『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』

 封切の翌日の日曜日、夜8時50分からの回を新宿東口の武蔵野館で観て来ました。1日4回の上映。30人ぐらいの男女。一部、20代と思える男女も少々居たことには居ましたが、年齢層はアニメの放映をリアルタイムで見た世代と言うことか、結構上だったように思います。映画サイトによれば、全国でもたった6館、関東では4館しか上映していません。

 物語の舞台はローマ。麻薬密売や窃盗に手を染める地元のゴロツキやチンピラの争いの中、川底に投棄された核廃棄物にカラダをどっぷりと浸けてしまった男エンツォが高い治癒力と馬鹿力を得て、最初は私利私欲のために力を使うものの、その後、好きになった女の今際の願いを聞き入れて、正義のヒーローとして活躍する話です。

 この好きになった女は、日常生活にそこそこ支障を来す程度の精神障害があり、彼女がドハマりになっている鋼鉄ジーグのアニメの世界と現実が混濁しています。その彼女の前に現れ、組織の追手から彼女を匿ってくれたのが、主人公の(見た目)さえない中年男です。その超人的なパワーを目にして、彼女は、彼を「司馬宙(しば・ひろし)」と呼び始めます。司馬宙は鋼鉄ジーグの主人公で、人造人間で巨大ロボットのジーグの頭部に変身(/変形)します。勿論、映画の主人公の方がロボットの頭部に変身したりすることはありません。そのような本気のSFXは存在せず、ひたすら超がつくほどに打たれ強い怪力男の戦いが一部描かれます。

 私がこの映画を観たいと思った理由は、やはり、鋼鉄ジーグをタイトルに冠していると言うその一点に拠ります。私にとって、『鋼鉄ジーグ』は特段好きなアニメではありません。本編をほとんど見たことがありませんが、以前から持っている有名アニメソング特集DVDに『鋼鉄ジーグ』のオープニング画像がそのままに含まれており、そこだけをよく知っていると言う感じです。リアルタイム、テレビ再放送などで何話か見たことがありますが、(今ならキッチュとギリギリ評価できるかもしれませんが)敵側の「ハニワ幻人」のあまりのダサさに当時は辟易していたように思います。主人公が巨大ロボットの頭部に変身するという独特の設定は面白いと思えましたが、オープニングをそのDVDで見ても、ダサいハニワ幻人のおかしな動きに笑いしか起きないような作品に思えていました。

 ウィキで調べると、まるで、ハワイでは『人造人間キカイダー』がなぜか大ヒットだったように、イタリアでは『鋼鉄ジーグ』が大ヒットだったようです。国民性とヒットの要因の関係性の分析をネット上で探しましたが見つかりませんでした。日本アニメ全体の人気は理解できるものの、特定作品がなぜ特定地域で受けるようになるのかメカニズムには関心が湧きます。そのメカニズムが分かるほどの掘り下げを映画に期待した訳ではありませんが、少なくとも、イタリア人の目に映る鋼鉄ジーグを知るのも悪くないなと思ったのが、唯一の動機です。

 観てみると、特段、すごく人気があると言う認識は持てませんでした。劇中に登場するジーグ・ファンは、前述の女性一人です。彼女が登場人物の名前や設定上の武器や場所の名称をカタカナそのままで発音して、色々と話しているのが分かりますし、ジーグのDVDボックスを宝物のように大切に持ち歩いていたりします。そして、件の主人公を「ヒロ」・「ヒロシ」と呼んだりし、得意の編み物でジーグの頭部の被り物を作り主人公にプレゼントしたりしています。

 ただ、それ以外は、特段、鋼鉄ジーグに思い入れがあるような人物は登場しませんし、主人公のパワーも鋼鉄ジーグに類似している部分が見当たりません。

 パンフレットを見ると、とうとう、「イタリアは自分たちのヒーローを生み出した」などと賞賛されていますが、主人公は街のダサい中年チンピラです。パンフを見ると一匹狼とされていますが、劇中の立ち位置を見ていると、所謂、皆から一目置かれる孤高の一匹狼なのではなく、単に下っ端が必要な時に呼び出されるだけの、AVで言うと汁男優のような存在に見えます。パワーを得ると、ATMを壁からズボッと引き抜く強盗や、現金輸送車襲撃強盗などに力を使います。パーカーのフードを目深に被り、マフラーのようなもので鼻や口も隠して犯行に臨んでいます。防犯カメラの映像がネットでも出回り、「スーパー・クリミナル」と名付けられ、話題になります。

