『人魚の眠る家』

 11月中旬の封切から約三週間。今でも根強い人気で新宿ピカデリーでは1日に5回も上映されています。その5回の中のど真ん中、14時5分の回を週に一度の性差別料金の水曜日に観て来ました。実は5回のうちの9時台の最初の回を観に行って、30分少々後に始まるバルト9の『GODZILLA 星を喰う者』を観に行こうと思っていました。ところが当日仕事のない油断から寝過ごしてしまったため、先に『GODZILLA 星を喰う者』をバルト9で観てから、間に合うピカデリーの回に赴くことにした結果、1日の第三回目の回になったのです。

『GODZILLA 星を喰う者』がバルト9で終了してから、『人魚の眠る家』がピカデリーで始まるまで、その間20分。バルト9に行く前に先にピカデリーに寄って座席を指定してチケットを購入しておくことにしました。11時半ぐらいの段階で14時5分の回の座席は6割以上埋まっていて、通路沿いの席を取ろうとすると前から5列目になってしまう状態でした。チケットを買ってから、バルト9まで徒歩で移動して、所要時間を計測し、『GODZILLA 星を喰う者』終了後に十分間に合うことを確認しておきました。おまけにいつもは鑑賞後に購入するパンフレットも『GODZILLA 星を喰う者』のものは鑑賞前に買っておき、上映終了後のすぐの移動に備えました。

 と言うような下準備を経て、10分前の入場開始直後にピカデリーに到着し、余裕で着席することができました。私が劇場映画鑑賞する中ではかなり混雑している方だと思います。多分座席数できちんと数えたら、8割強と言った稼働なのだと思いますが、実感としてはほぼ満席でした。性差別料金デーだけあって、当然女性客は多くいましたが、ざっと見では、6割程度が女性で、男性もそれなりに多かったように思います。老若男女入り混じっては居たものの、全体に年齢層は高めに感じられました。誰か俳優のファンというよりは、東野圭吾作品のファンが「東野圭吾作家デビュー30周年記念作」を観に来ているということなのではないかと思います。それにしても、やたらに長続きする人気です。

 私もこの作品を観たいと思った動機はやはり東野圭吾作品であることが大きいと思います。もちろん他にもマイナー動機が細かく重なっていますが、基本はこのポイントが大きいと思っています。小説を読むことが殆どない私は小説の映画化作品によってその原作や作家の存在やテイストを知ることになります。私が東野圭吾を知ったのは『秘密』です。色気が薄い頃の広末涼子の最後の作品ではないかと思いますが、2007年に『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』を劇場で観て、広末涼子の映画出演作をDVDで観ようと思い立ち、既に気に入ってDVDを持っていた『花とアリス』以外の主な作品2、3を観たように思っています。その中の一本が『秘密』でした。

 それ以降、東野圭吾作品はどうも私の中で劇場鑑賞作品の優先順位から微妙に外れ続け、結果的に『麒麟の翼 劇場版・新参者』、『天空の蜂』、『疾風ロンド』、『ラプラスの魔女』をDVDで観ることになりました。微妙に外れ続けるマイナス要因の一つは、東野圭吾作品の中で初めて劇場で観た『プラチナデータ』の評価が今一だったこともあるように思います。『プラチナデータ』は、ほぼ同時期に劇場で観た『脳男』に多少テイストが似ていて、『脳男』の方ががっくりな評価だったせいで相対的に何とか観られるようには感じましたが、かなり辛い作品でした。ただ、ここ最近、DVDで観てきた先述のような作品群がまあまあ面白いと感じられたのと、人間のロボット化のような「家の中に近未来技術がある生活」のようなものが観られるのではないかと言った期待からこの作品を観に行くことにしたものです。

 ここ数週間、人気が鰻登りとの評判の『ボヘミアン・ラプソディ』の陰に隠れてはいるものの、この作品もかなり人気との噂があり、ここまで引っ張って観たのですが、それでも、これほどに混んでいました。

