『メッセージ』

 土曜日の夜1時20分の回を観て来ました。場所は歌舞伎町のゴジラの生首が載ったビルです。封切からまだ1週間経っていませんが、23区内でたった13館しか上映してない状況です。あまりメジャーな作品とは言えません。ゴジラ生首の映画館では、1日に6回も上映が行なわれています。

 週末にしては意外に人通りが閑散としている歌舞伎町の商店街を自転車で走り抜け、いつもの通り地下の駐輪場に自転車を置いて映画館へと向かいました。妙に失礼ないつもの警備員は、ロビーに見当たりませんでした。

 シアターに入って見ると、観客はなぜか中年男性が圧倒的比率の50人ほど。この時間にしては週末とは言え、やたらに多い人数に思えました。所謂深夜の寝場所としてこの映画を選んだ人々も多いようで、上映後に見渡して見ると、ホームレス一歩手前のような荒れた服装の中高年男性が10人近く明るくなっても居眠りしたままでした。

 この映画は、原作が有名なSF小説であると言う話を聞く一方で、少なくとも私の周囲では狙って観に行っている人物が少ない映画です。街で時間があったから、ちょっと観てみたら、感動のストーリーだったとか、まさに今回の私が見たような深夜の行き場に困って静かそうな映画を選んで入ったら、印象に残る秀作だったと言うような感想をぱらぱら聞きます。

 原作にも私の周囲の何人かが感激したと言う作品の秀逸さにも、私はあまり関心を抱いていません。映画を観終った後でも、それなりの秀作ではあるものと思いましたが、感動するほどの何かを見つけ出すことはできませんでした。私がこの映画を観に行かねばならないと感じたのは、偏に、主役が、エイミー・アダムスだったからです。

 以前観た『マン・オブ・スティール』の全く新しいロイス・レイン像など、かなり気に入っていて、観たいと思えました。彼女はハリウッド女優陣の中でも、私の好みのタヌキ顔系で決して美貌とは言えないものと思います。今までブログの幾つもの記事で書いていますが、この手の“憎めない顔”タイプの女優が徐々に主役級を張る時代が来ていると感じますし、この手の顔が受けるようになって来ているのも、アニメなどを中心とした日本文化の普及で、典型的な女性キャラの変化が起きているように私には思えます。

 ただ、観てみると、周囲から聞くベタ褒めの評価の根拠は全く見当たりませんでした。まず、第一に残念なのが、プロットは比較的単純なのに、それをわざわざ場面シーケンス上で捻って見せてどんでん返しにしている所です。例えば、散々異常な展開やら望ましくない展開をしておいて、最後の最後に「夢だったのか」と目が覚める「夢オチ」と言うパターンがあります。これはこれで大分巷間に知られるようになり、「夢オチに頼ったストーリーで盛り上げるのは恥ずかしいこと」ぐらいの評価ができているように感じます。しかし、その夢オチも劇中で本人はそれが夢だとは思っていずに話が展開するの普通ですので、まだ誠実です。

 今回のケースでは、エイミー・アダムス演じる言語学者は、事実上、精度高い未来像を見ることができる能力を、非常に平和的なエイリアンと交流する中で身につけたことになっています。この能力は単なる未来予測ではありません。何かそのようなスタンド能力と解釈した方が良いぐらいに、精度が高く、見た映像は避けることが決してできません。

 例えば、劇中で未来を見た結果、過去の(つまり現在の)彼女が中国の将軍のプライベートな携帯に電話をして戦争を回避したという事実を知ります。現在の彼女はその映像を見て、その電話のタイミングが今であることも知ります。ところが、電話番号を知らないのです。それで困惑していると、今度は携帯電話に残っている電話番号を見る未来図をまたビジョンとして見ます。そして、その携帯電話番号を知り、現在のそのタイミングで電話を掛けることに成功するのです。

 時の一方向しかない流れの中での未来図と言うよりも、決定的な未来が現在の出来事とセットになってできていると考えるべきでしょう。未来を予想すると言うよりも、既に決定している未来を先取りする能力と言うべきだと思います。決定していることを前提にその情報をいくらでも流用できますが、その流用によって未来を変えることや、起こるとされている未来を避けることも一切できないと言うことです。