 そんな中で、好きな女に親愛のキスをされると舞い上がって、(普段、好物のカップヨーグルトを指で掬って食べながら、見入っているAVをイメージしてか)無理強いの粗暴で不器用なセックスに臨むと、彼女は幻滅し路面電車に乗って去って行きます。その彼女に追い縋って、なんと電車を力技で停めて彼女を連れ戻すのですが、この際に素顔を晒したままで、あっさり指名手配犯になります。

 たとえば、絶大な力を持つデスノートを手にした夜神月でさえ、その能力の使用には非常に慎重で、特にLとの対決場面になると、デスノートそのものに単純に人名を書き込むだけのような使用は殆どしていません。たとえば、これまたかなり特異で汎用性の高い能力を身につけたスパイダーマンでさえ、まずは、マスクを含むコスチュームを作ることから活動を始めていますし、善行を重ねているつもりでも、どんどん社会から誤解され、悩み苦しむことになります。

 それに比べて、この「とうとうイタリアが生んだヒーロー」は、あまりに間抜けで考えが足りません。悩んでいる様子も見受けられません。おまけに、パワーを身につけた方法も、たった一個の時計(だと思われますが)の窃盗で追われて、行きがかり上、飛び込んだ川の中で、誤って腐食した核廃棄物のドラム缶を突き抜いてハマってしまうのです。おかしな設定ですが、この超人化の方法論は再現性があります。彼のパワーに気付いた自己顕示欲全開のチンピラが、メンヘラ彼女を人質にして、主人公を拘束し、「クモにでも噛まれたか。それとも宇宙人なのか」と力の秘密を吐くように迫ります。主人公がドラム缶の話をすると、そのジギー・スターダスト系のグラム・ロック・スタイルの歌手でもあるドチンピラは、主人公同様にスーパーパワーを手にして暴走を開始するのでした。

 物凄い話です。超人化の方法が、嘗てカルトな人気でシリーズ化され、とうとう日本ロケさえされた『悪魔の毒々モンスター』とほぼ同じです。化学廃棄物だと見るも悍ましいモンスターになり、核廃棄物だと人間の原形を留めたままのヒーローになると言う分水嶺がよく分かりません。大体にして、これだけ確実な再現性があれば、警察やら政府特務機関などが捜査や調査を始め、この秘密を突き止め、超人化メソッドの軍事利用に踏み出すことでしょう。この話には全くそのような展開がありません。最初から最後まで、最後のクライマックス以外、ほぼ全部が街のチンピラの小競り合いと殺し合いに終始するのです。

 人命こそ奪っていないものの、金を盗みまくっているスーパー・クリミナルはどのように贖罪を果たすのかだけが、映画半分ぐらいからずっと、私が心に抱いていた関心事でしたが、このジギー・スターダスト系のドチンピラが自分に敵対するグループの根こそぎの虐殺やサッカーの試合を行なっているスタジアムの爆破計画を遂行し始めて、すぐに話が読めました。

 予想通り、主人公はグラム・ロックのドチンピラを倒し、大量爆死の惨事も間一髪で防ぎ、街では「エンツォは偉大なヒーローだ」、「銅像を建てよう」などと噂が広がるものの、「彼は姿を消したままだ」と言うことになりました。姿を消したままだと言っても、完全に顔バレ・名前バレの状態なのです。そして、姿を消したはずの彼は、普段どうしているのか知りませんが、エンディング・シーンで夜のローマの家並みの上に立ち、今は亡き彼女が創った毛糸のジーグ仮面をもぞもぞと被り、宙に向かって飛ぶのでした。

 しかし、飛んだ後は映っていませんが、彼には飛翔能力はありませんし、着地も、『デッドプール』が茶化したような、片膝を折ったスタイルの着地の能力もありませんので、地面に激突して、一旦、動けなくなり、治癒が数十秒後に進んで、徐に立ち上がり、ヨタヨタと歩き始められるだけのことです。なぜ、そんな馬鹿なことにエンディングで挑戦するのかよく分かりません。

