『愚行録』

 2月中旬の封切から約1ヶ月。僅かに雨がちの月曜日の午後2時5分の回を新宿ピカデリーで観て来ました。中高生に先駆けて、大学生は既に春休みのようで、ロビーには平日の真昼間からその手の層が男女混じって溢れかえっていました。

 先にサブナードのチケット屋に行って割引チケットを1400円で入手してピカデリーのロビーに着いたのは、上映開始時間の45分前。テーブル席の前に余っていたスツールに腰かけてPC仕事をしていたら、カップルに見えた大学生の男女が、隣で延々とコイバナを繰り広げていました。くっついても不思議ではない二人が、現状では互いに他の相手を狙っていると言う体になっているようで、互いに「この子」とスマホで写真を見せ合っては、「いいーじゃん」などと微妙な心理的距離感で褒め合っていました。

 シアターに入って見合わたすと、ほとんど満席状態で、最後列の壁から二つ目の席に陣取っていた私の両隣りも、私が座席指定をした際には空いていましたが、私以上に年の行ったおっさんが各々埋めました。全体的に見ると、やはり、若い男女に観客層が偏っていますが、中高年者もそれなりには目立ち、この作品の人気の高さが分かります。

 作品の人気のポイントは、原作小説の知名度がまず挙げられることと思います。雑誌記者が1年前の一家惨殺事件を再度記事にまとめるべく、殺害された30代半ばの夫婦の情報を取材して回る流れは、映画も原作通りです。ただ、かなり厚めのパンフレットを読むと、小説では取材相手の語る内容とその様子ばかりが羅列されているだけで、主人公であるはずの記者についての直接的描写は登場していないと書かれています。これも、パンフに書かれていますが、主演の妻夫木聡は役作りに非常に苦労したと述べています。

 この映画のオープニングは、満員状態のバスの後方二人掛け席の窓側に座っている妻夫木聡がボーっとしていると、「おい」と年配の男性が何度も呼び、彼の後ろにいる杖をついた老婆に席を譲れと半ば命令的に促すのです。すると、妻夫木聡は無言で席を譲りますが、不自由に見える足を引きずって席を離れ、さらに走行の揺れで、ばったりと床に倒れ込んでしまったりします。それを、席を譲らせた男性は気まずく苦々しい感じで無視しています。足を引きずりバスから降りた妻夫木聡はバスが視界の外に去るのを見送って、普通に歩み始めます。まるで『ユージュアル・サスペクツ』のエンディングのケヴィン・スペイシーのようです。このような場面は当然小説にはないとのことです。こう言った創作部分を原作のファンはどのように受け止めているのか分かりませんが、私にはこの作品の全体を象徴する素晴らしい創作シーンだと思いました。

 小説を読まない私が、読後感が厭な気分になるミステリー小説を「イヤミス」と呼ぶことを知ったのは比較的最近のことで、『何者』の感想でも言及しました。この作品は、著者が「イヤミス」と言う言葉がない頃から、「イヤミス」と後に呼ばれるものを意識して書き、発表当初は否定的レビューが非常に多かったと回想しています。しかし、それが作者の意図であったなら、このオープニングは余計のこと、最高の出来栄えだと思います。

 作品の別の人気ポイントは、多分、役者陣でしょう。妻夫木聡の人気はやはり絶大であろうと思いますし、男優では小出恵介が居て、女優陣には、満島ひかりや市川由衣がいます。妻夫木聡はここ最近、色々な場面での登場を認識できるようになってきましたが、私にはやはり、『ジョゼと…』と『悪人』の二本が際立っています。これら二本は、私の邦画ベスト50に入っています。

『悪人』では妻夫木聡とセックスした後に殺し殺される仲になる満島ひかりですが、今回は兄妹でやはり禁断のセックスに打って出てしまっています。『悪人』が私はかなり好きな映画なので、実は、この二人の役回りを『悪人』のものと比較してみたかったのが、私のこの映画を観に行った最大の動機です。妻夫木聡の無表情な怒りも、高階級への憧れから無為の努力を重ねて急速に消耗していく満島ひかりも、非常に見応えがあります。Folder5時代の彼女を全く覚えていませんし、好きなタイプの顔つきでもありませんが、『愛のむき出し』、『川の底からこんにちは』、『悪人』、そして本作と、自力では避けることのできない社会構造の歪みから、精神を病み暴走に至る女性を演じると、満島ひかりは本当に光っています。

 小出恵介は、特段好きと言うこともない男優ですが、『初恋』、『僕の彼女はサイボーグ』は、これまた、私の邦画ベスト50に入っている作品群です。市川由衣は、『罪とか罰とか』の存在感あるコンビニ店員としてぐらいしか、つい最近まで特段関心が湧かなかった女優ですが、何と言っても『海を感じる時』です。この映画を観に行きたいと思えたもう一つの理由が彼女の存在でした。今回も或る意味最も悪意が顕現している女性を演じていますが、ハマってます。彼女以外が演じたら、かなりぎこちなく整合性のないキャラになったのではないかと思えてなりません。