 ネット上の多くのレビューに使われている表現ですが、「とても考えさせられる作品」です。生命の有無を何によって判断するかという問題、親族にせよ生殺与奪の権利をどこまで持てるのかという問題、子供に対する親のエゴはどの範囲まで通常とみなされるのかという問題、介護の問題などなどが全部ぎゅうぎゅうに詰め込まれた120分なのです。

 作品の中の状況は、MovieWalkerの物語紹介の一部を抜粋引用すると…

「だがある日、娘の瑞穂がプールで溺れ、意識不明になったという悲報が届く。意識不明のまま回復の見込みがない娘を前に、生かし続けるか、死を受け入れるかという究極の選択を迫られた二人は、和昌の会社の最先端技術を駆使して前例のない延命治療を開始。治療の結果、娘はただ眠っているかのように美しい姿を取り戻していくが…」

と言うことになっていて、小学校のお受験を控えた先端テクノロジー系会社社長の令嬢が、最終診断を受けていないものの実質的な脳死状態で延々と活かされている様子を描いた物語です。ただの脳死状態なら、まだ或る程度の予測の範疇の物語になるのですが、西島秀俊演じる父が、まずは横隔膜ペースメーカーで人工呼吸器なしで生命が維持できるようにし、自社の最先端技術であるANC(Artificial neural connection 人工神経接続技術)によって、脊髄に人為的に電気信号を流しカラダの部位を動かすことまで実現するのです。

 植物状態で何もしない脳に変わって、親や第三者が脊髄に電気信号を流すことで、手や足を上げたり、渡されたプレゼントを受け取ったり、笑顔を作ったりできるようになるということです。当然、植物状態の幼女の意志はありませんし、当然、あったとしてもそれは無視されているということになります。詰まる所、(話すことまではしませんが)腹話術の人形のような状態で、篠原涼子演じる母が自分で操作して遊ぶ人形遊びの対象のような存在になっているのです。この映画の恐ろしい所は、徐々に日常的にあり得る眠る幼女と母親の風景から、自分の娘の生の死体を弄ぶ母親の悍ましい姿に、滑らかに物語を移行することに成功していることです。

 自宅で介護したいが人工呼吸器が在宅の場合は気管を切開して取り付けることになる。それを避けるために、日本では事例が少ない横隔膜ペースメーカーの“取り付け”をするというのは、お金の余裕のある親なら考え無くはないことであろうと思います。なぜ、屍人形のような状態で体を動かす必要が出るのかを、映画を観る前から概ね技術内容を知っていた私は疑問に思っていました。しかし、寝たきりになりかけている老人の筋肉の退化を防いだり、代謝を上げた状態に維持するために、筋肉運動をさせる原理は確かに理解できます。映画を観てそれが理解できました。おまけに、劇中では、「横隔膜ペースメーカーをつけて横隔膜の筋肉を動かすだけでも、代謝が上がり自律的に健康を維持する面が出てきている」などと前振りがあるのです。ならば、もっと筋肉を使えば、植物状態のカラダの健康を維持できるというのは必然です。物凄く練られたプロットだと思いました。

 健康を維持するために電気信号によって筋肉を動かすというのは、原理的には、電極のついたベルト状のもので腹筋を鍛えて痩せるための器具と同じですから納得できます。しかし、植物状態の娘が生きている時のように動く姿を見てしまった母が、娘を人形化していく所から、あらぬ方向に話が進むようになります。

 屍人形状態の悍ましさに最初に気づくのは、その研究に自分の婚約者が没頭してしまい、婚約者が“盗られた”と認識して乗り込んでくる女性です。川栄李奈がこの役をこなしていますが、不気味さにたじろいで、眠る幼女と二人きりで部屋に残されているのに耐えられず、脅えて家を去ってしまうなどの場面は、とても信憑性があります。その後も、控えめな婚約者的な立ち位置で、ストーリーに積極的に関与していませんが、のめり込んでいく若き研究者の様子を際立たせるコントラストを作るのに大成功しているように思えます。川栄李奈は『亜人』を観て、電車の中のエステサロンのCM動画でも認識できるようになり、『嘘を愛する女』を観て、映画出演作のポスターを見てもまあまあ認識できるようになりました。その後、東京シティ競馬の大きな屋外看板でも認識できるようになりました。