 加えて、マーベル・コミックなら決して浮かばないであろう疑問の数々が浮かびます。銅像を建てようと騒ぎになっていようと、特段恩赦が出ている訳でも何でもありません。おまけに、顔バレ・名前バレしていて、さらに、取り敢えず劇中で見る限り、他に同じ方法で超人になった者はいません。つまり、ジーグの毛糸仮面を被っても何の意味もなく、馬鹿力を発揮しただけで、いきなり、彼とバレます。バレれば、警官が逮捕に来て、逆らえば、人的・物的被害が大きく発生してしまうことでしょう。

 街の人々の評価も好い加減極まりないものです。エンツォがチンピラになった経緯が語られる場面がありますが、日本では、全盛期の暴走族でもしないようなことを多々やっていて、本人は特に悪びれる様子もありません。おまけに、現在もモテることもなく、デブ(っぽく見える体型)で口数が少なく、特に気遣いが良い訳でもなく、一見のみならず、実際に口をきいたとしても、頭も悪さは明確で、何かの努力をする訳でもないチンピラが、偶然、力を得て、今までの憂さを晴らすように金を盗みまくっているのです。幾ら『ジョジョの奇妙な冒険』の第五部の主人公もイタリアでマフィアに憧れる土地柄だと言っても、エンツォはマフィアにさえ入れてもらうことのない、地元チンピラのさらに下請けのような存在です。彼をヒーローと祭り上げたがる国民性(?)には、色々な意味で共感ができません。

 パンフには『キック・アス』にこの映画を対比させる意見もありましたが、凡作の第二作は置いておき、第一作のオタク青春モノよりも、私が『キック・アス』の10倍は面白いと思う『スーパー!』に比較すべき映画だと思います。『スーパー!』の主人公は、妻に逃げられた、場末のダイナーでハンバーグを焼く白人男性で、何の超能力もないのに、自分がミシンで縫ったおかしなコスチュームを身に着けて、スパナで悪人を殴るだけしか技も何もないヒーローになろうとする話です。そこには社会風刺があり、優れて鋭いジョークがあちこちに鏤められています。

『スーパー!』のような面白さもなく、ヒーローの能力も中途半端で、それになる主人公も、ただのでくの坊のような現金強奪犯で、おまけに社会背景や設定にも、何か飲み込まれるような面白さがなく共感も持てない。日本アニメへのオタク的な傾倒もあまり見当たらない。おまけに、『皆はこう呼んだ 鋼鉄ジーグ』と言うのも、原題の直訳らしいですが、全く嘘で、鋼鉄ジーグと呼んでいるのは例のメンヘラ女性だけです。エンディング以降のローマでは毛糸のジーグの被り物をしている男を見かけることになるのでしょうが、それが誰か素顔も名前もバレていますから、誰も彼を鋼鉄ジーグとは呼ばないでしょう。

 オリジナルの「バンバラババン、ババンバンババン…」と意味不明な連続オノマトペが炸裂するタイトル曲は、『秘密戦隊ゴレンジャー』と並び称されていますが、それが、それなりにかっこいい歌詞をイタリアでは当てられていることが分かったのは、ちょっとした収穫でした。けれどもDVDが要るほどの何らかのまとまった魅力が他に見つかった訳ではありません。

 映画の主人公が謳っているとパンフにある、エンディングロールのイタリア版タイトル曲で、「大地を走れ」と対訳が出た部分では「テラ…」とかイタリア語が聞こえ、「星の間を…」と対訳が出ると「ステ~レ」と謳っていることが分かり、「ああ、ちょっと、イタリア語分かるじゃん」とか、イタリア語の低レベルのヒアリング能力を確認しました。それでも、映画全編を通して、これだけイタリア語を聞き続けると、ネットでもカタカナ歌詞が紹介されるほど大人気の『攻殻機動隊S.A.C.2』のサントラに入っているイタリア語の名曲『i do』をカラオケで歌ってみたくなりました。

追記:
 この作品を見て、私はこの作品が永井豪作品であることを今になって知りました。正確には、永井豪・安田達矢とダイナミック企画となっているのですが、先述したようなダサく、B級作品的な評価だったが故に、自分が好きな永井豪が関与した作品であることすら知らずにいたのです。この知見を得たのが、もしかするとこの映画を観た最大の収穫かもしれません。