『カフェ・ソサエティ』

 ウッディ・アレンの映画が、ちょっと観てみたくなって、久々に明治通り沿いのミニシアターに足を運びました。前回来たのは、『セーラー服と機関銃』ではないかと思いますが、何にせよ、大分久々です。

 私は、ウッディ・アレンの映画が結構好きです。多分、北海道の田舎町の映画館で中学生の頃に『アニー・ホール』を観たのが最初だと思います。その頃、昔日の繁栄が大きく翳ったその港町では4、5館あった映画館が全部消えてなくなり、DVDはおろか、ビデオも何もない時代に、車で1時間半かかる地域中核都市まで足を運んでは、その後の新作を何本か連続で観たように覚えています。今回の作品でも「ウディ・アレン」と表記されていますが、当時は皆、「ウッディ・アレン」だったと思います。

 インターネットもない時代、調べに調べて、ウッディ・アレンの著作『これでおあいこ』まで購入して、何度も繰り返し読んでいた記憶もあります。当時、毎月買っていた映画雑誌『ロードショー』で、頻度少なく登場するウッディ・アレンの記事も、クリッピングこそしていないものの、貪り読んでいたように思います。それほどに、初めて観た『アニー・ホール』は衝撃的でした。端的に感想をまとめると、「こんな話が映画になり得るんだぁ」と言う感嘆だったと思います。

 テレビでも何ででも、彼のマシンガンのような英語の台詞を聞いたことはありませんでしたし、こんなに登場人物が喋り捲る作品も知りませんでしたし、ハッピー・エンドにもならない代わりに、完全なサッド・エンドにもならない大人の恋愛劇も、まざまざと見せつけられたのは初めてだったかもしれません。さらに、主人公の二人が互いの過去を傍観してコメントを言うと言う、今から見てもやたらに唐突でSFとしてもイミフとしか言いようのない設定も、斬新で印象的でした。

 それ以降、『インテリア』、『マンハッタン』、『カメレオンマン』、『カイロの紫のバラ』、『ハンナとその姉妹』、『ラジオ・デイズ』など、ガンガン映画館に通って観ました。これらの多くが、今でも私の洋画ベスト50に入っている名作です。『インテリア』の晴天下の荒い波打ち際。『カイロの紫のバラ』の寂しい遊園地。『ラジオ・デイズ』のダイアン・キートンの詠唱など。印象に残るシーンが明確に存在します。

 この中の『カメレオンマン』で、はたとウッディ・アレンがコメディ作品を演じられる人間であることに気付き、遡って『スリーパー』などを観ましたが、やはり、私にとってのウッディ・アレンは、ままならない人生に真正面から向き合った末、自身の無様さを諦め哂いつつ、歩を進めるしかない大人のほろ苦い愛憎の物語の最高の語り手であったと思います。

『ニューヨーク・ストーリー』、『ウディ・アレンの影と霧』を観た頃、私は東京から札幌、そして、米国へと生活場所が転々としていて、映画を安定的に見る機会が失われる一方で、以前のウッディ・アレン作品の洗練された美しさと面白さを作品に見出せなくなって行きました。映画はそれなりの本数観ていましたが、ウッディ・アレン作品が鑑賞リストの上位に来ることがなくなっていたと言う感じかと思います。そして、かなり長いこと、ウッディ・アレン作品から遠ざかっていました。

 今回この作品を観たいと思ったのは、主演がジェシー・アイゼンバーグであることが一つです。彼の俳優としての存在を初めて認識したのは、『ソーシャル・ネットワーク』で、フェイスブックの創業者を偏執的に演じて見せた時でした。その後、DVDも含めて、見てみた作品では、『グランド・イリュージョン』シリーズ二作は、全体で楽しめましたが、彼の役割には今一見所がなかったように感じています。しかし、二作、彼が印象に残った役柄があります。一つは『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の強力な悪役、レックス・ルーサー。もう一つは、『エージェント・ウルトラ』の、実はCIAが創り上げた人間兵器なのに、催眠によって記憶を封じ込められて秘密裏の監視下にあるメンヘラのコンビニ店員です。

