『四月になれば彼女は』

 3月22日の封切から既に6週間ぐらい。日曜日の午後8時50分の回を新宿のピカデリーで観て来ました。封切から1ヶ月以上経って、まだ新宿マルチプレックス3館で上映しています。都内に拡大すると27ヶ所で上映しており、かなりの人気作です。ただ、上映回数を見ていると激減して来ており、新宿3館でもすべて1日1回になっています。本当は最近頻繁に行く結果になっている新宿ピカデリーを避けてバルト9に行きたかったのですが、バルト9での上映は午前早めだったので致し方なく夜時間に設定されている新宿ピカデリーに行きました。

 私はこの作品を劇場鑑賞候補作品リストでも優先順位を高くしてきましたが、他の観たい作品がどんどん人気や話題性を失って上映が危うくなってくるので、それらを優先しずっとこの作品を後回しにしていたのでした。現実に『王様のブランチ』でも4月27日放送分では8位に食い込み続けており、直近5月4日放送分で漸くトップ10圏外になりました。このジャンルの映画にしてはかなりの強い支持層が窺われます。タイトルの『四月になれば…』通り、五月になって漸く勢いが衰えたということでしょう。何やら元歌の内容をなぞるようで暗示的です。

 私がこの作品の優先順位を上げた理由は、やはり森七菜の出演している作品と言うことが大きいと思います。さらにそこに加えて安定の長澤まさみが居れば尚更といった感じです。この二人の組み合わせは今年2月の配信ドラマで死後の世界を描いた『パレード』でも見られたばかりのようですが、残念ながら有料の配信モノを私は全く観ていません。入力する際に「もりななな」と自然に打てるぐらいに作業的にこなれましたが、特に森七菜の大ファンという訳でもありません。(仮に彼女の写真集やイメージDVDが出たとしても全く買う動機が湧かないと思います。)ただ、彼女について『君は放課後インソムニア』の感想で以下のように書いています。

「私がこの映画を観に行くことにした理由は、主演の森七菜の存在です。私は彼女を比較的最近観た『銀河鉄道の父』で認識できるようになりました。主人公の役所広司演じる宮沢賢治の父、そして宮沢賢治本人と、本来主役級は他に居るはずの中で、その上、映画の中盤で夭逝してしまうにも関わらず、強い存在感を以て、映画の最初から最後まで物語の成り立ちそのものを支える、宮沢賢治の妹の役を務めていました。その感想記事にはこのように書かれています。

「このようにこの作品の全体像を俯瞰すると、トシこそが作家宮沢賢治を生み出し、そして自分の亡き後には、父政次郎の心を動かしその役割を継がせたことが分かります。トシこそが主人公と言っても良いかもしれません。(タイトルも本当は『銀河鉄道の妹』になるべきかもしれません。)それほどに、後に『永訣の朝』として描かれるトシの最期から荼毘の場面は鮮烈です。このトシを演じたのは前述の通り森七菜ですが、微かに何処かで観たような記憶があり、ウィキで調べてみると、比較的最近DVDで観た『ガリレオ 禁断の魔術』の町工場の娘でした。『銀河鉄道の父』には及びませんが、こちらでもそれなりにストーリー全体を推し進める役割を果たしています。

他には、私がDVDで観た『東京喰種トーキョーグール【S】』の女子高生もネットで映像を調べて、「ああ、この子か」と分かりましたが、如何せん端役に過ぎないように感じます。あとは、有名アニメ『天気の子』のヒロイン役が出世作のようですが、私自身が新海アニメに今一つ関心が湧かないせいで、一応DVDでは観たものの、特に何か印象に残ることはありませんでした。

少なくとも私にとっての森七菜は今回の一作だけで、強烈な印象を残しました。役所広司や菅田将暉、坂井真紀などのベテラン勢に加えて、先述の怪優田中泯まで登場して、ガッチリとこの物語の世界観を創り上げていますが、そこに違和感なく存在し、物語の軸となっているということは、森七菜の演技が相応のレベルにあるということなのだろうと思います。今後も彼女が出る作品はきっと観てしまうものと思います。」

さらにその後、ウィキの彼女の記事で…

「クランクイン後には台本やノートに監督、現場のスタッフ、共演者の人たちに教えてもらったことやその際に自分の考えたことをどんどん書き込むことを意識している。また、思いついた演技上のアイデアは監督や共演者にやってみても大丈夫か確認し、実際にやってみた後はそれについての周囲のアドバイスや話をよく聞き、それを自身の芝居に生かしていくという方法で撮影現場に臨んでいる」

という文章を発見し、学生時代に演劇部で(主に演出助手ばかりで出演はピンチヒッターばかりでしたが)似たようなことを(演出助手の重責から)必死でやっていた私は、森七菜に対する好感度を上げました。そんなことから森七菜の作品は観てみようと心に決めていたのですが、それがこんな青春映画になるとは予想外で、正直、心に決めたものの、かなり躊躇がありました。中身の薄い携帯小説的な“イベント目白押しで最後は準主役が不慮の死”のパターンなどの話だったら残念であろうと警戒した結果のことです。」

 森七菜演じるトシがあの存在感の塊のような田中泯演じる痴呆が進んだ祖父にいきなりビンタするシーンは衝撃的で記憶に刻み付けられていますが、単にそのような視覚的印象の強いシーンそのものではなく、上に書いたようなトシの物語全体における主軸となっている役割の重さを森七菜の好演が支えきっていることが、かなり鮮烈に記憶に残ったのです。