 最近、初めて読んだ武田砂鉄の作品で『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』と言う本の中に、2014年に岩手県であったAKB握手会の切り付け男事件についての記述があり、そんな危険な場に、「ファンはお友達ですよ」とAKBメンバーを出させ続けることの構造が描かれていて、その被害者として川栄李奈の名が挙げられていました。AKBにほとんど関心が持てず、フルネームで言えるメンバーが歴代で5人に満たない私は、事件の報道は知っていましたが、川栄李奈がその渦中にいたことは知りませんでした。

 その後、偶然ネットで、「私は去年の事件があって、握手会に出られなくなりました。AKB48にとって握手会は大事だけど、私は出られませんし、これからも出ることはありません。まわりの人は気にしなくてもいいと言ってくださいますが、私は気にしてしまって。私はやりたいことをできる限りやりたい。お芝居の仕事がすごく好きです。まわりの人から刺激を受けて、一から夢を追いかけたい」と卒業時に語ったことや、「スタッフや監督に使いやすい時にいられる女優でいたい」と強い信念を語った記事などを目にするに至り、俄然、この女優に関心が湧いてはいました。そんな中で、過去の私が映画作品で観た中では、最も厚みのある彼女の存在感が堪能できたように思います。

 しかし、その影も霞むほどに、この作品で私に強い印象を焼き付けたのは幼女の祖母を演じる松坂慶子です。彼女は母方の祖母で、幼女を他の自分の孫二人とプールに連れて行き、ほんの一瞬の目を離したすきに実質的に幼女を“溺死”させてしまう役柄です。病院に離婚寸前だった仮面夫婦の両親が駆け付けた時の彼女の慟哭は凄まじく、自分の孫を(事実上)殺してしまった悔恨と、幼女の母である娘に対する謝罪のしようもない呵責は、シアター内を簡単に呑み込んでしまったように思います。

「ごめんなさい。こんなことなら私が死ねばよかった。私の命なんて代わりに幾らでもあげるのに」という叫び悶える松坂慶子の姿は胸を打ちます。特に私がこの松坂慶子の姿に心打たれるのは、私もかつて祖母に全く同じ言葉を言わせた状況になったからです。北海道の田舎町の裕福では決してない母子家庭(+母の母である祖母がいたので3人家族です)で育った私は、洋裁で母が日夜働く間、祖母に面倒を看て貰っていました。平屋の小さな家に住んでいた私は家の中に階段がある状態を知りませんでした。小学校低学年の頃、祖母が友人が建てつつある新しくて大きい家を見に行こうと、私を連れて行ってくれたことがあります。記憶が曖昧ですが雪のない季節のことでした。

 その大きな一軒家はまだ建前直前の状態で、壁が漸く張られたような木の枠組みが露わな状態でした。多分祖母は友人に断わって、私に家を見せてやろうと思ったのだと思います。家がこんな風にできて行くのを知って私は大興奮でした。そしてできたばかりの木製の屋内階段を上って二階に行きました。広い何もないスペースの中に床に四角い1.5メートル四方ほどのくぼみがあり、木の床があるように見えたので、「何だろう」とそこに入った途端、その床が抜け一階に真っ逆さまに落下しました。そのくぼみは大きな屋内煙突を通すための穴で、穴をただ開口させておくとモノが落下して危険なので、ベニヤ板で蓋をしていただけのものだったのです。

 落ちた先は最も煙が出やすい場所である台所で、そこには備え付けの巨大なシンクが置かれたばかりでした。その角に顔面を強打し、顎を骨折し顔に数センチの裂け目ができ、片腕も折りました。顔面蒼白で思考も何もできなくなった祖母は、慌てて血みどろの顔をした私を背負い無我夢中で帰宅して、そこに居た私の母に向かい、この松坂慶子と(私の知る限り)全く同じ言葉を叫んだと言います。そして祖母は神社に行き私が退院するまで毎晩水垢離で私の回復を祈願したと聞きます。もちろん、その時も「私の命を代わりに」と祈っていたことでしょう。その祖母も私が中学校二年の時に癌で亡くなりました。祖母に育ててもらった私には、この松坂慶子演じる祖母の悲痛が突き刺さるように分かるつもりです。