 或る映画紹介サイトのこの映画のあらすじ紹介の中に…

「突然、地球に襲来した異星人との交流を通して言語学者が娘の喪失から立ち直っていく姿が描かれる」

 と書かれていますが、実際に映画を観てみると嘘ばかりであることが分かります。(後述するように)襲来してもいないし、娘を喪失してもいないのです。映画のかなり早い段階で、エイミー・アダムスが幼い娘をシングル・マザーとして育て上げてきた様子が断片的な映像で紹介され、それは、成人近くぐらいまで成長した娘が重篤な病気で息を引き取る場面で終わります。それを見れば、確かにこの紹介サイトの文章そのままのように見えます。ところが、実際には、これも先述の彼女が見た未来ビジョンなのです。それも、冒頭の段階ではまだエイミー・アダムスは、エイリアンに接触もしていず、未来図を見る能力も発現していない段階なのに、冒頭にこのシーンを持ってきた理由を考えると、単純に、観客をどんでん返しで驚かせたいからと言う意図以外に何もないように思えるのです。

 このシーンの存在のために、観客はエイミー・アダムスが子供を失った傷心を忘れるが如く仕事に打ち込んでいると言うことなのだろうと、思いながらストーリーを追いかけることになるのですが、未来図が挿入される頻度はその後、どんどん上がり、その中に、エイリアンの粘土細工が出てきたり、エイリアンとコミュニケーションをとるプロジェクトの相棒となる物理学者の男性と夫婦生活を営んでいるさまが混じり込むようになってくるのです。ここでも繰り返しますが、このような観客をただ徒に混乱させるような演出をする何か必然性があるかと言えば、その方が観客が混乱して謎解きをするようにさせられるからと言うぐらいしかまともな理由が存在しないのです。恐るべき如何わしさの展開です。

 難解な映画はよく存在します。私が観た中では、『マルホランド・ドライブ』などはかなり分かりにくいですし、物語の因果関係が滅茶苦茶に見えます。しかし、これは主人公の混乱を表現する手段としての意味を十分に果たしています。徒に観客を混乱させようとしたものではありません。私が非常に好きな映画でも、『ジェイコブズ・ラダー』は現実世界と夢想された世界、そして死に至る自分自身の中の葛藤の世界などが混然となっていて、(留学中に映画館で見ましたが)周囲の米国人にはちんぷんかんぷんの作品として知られていました。しかし、これもベトナム帰還兵の生の意義・死の重みを問う重要な表現手段だったと私は思っています。

 しかし、この作品の時系列の顛倒には全く意味がありません。寧ろ、この顛倒がない方が、本来この作品が持つ、「エイリアンの(存在と言う)外圧によって団結する全世界人類」と「既に決められている運命を知っても尚、決然と受け容れる姿勢の美しさ」と言う素晴らしい二テーマの組み合わせが、きちんと表現できたように思えます。パンフを見ると、編集室で画像をどのような順序で組み合わせるか非常に悩んだと言うような記述がありますが、全く馬鹿げた判断をしたものだと思わざるを得ません。

 主要テーマの二点を一つの物語に組み込んだ妙は、間違いなく評価できますが、その各々は特に目新しいものではありません。前者の「エイリアンの(存在と言う)外圧によって団結する全世界人類」は、かなりクリシェです。端的に言えば、『バトル・シップ』や最近続編ができた『インディペンデンス・デイ』などは好例ですし、「人間にもう一度チャンスを下さい」的な展開の『地球が静止する日』などの名作も存在します。

 敢えてこの作品がこのジャンルの中で多少屹立している所があるとしたら、エイリアンの存在がきわめて平和的であることです。私が日本のSFロボットアニメの中で、右に並ぶものがないと信じている『伝説巨神イデオン』など、これも幾らでも先行した秀作はありますが、基本的に好戦的な設定の性格の人類故に、単に共通の地球の敵ができたから全人類の共闘を選択するのが、ハリウッド映画のメイン・ストリームです。そんな中で、平和的なエイリアンが、せいぜい宇宙船の方向転換する際に電柱を数本破壊する程度しか被害を及ぼさないままに、地球人の団結を促すという物語は、少数派であるのは間違いないことと思います。だからこそ、マイナーな映画の位置付けにされているのでしょう。敢えて探せば、『未知との遭遇』の事例もありますが、あれはあの時代だから名作足り得た映画です。そして、少なくとも電波障害などの様々な障害をもたらしていますので、ギリギリ「襲来」したと言える域でしょう。