 その後、ネットの何かの記事で森七菜が何らかの事情で芸能界から干されていた時期があるといった内容を読みました。その真偽のほどはどの程度か分かりませんが、そうであれば、私が基本的に「のん」(や「ベッキー」)の出演作品を極力観るようにするのと同じ、本来芸術的力量で評価されるべき人々への投げ銭の主旨で、森七菜の作品も鑑賞すべきかとも思えるようになりました。

 さらに加えて、比較的最近になって石原さとみの登場に挿げ替えられるまで、タクシーの車内モニタの広告的番組(インフォマーシャルとかいうものかもしれません)の『ひみつのPRIME』には長澤まさみが登場し、CVをMEGUMIが勤める人形のウサギ「ラヴィさん」と四方山話をしつつ入念にこの作品の告知を展開してくれるので、どうしてもこの映画の印象が日常で摩り込まれてしまったのでした。(石原さとみはもうすぐ公開の映画『ミッシング』か既に放映中の法廷ドラマかの番宣かと思うのですが、見ている限り何時まで経っても番組名が登場せず、本当にMEGUMI(の声)とのただの四方山話になっています。)

 シアターに入ると観客数は最終的に50人程度でした。男女比はざっと見渡した感じで4対6といった感じで、女性の方が過半数でした。年齢は男女共に20代から30代前半に大きく偏っており、二人連れ客で全体の8割を占めている感じでした。二人連れ客は男女カップルか女性二人連れで、単独客が概ね男性というような構成でした。1組だけ男性の3人連れもいました。

 この客層を観てリピーターも多いのかなと思いましたが、交際進行中の男女カップルがこの映画を観に来ることが多いのなら、この作品は(仮にきっかけが「本当の愛を追求する恋人たちの姿を見て感動しに行こう…」的なものであったとしても)かなり逆効果になるのではないかと思える内容でした。いえ。実際にはそういった逆効果などの特定の明確な方向の反応を観客から引き摺り出すような作品ではなく、矛盾と虚妄の中にただ混乱を描き、観客側で空想の中に勝手に共感する者は共感するという事態を起こす作品のように思えます。

 あまりに不気味な作品で仰天させられました。

 パンフによると、またトレーラーや各種の宣材動画によると、この作品の主題は長澤まさみキャラが失踪前に佐藤健キャラに問う(と言っても、物語の進行と共に、長澤まさみキャラは何度かその問いを発していることが分かりますが…)質問にある通り、「愛を終わらせない方法、それはなんでしょう?」であるようです。この時点で、根本的な人間理解を欠いた稚拙な命題設定と感じます。

 遺伝生物学的に見て、遺伝子をシャッフルして行く方が環境変化に適応できるようになるため、同じ相手とのセックス(/交尾)を重ねる想定に人も含めた動物はできていません。オスは母親の遺伝子を極力多くのメスにばらまくのが生物として望ましい行動ですし、メスは受精後の子供を一定期間育てねばならないので、オスほど機動的にパートナーを替えられませんが、それでも違うオス、特により優れたオスからの遺伝子を獲得すべく行動するのが生物として望ましい行動です。(人間のメスも確実にそのように行動しているという社会学的調査結果が存在します。)

 ということは、特定の異性を熱烈に自分のものとしたいという感情は一定期間強烈に働いて、その後は他の対象に対して同様の感情を抱くように切り替わるのが生物としてまともであることになります。現実に「恋愛三年寿命説」には一定の科学的根拠(今風に言うなら「エビデンス」)があります。

 恋愛中の独特の高揚感は、脳内でフェニルエチルアミンやドーパミンという快楽物質が特定の対象に対して選択的に生成されることにより発生します。フェニルエチルアミンは五感を鋭敏にする覚醒物質で、強い幻覚作用を持っています。(痘痕も笑窪とはよく言ったものです。)ところが三年ほど経つと、全く分泌されなくなってしまいます。

 何十年も連れ添えるカップルの脳内には、βエンドルフィンという別の快楽物質が分泌されています。βエンドルフィンは安心感やくつろぎ感を生む物質です。つまり、恋愛関係から仲良し関係にうまく移行したカップルだけが持続しているのです。これは、生殖後の子育ての段階で、安定した協力関係をオスメスが築くために、進化の過程でできた働きなのだろうと考えられていますが、先述の通り、それはメスから見てオスの遺伝子が相応に高いレベルであった場合とか、メスの子育てにおいて貢献度の高いオスであったから起きることでしかありません。基本的にはメスの選択の結果生じることです。

 オスは基本的により多いメスに自分の精子を注入することを常に望みますが、メスに選択されるのがオスの宿命なので、次のメスを探すことで現在のメスが失われるリスクと新たなメスが見つかる可能性を天秤にかけて行動することにはなるというだけのことです。

 この考え方にある当初の三年間の恋愛を取り敢えず「恋」と呼んでおき、その後に移行する「慈しみ合い」の心理を「愛」と呼ぶなら、恋の方は余程特殊な手法を採用しない限り永続しないことが分かります。愛の方は相手を自分自身よりも尊重し優先するマインドを意識的に維持できれば、誰に対してでも持てます。極論すると、夫婦愛と並んで兄弟愛でも親子愛でも隣人愛でも博愛でも色んな形を持ち得ます。しかし恋はそうではありません。兄弟恋とか親子恋とは言いませんし、ありません。