 特に後者は、かなりのイカレっぷりで、DVDで見てやたらに愉しめました。この手の設定は結構よく見ますし、有名どころでは、『ボーン・ナンチャラ』シリーズも、事実上このパターンです。しかし、たくさん作られているシリーズの中に笑いはどこにも見当たりません。ブルース・ウィリスが主演している元エージェント系の話には笑えるものが幾つかありますが、元々外観がマッチョそのものなので、何を見ても『ダイ・ハード』シリーズの劣化版やレプリカぐらいにしか見えません。そんな中で、『エージェント・ウルトラ』は異色な冴えのある笑いを持って屹立しています。

 比較的最近DVDを観た『エージェント・ウルトラ』には、メンヘラコンビニ店員の同棲相手のファム・ファタールのような女性が居ます。実は彼女こそが元々諜報活動の監視役だったのですが、任務が終わっても、メンヘラ対象者の無垢さに惹かれ、本当のカノジョとして残ることを決意した女性でした。ラストに向けて血まみれになって生き残る二人の汚れ顔が印象に残っていて、今回の『カフェ・ソサエティ』のチラシを見て、驚かされました。相手役が一緒の女優なのです。

 似たような男女の組み合わせは、比較的最近映画館で観た『GODZILLA ゴジラ』と『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』にも見出せますが、『エージェント・ウルトラ』と『カフェ・ソサエティ』は両作においてその男女が主役で、おまけに、殆ど間がなく制作されているのです。非常に珍しいケースだと思います。そんなこんなが、私にとって、長らく足が遠のいていたウッディ・アレン作品を観に行かせるきっかけとなりました。

 封切から5週間以上経った月曜日の午前中。10時45分からの回を観に行きました。既に1日1回の上映です。それでも、シアターには30人以上は観客が居たように思います。年齢は私が平均値かと言うぐらいの感じで、性別によらず年齢の偏りは同じように見えました。男女はほぼ半々ぐらいだったと思います。基本的に、長年のウッディ・アレンのファンと見て良さ気な感じです。

 私は「カフェ・ソサエティ」と言う言葉が特定の事物を指すのではなく、単純に、どこかのカフェでどこかの金持ちが仲良くしていた様子を描く物語かと思っていましたが、そうではありませんでした。パンフを読んで、それが、1930年代のニューヨークの上流階級の人々が集まるカフェで“発生”した特定の実在の社交界のことを指している言葉だと知りました。

 そして、主人公のジェシー・アイゼンバーグは、LAの映画プロデューサーの事務所で働くおどおどした使いっ走りの青年から、「カフェ・ソサエティ」の支配人に伸し上がった姿までをシームレスに演じ分けて見せてくれます。芸達者な役者だと思えました。相手のクリステン・スチュワートの方も、最初は、ネブラスカからLAにやってきて夢破れてOLをやっているくすぶり女ですが、その後、映画プロデューサー夫人となって、他の登場人物の女性同様に、衣装協力のシャネルの壮麗なドレスをばっちり着こなして見せてくれます。

 描くのは、この若い二人が結婚を誓うところまで行きながらも、すれ違っていく、『アニー・ホール』と同じウッディ・アレン節です。ジェシー・アイゼンバーグの叔父で雇い主である映画プロデューサーと実は彼女がすでに付き合っており、離婚に踏み出せない彼を彼女が見限り、ジェシー・アイゼンバーグとの婚約に踏み出したのですが、土壇場でプロデューサーが離婚に踏み切り、彼女はLAの大立者の夫人になる道を選ぶのでした。

 ジェシー・アイゼンバーグの方は、ニューヨークに失意のうちに戻り、LAで知り合った人脈をバックに、社交カフェの切り盛りの仕事で成功し、元カノと偶然同じ名前のバツイチ美女と幸せな家庭を築きます。二人の生活は充実しているはずでしたが、プロデューサーがニューヨークに仕事に来た際に、二人は再会し、何度も互いの伴侶に隠れてセックスどころかキスもほとんどしないようなデートを重ねつつ、お互いに相手への過去の想いを重く自覚し直します。そして、結局、現在の生活の桎梏の中に立ち戻っていくのでした。

