼玉に対する自虐的な笑いが話題となり、1982年の発表から30年以上経った2015年に復刊し、大ヒットした魔夜峰央の同名コミックを…」とあるような、埼玉県の自虐ネタの復活の背景などを知ってみたく思ったのが一番の観たい理由で、続いて、キワモノ役の多い二階堂ふみの新たなキワモノ役の鑑賞体験を“コレクション”してみたいと思ったのが二義的な感じの理由です。

 シアターに入ると、娘も周りを見渡して驚くぐらいに若い年齢層が全くいない状態でした。明らかに高校生のウチの娘が一番若く、残りは下が40代前半ぐらい、上は60代のどこかといった感じでした。男女構成比はほぼ半々ぐらいで、夫婦であろう二人連れが多いのも客層の特徴だと思います。幾つかの映画サイトのレビュー欄を見ても、全国的にこの年齢層であるようで、なぜこいうことが起きるのかは今一つ分かりません。

 少なくとも札幌市内の中高年層で見る限り、若い頃に東京に住んで働いていたという人は(勿論多数派などでは決してありませんが)それなりの割合で存在します。私も20歳の時に上京した際に、1都3県ぐらいの住所に何となく序列や階級があることを感じ取ることが頻繁にありました。北海道からの上京者は、基本的にそのランク外どころか相手にされていない傍観者の立場に置かれる中、その序列や階級を面白く観察できた経験があるものと思います。そう言った人々に少なくとも関東圏エリア以外では関心を湧かせることができたのが、地方での動員を作り上げた要因なのかなと思えなくもありません。

 以前、『京都ぎらい』という京都の中での住所による序列とそれを根拠とした差別意識を暴く書籍が話題になったことがあります。その内容に共感する人は多かったようで、その後、続編も出ています。京都に住んだことのある人は、「まさに!」と思いたくてそれらを読んで納得するのでしょう。それと同じように、東京に住んだことのある人々の間で、1都3県(実際には「チバラキ」のように茨城や、さらに「秘境群馬」など劇中には登場しますが…)の序列が潜在的に意識されていたものを、敢えて極端に誇張して暴いて見せる所がこの作品の魅力と考えるべきなのでしょう。

 少なくとも私が20歳で上京した頃には、「ダ埼玉」という表現は存在しました。漸く、池袋まで新設された埼京線が動き始めた時代です。当時電電公社-NTTに勤めていた私は、山手線のお古の緑ベタ塗りの車両を使ったダサい埼京線開通の記念テレホンカードをノルマで購入させられました。(お古車両が運行していたのは、特に埼京線だけではなく、当時南武線なども、京浜東北線や総武線のお古車両が適当につなぎ合わされていることがあり、3色マダラの列車だったりしていますので、ダ埼玉だけが差別されていたわけではありません。)

 当時上京して世田谷区と調布の境目辺りに住んでいた私からすると、埼玉は行く機会がない辺境のベッドタウンでしかありませんでした。そして、当時の私は寧ろ都内の中の地域別序列を意識することが多かったように思います。つい最近も、私が今はやりの「読解力の低い人が多い実態の話」をある経営者に話したら、「そんな読解力が低い人間ばかりなのは、新小岩とか東側の方の話だと思うが…」と真顔で言われたことがあります。それなりに良識がある人と評価されている経営者だったので、私は非常に面白くその発言を受け止めました。また、荒川区内の飲食店での会話で、「有事の際には隅田川にかかる区境の橋を落として、足立区民が押し寄せるのを防がなくては…」などと話す人に時々お目にかかります。『ヘタリア』の擬人化された世界の国々のように東京23区を擬人化した舞台もあると聞いたことがあるようですが、そこでも23区間での序列が意識されていて、基本的に西高東低の構造になっているようです。

 そんな近隣地域間の序列を「差別」にまで格上げし、ギャグとして見せてくれたのがこの作品です。自分が水泳が好きでもないのに、海岸沿いの街で育った私は、東京・千葉・神奈川が自慢する「海がある」ことの優位性が全く分かりませんでしたが、一応、海があることは非常に重要なこととされています。そうした根拠その他は共感できないものが多々ありましたが、ギャグそのものはかなり笑えました。隠れている埼玉県人を暴くために大判の「しろこばと煎餅」を踏絵に使うなども笑えましたし、そのしろこばとをモチーフにした埼玉県人のポーズが埼玉県人には無条件に普及している様子自体が笑えます。

 さらにそれをより笑えるものにしているのが、演じている俳優陣の大真面目さです。大真面目に非現実的な差別側の差別言動と被差別側の苦しみを全力で演じているのです。その中でも、やはり、二階堂ふみはキレッキレのデキになっているように思えます。