 長澤まさみ演じるメンヘラ獣医は、あまりに拗れていて、婚約者と結婚寸前まで行っていて、「燃え上がるような恋の感情と結婚は別物だと分かっているけど、愛がいつまで続くか不安になって眠れなくなり、不眠症になり精神に異常をきたし始めている…」的な症状を訴えて佐藤健演じる精神科医に接するようになります。

 この説明の時点で、既に仮称長澤メンヘラ獣医は恋と愛の違いを認識しているはずですが、愛も恋と同じように燃え上がったら勝手に消えて行くような「自然のもの」であると勘違いしています。(私はクリスチャンではありませんが)キリストが「隣人を愛せよ」というのは、他人を自分より優先して大切にするマインドを持てということであり、それを意識的に持とうとすれば持ち続けられるし、諦めればすぐさま愛を失った状態になるという原理が背景に存在します。

 仮称長澤メンヘラ獣医は結局婚約者と別れ、受診を重ねるうちに仮称佐藤拗れ精神科医とセックスするようになり、付き合うようになり、同棲を始め、結婚の準備をするようになります。式場を下見して来た日、マンションに戻り、ワインを開けようとした時に、嘗て二人で選んだグラスを仮称長澤メンヘラ獣医は手を滑らせて落として割ってしまいます。仮称佐藤拗れ精神科医は、「大丈夫だった?」と一応口では言いますが、殆ど視線も彼女に投げることなく、大きな破片を手早く用意した大きな紙袋に取り込み、早々に「掃除機で残りを吸うよ」などと、「ごめんなさい…」とぼそぼそ言っている彼女に明確に応じることもなく作業をテキパキと進めるのです。

 これを仮称長澤メンヘラ獣医は「愛が失われた状態」として感じたということのようです。実はそう言った感情を抱く場面が二人の生活の間でどんどん増えて行き、“愛が失われた中で結婚をする”状態が彼女の人生で再発することに、またぞろ不安を感じ耐えられなくなって失踪するということの様なのです。

 しかし、よくよくグラス割り事件の仔細を見ると、仮称佐藤拗れ精神科医は十分仮称長澤メンヘラ獣医を気遣っています。決して「御揃いのグラスを二人で買ったのに割っちゃったのかよ。なんてことしてくれるんだ」などと彼女を詰ったりしませんし、彼女との楽しい時間にすぐに軌道を戻すべく、テキパキと作業を進めたのでしょうし、危険なガラス破片で彼女を傷つけることのないように自分が身を挺して片付け作業に当たったのでしょう。確かに目線を合わせ、「うん。大丈夫だよ。こういうの片付けるのはオレ得意だから、ワインを注いで向こうで待ってて」などとまだるっこしいことを言ってはいませんが、十分愛があると思える行動です。

 逆に、このような行動をとる仮称佐藤拗れ精神科医に対して仮称長澤メンヘラ獣医が愛の欠落や疎外や孤独を感じる方が異常と言った方が良いでしょう。愛があり、相手を理解し受け容れる覚悟があるのなら、そして相手の価値観や行動を尊重できるのなら、そうした相手のテキパキ行動もすべて自分のためであり、自分との時間を大切にしようとして相手がやってくれていることなのだと、幸せのうちに相手の行動を受止めれば良いだけのことです。相手の愛が無くなっていると思うこと自体が彼女の愛の欠落の証明であろうと思われます。

 有名な古典的恋愛映画の名セリフで且つ、素晴らしい名訳で「愛とは決して後悔しないこと(Love is never having to say I’m sorry)」というものがあります。核心を衝いた名言だと思われます。グラス割り事件の際も上述のように自分が認識できたなら、仮称長澤メンヘラ獣医は「愛」を維持できたことでしょう。極論ですが、相手の男が他に女に現を抜かす様になっても尚、「自分では満たせない部分を彼が自分自身で満たしてくれた。それは私の今のありようを100%受け止めてくれるためだ。今までだけでも私の人生のたくさんの幸せを作ってくれた」などと相手への感謝と思いやりを以て受け止めるということです。

 一見非現実的ですが、そんなバカなというほどのことではありません。例えば比較的最近観た映画『クオリア』の佐々木心音演じる主婦が全くそれですし、実在の人物なら樹木希林などの人間関係観もかなりこれに近いものと考えられます。そういうマインドを持てるか持てないかは、繰り返しになりますが、本人の意志次第です。相思相愛とは両者がたまさかそう言うマインドを持てた状態ということでしょうし、片方だけがそう言うマインドを持てただけなら、多分、もう一方が去って行くのを見送る結果になりやすいものと思いますが、そうなっても、愛があるのなら、相手に対して感謝を以て見送ればよいだけのことと思われます。

 劇中で「愛を終わらせない方法、それはなんでしょう?」の問いの答えが提示されますが、それは「愛をそもそも手に入れないこと」でした。しかし、これは愛が放射性元素のように自分の存在とは独立的に存在していて、入手してもどんどん半減期を経て変質していくので、元々入手しない方が良いと言っているようなものです。しかし、先述の通り、愛はそのようなものではありません。自分の意志の産物です。愛を恋同様に勝手にどこかから湧いてくるもののように捉えた所、ないしは、愛と恋を混同してしまっている所に、この映画の根本的な誤謬があります。