「もう会わない方がいいんじゃないか」と女は言い、男も別にそれを否定する訳でもなければ追い縋る訳でもなく、それを無言で受け容れます。そして年末、各々が属する社交界の年越しパーティーの場で、各々が明るく祝う人々のさなかで、呆然と立ち尽くし、自分に欠けているものの存在に苛まれつつ、そこにただ佇むのです。

 日本の若者アニメの一途で真剣であることが大切な主人公達や、どのような逆境も意志の力で克服しなくては気が済まない現代ハリウッド映画の男女なら、何としてでも、現在の不満もない代わりに満たされることもない生活のしがらみを捨てて真実の愛に走り出すことでしょう。しかし、80を過ぎて尚、恋愛の語り部たろうとするウッディ・アレンは違います。二人共、各々のパーティーの会場で浮いた存在として立ち尽くす様を一人ずつドアップで丁寧に描いたら、いきなり、エンドロールに切り替えるのです。

 多分、この二人は、これからもずっと大きな欠落を抱えて人生を終わりの時まで過ごすことでしょう。これが、セックスを再び介した関係なら、まだ、強い感情を互いの中に残す、燃える想いの落としどころが辛うじて見つかる展開になり得るように思います。名画の『ニュー・シネマ・パラダイス』では、たった一度、時計の針を何十年も巻き戻して、肌を重ねる男女が登場します。「これから二人で街を出よう」と考えている男に対して、「これを夢で終わらせよう」と女が去っていきます。

 パートナーのいる女性は排卵期には遠出し、パートナーのいない場所で独りで過ごすことが多く、パートナーのいない女性は非排卵期に遠出し、一人でいることが多い。これは、『女は男の指を見る』と言う書籍が紹介する女性の月経周期と移動パターンの関係です。パートナーがいる女性は、今のパートナーより優れた遺伝子を持つ男から受精する機会を求め、パートナーのいない女性は、間違った受精を防げるよう“お試しセックス”の確率を上げていると同書は説明しています。もちろん、女性本人が意識せずにこの現象は起きているのだとされています。

 これが遺伝子が決める生物としてのヒトのメスが従う摂理なら、『ニュー・シネマ・パラダイス』の女性は、遺伝子的に正しい行動をとっていますが、『カフェ・ソサエティ』の女性は正しくないことになります。二人でセックスにのめり込むでもなく、距離を測りながら何度もデートを重ね、楽しいだけの時を過ごす。だからこそ、過去の貧乏でもドタバタ楽しかった日々が余計に二人の共通のかけがえのないものに磨き上げられてしまいます。その重みを二人係りで協力して作り上げた後に、それを昇華させることなく、不満もない代わりに満足もない世界に立ち戻っていくのです。

 最後の二人の表情の中に、自分たちの納得の選択をしたと言う満足も自信も見られません。失敗したと地団太を踏むような悔しさも見出せません。今後、誰を愛そうとも、誰と連れ添おうとも、決して満たされることはなく、その心境を決して口外することも許されず、諦念の中に、ただ従容と生き進むことになる二人の姿がまざまざと浮かぶのです。

 限られた人生の時間の中で、過去に成就させられなかった想いが、決して成就しないままに、そこにあり、それをずっと墓場まで持っていく(覚悟でさえなく)諦め。これが、ウッディ・アレンが『アニー・ホール』以来、磨きに磨いた大人の恋愛の姿なのかもしれません。それが『アニー・ホール』とは異なり、きらびやかなシャネルが彩る社交界にあるが故に、有り余るほどの財も、何事をも憂う必要がないような人脈も、欲しいままになった二人でさえ、満たされない想いを秘めながら生き続けなくてはならない構図が、余計に際立つのです。

 最後の二人の別の場所の同じシチュエーションのドアップの表情は胸を抉ります。その苦しさ故に何度も見返すことはないと思いますが、磨きのかかったウッディ・アレン節は、十分に持つ意義があります。DVDは買いです。