 さらに、もう一つの主要テーマも、同様にハリウッド臭くない展開で目を引きます。「既に決められている運命を知っても尚、決然と受け容れる姿勢の美しさ」は、ハリウッド映画ではあまり見られないように私は思います。「お前の未来は悲惨なことになる」と主人公が言われる場面が10作のハリウッド映画に存在したなら、そのうち9作において、映画の物語は、その主人公が運命を覆し自分で新たなものを切り開いたと言う話になることでしょう。残り1作で、最後にその運命的惨状が仮に発生してしまう展開でも、後付けで主人公が「この惨状は耐えがたいが得るものは十分にあった」的な解釈を付け加えると言ったことになるでしょう。

 それが、この作品のエイミー・アダムスは、決然と悪い展開の運命を受け容れると言うことになっています。確かにその通りですが、それは、例の能力が発現して、彼女が世界を救った神的ヒロインとして扱われる未来を見た後の話です。この能力がもたらすであろう輝かしい未来を受け容れるなら、悲劇を実現する未来も同様にもたらされた以上、受け容れねばならないのは必然です。そして、その悲劇の未来は、現在の仕事のパートナーの男と結ばれ、一女を設けるものの、男は何の理由か去って行き、さらに娘は成人前に奇病で死んでしまうと言う未来です。その未来を知っていて尚、男のラブコールを受け容れることにしたと言うだけの話です。

 勿論、自分の元を去ることが分かっている男と結ばれ、死ぬことが分かっている娘を生み育てるのは、愉快な話ではありません。しかし、前者は、相互の自己主張が激しいせいか、どれほど「神が創り給うた本当の愛の対象」と結婚式で言い募っても、なんだかんだで離婚率が馬鹿に高い米国のことです。別になんだと言うことでもありません。ひと時の恋愛関係や結婚生活から得るものもたくさんあることでしょう。

 後者は、確かに子供に先立たれるのは悲しく辛いことであるとは思いますが、たとえば、或る日突然幼い子供を犯罪で殺された親でさえ、子供との短い時間はかけがえのないものであったと言います。私も、私の親から、「親は自分の子供を育てさせてもらっているものだと思うべきだ」と言われたことがありますが、自分も親になって、子育ての経験から学ぶことの多さに唖然とさせられることがよくあります。そのような人々に影響を与えることができるのが一人の人間であり一人の子供であるのなら、その人生の長短は大きな問題ではないことでしょう。それに、人間誰しもいつかは死にます。成人前に死ぬことが分かっているから生まないと言うのは、どうも共感できない価値観です。ですから、エイミー・アダムスの「既に決められている運命を知っても尚、決然と受け容れる姿勢の美しさ」は、否定するものでは決してないものの、「ま、普通はそうするんじゃないの」と言う程度の妥当な内容でしかありません。

 これに比べて、たとえば、『ジョジョの奇妙な冒険』の第一部に登場するツェペリは、「まだデキがイマイチの弟子を庇って、カラダをねじ切られて死ぬ」と言う運命を知っても尚、そこから逃げることがありませんでした。私なら、「すみません。弟子とるの止めていいですか」と絶対に回避しようと思うでしょう。こんな究極の悲惨さの運命を受け容れるキャラクターは、結構、日本の色々な物語に見受けられます。これに比べたら、エイミー・アダムスの「決然と受け容れた運命」など、人生の日常茶飯事のように思えてくるのです。

 おかしな価値観に長らく犯され続けてきたハリウッド映画の中で、かなりまともな映画を作り得たのに、中身を揃えることはできても、馬鹿げたウケ狙いの構成を組み上げて、くだらない作品にしてしまった、「ナイス・チャレンジ」な作品と思いました。このような、当たり前の話の要素に、「感激した」とか「学んだ」とか評価している人々は、多分、典型的ハリウッド映画しか見てこなかった可能性もややあるものと思えてなりません。

 私は、殆どのシーンで登場するエイミー・アダムスをBGVとして流せる活用法があるが故に、DVDは辛うじて買いだと思っています。

追記:
 この映画のタイトルは『Arrival』です。『アライバル』と言うチャーリー・シーンが主演の秀作のSF映画があったので、それとのカブリを避けたのかもしれませんが、この作品のイメージからすると、直訳は相応しいように思えます。