 ちなみに恋の方は、上で「恋の方は余程特殊な手法を採用しない限り永続しないことが分かります。」と書きました。その特殊な方法は、催眠技術などによる無意識の書き換えであろうと思われます。催眠技術はスーパーコンピュータである無意識のプログラムやデータを書き換えるものです。ですので、三年経って恋が失われて来たら、催眠技術で相手に対する心情を三年前にリセットすればまた新鮮な恋が始まることになります。原理的には問題なく可能な話です。似たようなことを催眠技術ではなく空想的科学技術で実現している物語が映画作品であります。『エターナル・サンシャイン』です。かなりの名画です。

 他にも方法が一応あるかと思われます。それは時分割や時停止により、相手と過ごす三年を引き延ばす方法です。例えば大黒摩季の『一番近くにいてね』にあるように、大好きな一番大切な人だから敢えて遠くにいて、「会いたいときだけ飛んでいく」関係性により、恋心が褪色して行くのを食い止める手法があります。歴史的にも日本の通い婚などの制度は同様の効果を生むものと思われます。まして平安貴族のように通いつつ並行して複数の相手とセックスするような関係性を作れば個々の恋が褪色せずに維持できる可能性が高まるのかもしれません。

 いっそ二人の時を止めてしまって恋心を維持するというパターンもあります。たとえば名画『ひまわり』のソフィア・ローレン演じる新妻の戦地に行った夫を探す情熱などは止まった時の中の恋愛感情の為せる業と見做すことができそうに思えます。いずれにせよ、催眠技術などで無意識をリセットするチート技を発動しない限り、三年の限界は訪れると考えた方が自然でしょう。

 この映画の中でも、この原理は語られています。自体験をベースに力強く語っているのは、もう一人の主要登場人物の森七菜演じる仮称偏執的余命僅少女子です。仮称森偏執的余命僅少女子は、父の影響でカメラ好きで大学時代に写真部に入り、そこで大学時代の仮称佐藤拗れ精神科医と知り合い、恋に落ちます。朝日を撮影しに小高い公園に向かう途中で二人が相互の両親について語る場面があります。仮称佐藤拗れ精神科医の両親は比較的最近多分熟年離婚したような話になっています。そして仮称森偏執的余命僅少女子の母は夫と彼女を捨てて別の男に走ったと説明されています。そして、これらの親たちの事例から帰納的に仮称森偏執的余命僅少女子は、「初恋相手と結婚してずっと添い遂げたというような人って全然いないもんね」などと宣ったりするのでした。

 仮称森偏執的余命僅少女子は仮称佐藤拗れ精神科医と交際を続け(大学生の割にはキス一つ劇中で登場しないので、どの程度どんなふうに交際していたのか疑問ですし、後述するように外泊なども殆どできず、日中にラブホに行くようなことも困難だったであろうと思われます。)二人で海外の美しい朝日の撮影旅行に出かけようと決め、色々と計画を練り始めます。旅行は計画している時が一番楽しいという考え方があります。まさにそれが二人の恋の盛り上がりと重なって行きますが、大きな障害が立ち塞がります。

 それは仮称森偏執的余命僅少女子の父です。母親の失踪と前後関係は分かりませんが、竹野内豊演じる父は異常に偏愛しており、一日たりとも娘無しで生きられないという人間でした。仮称森偏執的余命僅少女子もそのような父を容認していて、仮称佐藤拗れ精神科医に対して「母が居なくなってから私が母の代わりをしてあげなくちゃと思っていて、家事は全部やっている。だからあんまり時間が取れない」のようなことを言っていますが、もしかして母の代わりに父とセックスまでしているのではないかというぐらいの癒着ぶりです。

 その異常性を竹野内豊がこの作品中最強レベルの存在感で描いています。旅行の許しを請おうと家に来た仮称佐藤拗れ精神科医を自室に招くのですが、そこには幼児期からの娘の写真が所狭しと壁に貼り付けられ、洗濯紐にぶら下げられ、溢れ返っているのです。それを見せて「娘の息遣いが、写真からも感じられるだろ。それが1日でもないと俺はダメなんだ」とぼそりと語っては、「分かるだろ」と言わんばかりに歪んだ笑いを浮かべる竹野内豊の迫力がこの映画の中で唯一生々しい人間描写としてスクリーンから押し出されてきます。

 彼女の父の言葉以上の圧力を持つ態度で旅行への希望を押し潰されて、それでも行こうと誘った仮称佐藤拗れ精神科医が、待つ空港に手ぶらで仮称森偏執的余命僅少女子は現れ、「やっぱり私は父を捨てることができない」と別れを告げます。映画中盤の彼女の回想では、彼女はこの選択を別れた直後にものた打ち回るほどに悔んでいます。しかし、何事もなく別れは確定してしまいます。

 仮称森偏執的余命僅少女子にとって、この人生の選択はずっと後悔のタネとなり、余命が幾ばくも無いことを知った時、既に大学卒業後10年近くを経て、元々仮称佐藤拗れ精神科医と行こうとしていた海外の美しい朝日の撮影旅行に一人で出かけるのでした。それは一途に人を愛することができた自分(の心情)を再体験するためというような目的でした。