 二階堂ふみが金魚の役を演じた『蜜のあわれ』の感想には…

「この映画を私が観に行った理由は、二階堂ふみの存在です。純粋にファンと言うよりは、二階堂ふみが躊躇なく引き受けるおかしな役柄の広がりを見極めたいと言うのが最大の動機と自覚しています。
 両親に絞首台を用意されつつある女子高生(『ヒミズ』)、連続爆破魔(『脳男』)、ブチ切れて血塗れの殺人劇に至る極道娘(『地獄でなぜ悪い』)、自分の父との肉体関係に溺れる殺人少女(『私の男』)、酒を飲んでは吐瀉しまくるアイドル歌手(『日々ロック』)、耳を削がれても悪態をつくイカレ女子学生(『渇き。』)、料理を作りに見知らぬ家に押しかけるメンヘラ元風俗嬢(『四十九日のレシピ』)。このように書いてみると、(勿論、それ以外にも『ほとりの朔子』や『味園ユニバース』などDVDで観た“フツー”の作品は存在しますが)枚挙に暇がないと言うよりも、彼女が意図的にキワモノの役を選んでいるとしか思えません。クラスの同級生をほぼ全員射殺されるのを目の当たりにして生き残る女子高生役の『悪の教典』でさえ、かなりまともな方に見えるほどです」

と書いています。今回は(GACKT演じるキャラとの)BLにハマる男子高校生役です。制作側がオファーするのか本人がどんどんそういう役を拾おうと積極的に動き回っているのか分かりませんが、このような役ばかり引き受ける女優というのは、少なくとも現時点で他に例がないように思えてなりません。敢えて無理矢理探すとしたら、アダルト系に大分偏っていますが、亜紗美の役柄の広さぐらいしか広さ的に見合うものがないぐらいに感じられます。

 役柄に突飛なものがないものの、B級の変な映画に好んで出ているように見えるという意味では、今回の出演者の中で麻生久美子が相応に目立っています。『リング0 バースデイ』や『回路』、『怪談』などの正攻法ホラー系にも出ていますし、そこそこ大作ながら、評価が微妙だったり残念だったりする『魔界転生』、『CASSHERN』、『どろろ』などにもかなり目立つ役で登場します。『カンゾー先生』、『舟を編む』や『散り椿』など大真面目な映画にも“きちんと”出演する一方、主に変な人(たち)の変な人生の一場面を描く『eiko(エイコ)』、『インスタント沼』、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、『グッモーエビアン!』などで主役を張っていますし、実験的でマイナーながら評価の高い『ひまわり』、『0CM4』なども彼女の存在なしには成立していません。私が印象に残っている麻生久美子は『罪とか罰とか』の彼女です。デコトラの助手席に座る謎の瞑想女と言う違和感のある、役作りが困難を極めそうな役を易々と演じていました。『幸運の壺』の彼女も印象的です。主人公の鬼嫁なのですが、初盤で死亡しその後主人公が扱いに困る遺体のまま、ずっと出演し続けているのです。二階堂ふみのようなキワモノの役柄が多い訳ではないですが、作品のバリエーションではやたらに広く、更に意外に多作の女優さんだと思います。今回の作品でも千葉出身で埼玉に嫁いだ嫁で、物語全体の狂言回し的な重要な役割を夫役のブラザートムと果たしています。

 物語構造自体が凄く面白いかと言われれば、誇張が過ぎて非現実的でツラいはツラいように感じられるのですが、前述のしらこばと煎餅踏絵など、笑える要素はいくらでも見つかります。また、地域間序列を抉ってみせたという意味では、社会観格差などをよく戦国時代などに喩えて面白おかしく説明した往年の名作テレビ番組『カノッサの屈辱』を彷彿とさせるようにも思えました。何度も見たくなる『テルマエ・ロマエ』のような構造的な面白さが欠けていますが、笑える名作であり、二階堂ふみのぶっ飛び具合は楽しめるので、ギリギリDVDは買いです。

追記:
 終盤で埼玉県民による弛まぬ地下活動によって、全国が埼玉化しているという話が出てきます。それは全国が埼玉化しているのではなく、全国が三浦展の造語に拠れば「ファスト風土化」しているに過ぎないように思えます。全国区で進展するファスト風土化は人口集中地帯の近郊にやや色濃く現れるように私は思います。その意味で、埼玉県はファスト風土化の進展が顕著で、全国の他の地域(多分、東名阪の中心部以外の地域と言うことでしょうが…)が埼玉化しているように見えるということなのだろうと思います。私は三浦展の「ファスト風土」の概念よりも、宮台真司の「まぼろしの郊外」の議論の方が好ましく思えますが。