 カラダの運動回復で脳も刺激され、元々僅かにもない植物状態からの回復の可能性がほんの僅かでも増える。そんな素人考えの淡い期待を松坂慶子の祈りと映画の展開は観客に抱かせます。そして母の“人形遊び”について関係者が一堂に会して吐露する所から、全員が漸く共通の娘の存在とその生死に対する認識に至り、大雑把にいうと大団円に物語は向かいます。

 物語の終盤、幼女は母の夢枕に立ち、感謝の言葉を述べて旅立ちます。その後カラダの方の容体も悪化し始めた時、両親は決然と臓器提供を前提とした脳死判定を要請するのでした。その心臓を移植された少年が元気に家を出て、もと幼女たちが住んでいた家の、今は更地になった跡地を訪れる場面で映画は終わります。流石に大団円の後は後味良く終わりたかったということなのかもしれません。

 それでも、これがこれからどんどん衰えていくだけの老人の介護のケースで、そのような技術があったらどう考えるべきかとか、今回のような住宅地の中に豪邸を持つような富裕層の話ではなかったらどうなるのかとか、夢枕に立って別れを告げてくれなかったらどうなっていたのかとか、ただ苦しみや懊悩が増す一方のような展開も十分考えられます。そこから辛うじてこの作品は軌道を逸らし、相応の安らぎを呈示して終わっていますが、比較的最近『もう親を捨てるしかない …』で激増する一方の介護殺人の実態を読んだばかりの私の頭から、有り得る別の物語の選択肢が消えることはありませんでした。

 一方で、電気仕掛けで勝手に動かされるだけの植物状態の幼女をずっとこのブログで“屍人形”呼ばわりをしてきた私も、ふと考えると、「ボケ防止のために会話できるAIの人形を将来買ったらいいんだろうな」などと思いますし、「それが可愛い少女のドールなどだったら、もっといいのかな」などとも思います。現実にプリモプエルなどの商品はその役割を果たしつつあると思います。死なない対象を付き合う相手に選ぶなら、いっそ、元々近しく愛おしい対象が死んだ後に、これ以上死なない対象としてそばにいさせることを選ぶというのは、道理としておかしいことではないようにも思えます。

 死んだ人間は第三者の記憶の中に生きるというのは、よく言われる定番の“常識”ですが、たとえば本人もそれを希望し、愛し愛される関係の相手が死ぬまで、死者としてそばにいることなら、許容されても良いように感じられるのです。『コックと泥棒、その妻と愛人』に登場する食品化された死体もそのような価値を持っているようでしたし、『トランセンデンス』のジョニデ演じる夫はアップロードされネット空間に居続け、再実体化までする勢いでした。一旦データ化されたジョニデは元の生身の頃のジョニデと考え方が違うということで、パチモン的な評価を最終的にされて否定されてしまいましたが、どちらが本物と言う問題でもないように私には思います。人間でさえ結構簡単に価値観や思考パターンが変わるものだと思うからです。

 埋葬手続きが煩雑なので、私もやって貰いたいと思う火葬を経て遺骨からダイアモンドを作成するのだって、圧縮したとはいえ遺体のかなり大部分を遺族が身に付けたりしつつ保存することを指しています。それなら、この母の行動もかなり許容されるべきもののようにも思えるのです。いっそ、臓器提供が終わった後の遺体をベースに(遺体損壊などの罪に問われないことを確認の上)屍人形を作成したらどうだったのかなどとも勢い余って考えてしまいます。確かに死んでしまっていますが、ダイヤ化した遺骨だって生きてはいません。レーニン廟の一一般個人版のようなものと考えることはできなくはないように思うのです。

 生命の尊厳を冒涜する気は毛頭ありませんが、科学技術の発達や価値観の多様化によって、心の持っていきどころの選択肢が増えてしまっていて、不謹慎そのものであっても、思考実験の余地は大きく広がっているように思います。確かに色々考えさせられます。問題作過ぎてDVDは買いです