 仮称佐藤拗れ精神科医にとっても、この別れの心理的ダメージは大きく、大きなスーツケースを引きずり戻る帰途、エスカレータの登り口で崩れるようにしゃがみ込み泣きじゃくるほどです。一つ、疑問が湧きます。なぜ仮称森偏執的余命僅少女子の選択を彼は尊重しつつ交際を続けることができなかったのでしょうか。愛がなかったからでしょうか。単純に「そうか。分かった。旅行は無理だね。じゃあ、旅行は取り敢えず三年先延ばしにして、大学生活の中でこれからも二人の時間をたくさん作ろう」とか言えばよいだけだったように思います。旅行計画の破綻からまるで必然であるかのように別れてから、仮称森偏執的余命僅少女子も仮称佐藤拗れ精神科医も、ずっとこの別れを引き摺り続けるのです。

 その引き摺り方も異常です。仮称森偏執的余命僅少女子は旅先からいちいち自らが捨てた仮称佐藤拗れ精神科医に、撮影した写真を送りつけてくるのです。「復縁したい」などとも書かず、「あのときのわたしには、自分よりも大切な人がいた。それが永遠に続くものだと信じていた」などと写真に書き添えて送りつけてくるのです。よく男性は以前の交際相手をフォルダ分けして記憶するが、女性は以前の交際相手を同じメモリに上書きして記憶する…などと言います。上書き相手がいなかったからこうなったのかもしれませんが、この仮称森偏執的余命僅少女子の行為は見ようによってはストーカーのそれといって良いほど、無意味で不気味です。(これを男女逆にした構図で考えると間違いなく誰しもがこの男性を執念深いストーカーと認識することでしょう。)

 人生が残り少ないので好きなことを…というのなら、その旨を告げつつ映画『象の背中』のように好きな人に想いを告げに直接会いに行けばよいでしょうし、相手の状況は取り敢えずさておき、「人生最後のお願いで、あの撮影旅行に付き合ってほしい」と言っても良いでしょう。一人で内省のために出掛けたのなら、なぜ自分が捨てた元カレに写真だけ送りつけるのかが、分からないのです。(残り時間が少ない人が何をすべきかを考えるなら『イキガミ』が事例豊富で非常に参考になります。)

 空港からの帰途での別れの後、仮称佐藤拗れ精神科医の方もずっと拗れたままに時を過ごし、これまた非現実的なことに交際相手もなく7年を過ごします。普通ならば「すごく好きだったけど、結局彼女は異常な父を捨てることができなかった。それはそれ」とまあまあ納得できそうなものだと思えます。これがまともに話の通じる父で、単純に彼女の下らない我が儘や性格の不一致などが恋の消失と共に露呈して別れたのなら、まだ引き摺るのも分かります。しかし竹野内豊の異常な父を目の当たりにして、それを選ぶという娘に異常性を感じない方が異常です。

 仮称佐藤拗れ精神科医は父も医者で、何となく継いだ方が良いと思ったから程度の動機できちんと医学部に受かるほどの能力を持ち、当然佐藤健ですからイケメンで、金持ちで、世の中的に見たら「上級国民様」です。今時、合コンでもマッチングアプリでも、エスコート・クラブでも高級ホテルのスイート・ルームの大人のパーティーでも、すぐに女性を望むままにゲットできて当然です。(もしかすると、大学時代に仮称森偏執的余命僅少女子を「交際相手です」と自分の父に紹介したら、「その子は遊ぶだけにしなさい。結婚相手は別にきちんと選ぶべきだ」ぐらいのことを父から言われるような身分かもしれません。)そんな彼なのに、患者として例の仮称長澤メンヘラ獣医が転がり込んで来るまで彼女イナイ歴を重ねたというのです。拗らせるにもほどがあります。頭がイカレていると思っていたら、わざわざ劇中で「精神科医になったのは自分が精神を病んでいるから」という説明まで登場します。もう開いた口が塞がりません。

 それで同棲を始めた仮称長澤メンヘラ獣医が傍らに居る場所で、仮称森偏執的余命僅少女子の旅先からの手紙を開けて読み、さらに頼みに応じて仮称長澤メンヘラ獣医に手紙を渡して読むに任せたりするのです。これもどういうマインドなのか全く理解できません。端的に見ると、ストーカー元カノからの呪いの手紙を現在の結婚予定相手にも見せて、ニコニコしているサイコパスにしか見えないぐらいです。流石精神を病んでいるから精神科医になっただけのことがある…と考えるべきでしょうか。

 仮称森偏執的余命僅少女子の「(仮称佐藤拗れ精神科医に対する)嘗ての純粋な恋愛感情の追体験(/希求)」についての記述を読み、愛が終わることに恐怖していた仮称長澤メンヘラ獣医は仮称森偏執的余命僅少女子が居るホスピスに獣医を辞めて(実際には長期休暇と言われていますが、最近就業規則上でもデフォルトになりつつある重複雇用ということになるのだと思われますが)勤め始め、仮称森偏執的余命僅少女子の人生観や恋愛観を知ろうと思い立つのでした。これが彼女が失踪することになった引き鉄でした。

 つまり、ストーカー的に昔の交際経験を引きずって写真を送りつけてくる不気味な婚約者の元カノに「終わらない愛」を問うため、今の婚約者を捨てて、内定調査をしに行ったということなのです。かなりイカレた女です。仮称佐藤拗れ精神科医はその背景に気付き、ホスピスに(森偏執的余命僅少女子の死後)仮称長澤メンヘラ獣医を迎えに行き、彼女を引き取ってきます。そして、彼女の獣医としての動物豆知識のようなものを自分もノートに書き留め、彼女について知識を増やしていたことを「カバの汗は赤い」などと彼女に対して披露してみせて、映画は終わります。彼女に見えている世界を理解しようと努力していることが「愛」の行為であるということを示したのでしょう。

 グラス割り事件でテキパキこなして彼女に怪我をさせないようにしつつ彼女との時間を充実させようと配慮できることと、彼女のトリビア的知識を後追いして見せることと、どちらがより慈しみ深いのかと問われたら、私には前者であろうと思われますが、劇中では後者が理想の形としてこれからの二人の愛ある姿の断片として提示されています。

「俺は旅行に向けて努力したんだぜ。イケメン医師で金もあるのに、気持ち悪い父を選んだな。俺の何が悪かったんだよ。俺の努力を認めろよ」的な承認欲求。

「私はあなたを選ばなかったことをすごく後悔しているけど、あの頃の私が最高だと思うの。だから、そんな自覚のある私の想いをもう人生残り少ないんだから認めてよ」的な承認欲求。

 さらに
「私は愛を知るとそれが言動の中から失われて行くのが不安で不安で仕方がないの。動物はそんなことなく愛を続けることができる。人間と付き合っている時だけ不安で仕方がない。そんな私を妻にするのなら、不安を感じさせないようにちゃんと私を見つめてよ」的な承認欲求。

 全員仏教を学び欲を捨て足るを知らなければ、全く救いがないような不気味でどす黒い承認欲求に塗りつぶされているように私には見えます。先述のように「愛」は自分の能動的な相手の受容や尊重に向けて動く姿勢のことですから、こんな馬鹿げた要求をするばかりの承認欲求全開状態で、愛を生み出すことも維持することもできる訳がありません。何のために哲学は研究され、何のためにそれらは世界ダントツの読解力を誇る日本人のために平易に各種の書籍群や各種の物語で説明されているのか全く分かりません。

 あえて踏み込んで考えてみると、この物語の非現実的なまでのレアなシチュエーションにも思い至ります。例えば、元カノが仮に重い病気になったとしても、今時の若者と今時の医療技術ですから、それなりの手間や時間で完治するものであることの方が圧倒的に多いでしょう。仮称森偏執的余命僅少少女が仮に比較的重めの病気から例えば半年近くの療養生活で回復したらどうなっていたのでしょうか。

 竹野内豊が他界するほどの高齢ではないので、不治の病を前にして仮称森偏執的余命僅少女子は漸く父を捨てることに成功したのだと思われます。では不治の病なく、彼女は父を捨てることができたのでしょうか。それができるのなら、敢えて復縁を迫ればよいように思えます。仮称佐藤拗れ精神科医から見て、成り行きで7年ぶりに女と交際ができるという経緯で始まった仮称長澤メンヘラ獣医の面倒臭さに比べて、仮称森偏執的余命僅少少女は直向きで一途です。彼女との恋愛が成就するなら、仮称長澤メンヘラ獣医は見向きもされない可能性がかなり高いのではないかと思えます。

 また先述の通り、どれほど楽しみにしていたかと言っても、旅行一つに行けないだけで別れること決定と言うのもおかしな交際関係です。「じゃあ、東京周辺で家を抜け出られる範囲で撮影したりして時間を共に過ごそう」としてしまえば別に問題はありません。旅行一つに行けなくなって別れるカップルと、じゃあ他のことをしようと言えるカップルとどちらが多いかと言えば、普通に考えて後者でしょう。

 もう一つの有り得なさも簡単に見つかります。仮称長澤メンヘラ獣医が偏執的元カノの忌の際を内偵しに出奔したことを知った仮称佐藤拗れ精神科医の立場になった時に、その不気味な発想と行動をする女性にさらに深く関わりたいと思うでしょうか。精神科医の先輩であるともさかりえ演じる女医からも、仮称長澤メンヘラ獣医失踪後に仮称佐藤拗れ精神科医は「一緒にご飯食べてる? 夜は、ちゃんと一緒にしてる? え。していないの。あなたが彼女を救ったのよ。それなのに…」のようなことを言われています。元々仮称長澤メンヘラ獣医はともさかりえの患者だったので、そのように言われるのですが、この会話からも仮称佐藤拗れ精神科医が成り行きや惰性で仮称長澤メンヘラ獣医と付き合い始めたことが分かります。

 敢えて言うなら7年を経て偶然転がり込んできた相手が自分に懐いて来たからこのまま勢いで結婚相手にするかぐらいのノリだったとみても良いように思えます。ならば、何か分かり易くよくある理由ならば、探してでも交際を再開するかとなる可能性はあるものの、わざわざ元カノとの手紙を熟読して冷めた愛をどうすべきか死に際に確認して来ようとか思いつくような、それも元々メンヘラと分かっている女性を、居なくなったらこれ幸いとばかりに深追いしない選択肢もあるはずです。どちらが常識的な選択かと問われたら、劇中で見る限り、惰性で付き合い始めた妄想に振り回されるメンヘラ女を手放すチャンスが到来したらそのまま活かす…が、私には大きく半分を超えるような気がします。(まして、今時ならスマホのSNSのアカウント削除で簡単に人間関係を消去する話が当たり前に存在する中で、この奇行に走るメンヘラ女性を消去する方がどう考えても自然です。)

 そのように考える時、これらの三つの「分岐」を考えるだけで、この物語が異常なほどの少数派の三乗の結果、究極の異常な物語であることが分かります。

 この作品には仮称長澤メンヘラ獣医の妹役で河合優実が登場します。休憩時間には喫煙で憩うハスッパな感じの、大分姉とは人生の軌道が違いそうな妹です。ウィキでも「2022年は計8本もの映画に出演し…」と書かれ、私も劇場で観た『PLAN75』、『線は、僕を描く』などでその存在を認識できるようになり、さらにDVDで観た『ある男』でも気づき、その上比較的最近までTVerで観ていた大反響のドラマ『不適切にもほどがある!』でも準主役級の大活躍の河合優実の活躍を、鑑賞直前にネットで見た映画情報で彼女の出演を知ってから少々期待していましたが、登場は1場面だけでした。

 この妹は仮称佐藤拗れ精神科医の彼女の姉の所在についての質問を躱し、「精神科医なのに姉を理解していない」、「結婚したい相手に対する態度とは思えなかった」などと彼を詰るのです。劇中で見る限り、仮称佐藤拗れ精神科医の態度は先述のグラス割り事件に見るように、それほどおかしなものではありません。それでも仮称長澤メンヘラ獣医には十分ではなかったということでしょう。しかし、例えば『愚行録』などを観ても分かる通り、富裕層の人々の結婚関係には今でも両親などの判断が介在することは多く、「恋」の部分は極少で、僅かな「愛」が織り込まれながらも仮面夫婦一歩手前といった夫婦関係はざらにあることでしょう。「姉を分かっていない」という仮称河合ハスッパ妹の指摘は正しいのかもしれませんが、彼女自身が世の中の結婚の姿を知らないが故と言えるようにも思えます。

 仮称佐藤拗れ精神科医の長年の友人にして常連飲み屋のマスターを務める男も、執拗に同様の指摘を行なっています。これらの人々に共有されるあまりにナイーブな恋愛幻想・結婚幻想には驚かされます。この作品で唯一現実的結婚観を持っているのは、先述のともさかりえがバツイチで、仮称佐藤拗れ精神科医に「愛を終わらせない方法、それはなんでしょう?」との問いを投げかけられると、即座に呆れ顔で「そんなことが分かったら、離婚してないわよ」と吐き捨てるように言います。そしてその終わった結婚生活の「成果」である幼い子供を託児所で仕事終わりに嬉し気に迎えるのでした。先述の遺伝子的に見た生物的適正行動の結果と見ることもできる「幸福」の形でしょう。

 お目当ての森七菜は登場の尺も短く、その行動はサラッと描かれていても粘着的で不気味で、かなり不発感があります。次にちょっと期待していた河合優実も先述の様な不発感満載でたった1回の登場。なかなか見所が見当たらない作品です。

 さらに、私にとって安定の人気の長澤まさみは、ここ最近劇場で観た作品だけでも、『ロストケア』『シン・仮面ライダー』『シン・ウルトラマン』『コンフィデンスマンJP プリンセス編』『MOTHER』などに登場しており、『MOTHER』の浮浪者以外はほぼ違和感なく観ていられました。またDVDで観ている『キングダム』シリーズの彼女も超戦闘的でなかなか見惚れます。私が彼女に対して抱くイメージには、遥か以前『嘘を愛する女』の以下の記事にある内容がベースにあります。

「『散歩する侵略者』を観る以前は、長澤まさみを何度も観ていたのですが、私は認識していませんでした。『散歩する侵略者』の感想にも…

「『黄泉がえり』や『海街diary』のように、観ても他に注目する女優が存在したため、ほとんど印象に残らないままに終わっていました。『銀魂』も『ジョジョの…』を観るのに忙しくて、手が回っていませんでした。

 ウィキを読んで、「そう言えば、『東京難民』を観て大塚ちひろが気に入って、もっと観るためにミレニアム・ゴジラ・シリーズの作品のモスラの小びと役を観たら、二人セットだったけど、もう一人は長澤まさみだったっけ。ん。長澤まさみは大塚ちひろの中学時代のルームメイトか…」とか、「あ、大好きな『黄泉がえり』に出てるって、げっ、いじめに遭ってた同級生が好きで、生き返らせてしまう、あの女子学生か!」とか、「『クロスファイア』好きだけど、出てたっけ? はあ?あのもう一人のパイロキネシスの少女か。何歳だよ、げっ。今30なのに、あの時は12歳かよ」とか、驚きの連続でした。際立っていなくて、気づかないままとも言えますし、それだけ自然でレベルの高い演技だから、馴染んでいて分からなかったとも言えます。

 観ようとしてレンタルしていた『グッドモーニングショー』もどちらかとエロ系の魅力が炸裂していることを知っていましたが、今回も抑制された愛情表現が強烈にセクシーさを醸し出しています。ウィキに拠ると、セクシー系の演技が要求されたのは私が観ていない『モテキ』が初めてとあるので、それまでは、確実に落ち着いた役をこなすと言った感じだったのかもしれません。『海街diary』で共演して綾瀬はるかと親友になったとウィキにありますが、コメディ系の作品を激減させた綾瀬はるかを想像すると、『モテキ』までの長澤まさみの役柄群のテイストに近づくように思えます。

 私は今回の作品で長澤まさみに目が釘付けでした。特に、松田龍平をじっと見つめる丸く大きな瞳の奥深くにある輝きには、引き込まれるものがあります。似たような表情と丸い瞳の組み合わせの魅力が炸裂していたのは、パッと思い出せる所では、最近観た名作『だれかの木琴』の常盤貴子とだいぶ前に観てDVDを買った『ゼロの焦点』の広末涼子ぐらいです。『グッドモーニングショー』も速攻観なくてはなりません」

…と書いている通りです。その後、『グッドモーニングショー』は観てみましたが、想像していたほど出番がなく、寧ろ糟糠の妻の吉田羊の方が存在感があったり、『勇者ヨシヒコ』シリーズのムラサキを演じた女優の方がチャキチャキしたキャラで、おいしい所を持って行っているような気がしました。

 その話を私から聞いた娘が教えてくれた「アンダーアーマー」のCMでフラッシュダンスの代表的なダンスシーンをより獰猛にしたような振りで銭湯で踊り狂う長澤まさみの方が、余程強く印象に残ります。ただ、その姿はスポーツ系のビキニショーツと言った出で立ちで、明らかに体のラインがばっちり出ていますし、足を大きく広げたり、所謂悩殺ポーズも取るのですが、どうも今一つエロさがないのが、本当に不思議な女優さんです。

 この作品のポスターは長澤まさみを含む主人公二人が各々ベッドに顔を押し付けているようなアングルで、既にエロスが醸し出されています。パンフレットも鑑賞後行った行きつけのバーのママが見て、「これ、長澤まさみの写真集なのかと思った」と言うほどに、長澤まさみが眩しい光の中でアップになっている構図の写真が何点も鏤められています。実際に作品そのものも長澤まさみのPVかと思うほどに、照度の高いドアップが連発していて、長澤まさみファンならDVDを買って画像をクリッピングしたくなるものと思います。

 エロスの方もかなりのレベルで、セックス・シーンこそ露骨にはないものの、事後のベッドの中での会話が殆ど官能小説並みになっている場面があります。相手の男の方が、「本当に元気だよね。たくさん残業して帰って来たのにこんなに…」と言ったことを言うと、長澤まさみが「仕事の嫌なことやいろんなことが消えて、頭が空っぽになって、自分に戻れる感じがいい」のようなことを言います。心底好きになれた男性とのセックスで深いオーガズムに達した感想と言った感じでしょう。これをさらっと長澤まさみに言わせる展開が素敵です。

 バリバリのキャリアウーマン役は、『散歩する侵略者』や『グッドモーニングショー』とやや共通している部分がありますが、同棲相手がいても合コンに参加して、男とセックスしてしまったと吐露している場面もありますし、(後で結果的に干されますが)自社社長を伴う取材アポを自分の都合でリスケしてしまうなど、かなり傍若無人です。これが一時期多くの作品に登場したバリキャリ女性キャラのシガニー・ウィーバーやメラニー・グリフィスが演じていたなら、かなり鼻に付いたことでしょう。」

 そして先述の様な最近の彼女の出演作を観ると、『MOTHER』の浮浪者と並び、このメンヘラ女役が全然しっくりこないように思えてなりません。(実際に長澤まさみを仕事柄何度も見たことがあるという人物を知っていますが、その人物によると、長澤まさみはほっそりした美人でオーラが物凄い…との話でしたが)私にはシルエット的にもどうしても骨太ガッチリ体型に見えます。そのイメージからもやはり線の細い女性や精神的に弱い女性がどうも似合わないように感じるのです。

 サイモン&ガーファンクルの曲『April Come She Will』のタイトルがチラシにも細い筆記体で大きく描き込まれています。4月に急に芽生えた恋は5月にはピークに達し、6月には心ここに在らずになり、7月には去り、8月には「August, die she must」となります。Love は愛も恋も含んだ語かと思いますが、どちらにせよ急激に隆盛しあっという間に消失する感情や人間関係を描いた歌です。最後の一行は象徴的で、「A love once new has now grown old.」です。この歌がベースにあるのなら、なぜ「愛の永続性」を問う物語ができたのか不思議でなりません。

 劇中で強い印象を残したのは竹野内豊の1場面だけの不可解・不気味な物語だったのでDVDは不要です。この映画を観た恋人達の今後はどうなって行くのかが非常に興味深くはあります。

追記:
 映画館からの帰途、新宿通り沿いでスターダックトニーのワゴン前に人だかりを見つけました。彼のワゴンを見るのはこれで三度目ですが、人だかりができているのは今回が初めてです。いつもの黒スーツ姿の水晶玉のトリックは何であるのか、いつも人は通り過ぎるばかりで観客が揃わないので、結局私も見たことがないままでした。今回は格好も着ぐるみでギターを抱え、相応に流暢な英語で外国人観光客らを煽り、大盛況でした。しかし、水晶玉は見当たりませんでしたので、私はすぐその場を離れました。