 実際、彼女以上に重要で出演時間も長い女性が、その状況に陥っています。臼田あさ美と言う女優演じる、本作品の主題である学内カースト構造を、過剰に意識しつつ受け入れられなかった自分を認めたくない女性です。脚本やせりふ回しにかなり救われている感じがしますが、やはり少々ぎこちなさが目立った気がします。この女優は、遥か以前、『桜並木の満開の下に』と言う劇場で観た映画の主役を張っていました。ストーリーが破綻寸前に見えるこの作品は、微妙な心情が交錯する人間関係を描いていますが、この作品での主役を成立させるのに、彼女は力不足であったように私には思えます。今回は逆パターンで、設定や台詞などに救われて、キャラが十分に立っていますが、もっと物語の進行を支えるカギの役回りとして記憶に残る存在になりえたように思えます。

 人気原作と人気俳優陣。この二つの魅力が大きいことによる人気がこれだけの入りを支えたのであろうと思いますが、原作も知らず、俳優人気だけで観ることにした私には、驚愕の名作でした。何が凄いかと言うと、イヤミスとして一級のイヤミスなのですが、モチーフが日本の学歴階級社会で、それをまるで凝視して点描しているかのごとく細かく描くのです。

 話の構造を俯瞰してシンプルにまとめると社会の高階級にいるとされる人々が、低階級の人々に報復され合計4人も落命する勧善懲悪の物語です。その意味では、最後に喝采があって然るべき作品です。しかしながら、この作品は、勧善懲悪の「善」側の人々も妬み羨み、足掻いた揚句に、「善を勧める」色彩は殆どなく、単に「悪を懲らしめる」のでもなく、「悪に報復する」を果たしている構造なので、イヤミスとなっているのです。

 物語の舞台は現代ですが、話の半分は15年前のほぼ総ての登場人物が大学生であった時代を描写します。(その結果、多くのキャラは学生時代と現代の両方が登場するので、ここでもまた役者の演じ分けの力量が問われます。)

 その大学は劇中「文應大学」となっていますが、明らかに慶応大学をモデルとしていることが分かります。そこには「内部生」と「外部生」と言う明確な階級分類があるとされています。内部生は幼稚舎からの「本当の文應大学生」であり、彼らの親族の資力による彼らだけの社交の世界が存在します。外部生は受験を経て文應大学に入った「付け焼刃の文應大学生」です。

 単純にこの構造だけなら妬み嫉みはあまり発生しません。問題は、外部生なのに内部生からその存在を認められ、同等に扱われる存在が生まれる余地があることです。社交性などの何かの能力に秀でた外部生が内部生に取り入り、内部生に認められると、その外部生には他の外部生に対して「権力」が発生します。それは「他の外部生を内部生の社交界に引き込むことができる」と言う「権力」です。

 劇中でこの準内部生扱いの学生は夏原と言う女子大生で、他の学内でも日陰者扱いの外部生の女子達に対して、「(内部生の)■■君が可愛いって言っているよ」などと言って内部生のパーティーに呼び、言わば「肉便器」的状態に陥れたりします。本来の入学由来で規定されていない外部生間の見えない階級差が大きな軋轢を生むのです。

 内部生は本来内部生だけの社交で世界が完結しています。そこには外部生は存在していません。それはまるで、同じ地下通路に同じ瞬間に存在していても、通行人が下水溝脇に横たわる浮浪者を存在しないものとして扱っている認識構造と変わりません。しかし、自分の特権をひけらかしたくなる欲求は頻繁に生まれるようで、意味もなく、ただ本人達の楽しみのために、外部生を愚弄し、嫌がらせをし、惨めにさせてみます。これも、世界史を振り返る中で、大量の動物虐殺や現地人虐殺は、主に白人が行なっていることと同じ構造です。

(もちろん、アフリカ大陸の黒人による部族対立の虐殺などもありますが、トータルで見れば数が違います。)

 劇中、後に夏原の夫となる小出恵介は、文應大学生の内部生ではないようですが、明らかなエリート校の出身者です。彼は、「そうではないものが彼と親しくなりたくなる」と言う権力を持っています。それを使いまわし、女性達とセックスを重ね、「愛情」があるように振る舞うことで、結婚詐欺ならぬ恋愛詐欺状態を簡単に実現しています。その自覚性は驚くべきで、市川由衣を含む女性達に詰め寄られようと泣かれようと、悪びれることがありません。おまけに、それらの女性を「(使える)コネ」と見做し、女性の父親の会社への就職斡旋や口利きを要求して実現していくのです。

 終劇後のシアターから去るたくさんの観客の中から、「あんな奴、絶対受け容れられないよね」的な発言を耳にしましたが、彼が意識的に使う使わないにかかわらず、周囲に「結婚する相手なら良い大学出じゃないと」と婚活する女性が居る限り、この権力構造は発生します。そして、婚活「市場」の話を聞く限り、このような選択はむしろ当然のこととされているものと思います。ただ、小出恵介のケースが婚活市場の一握りの単純な権力ある男性陣と異なるのは、寧ろ相手の女性側の一部に、劇中の市川由衣のように、その権力をセックスや自分の父親の職業斡旋を餌に、意識的に利用とする人々も存在することです。これも、先述の文應大学内で内部生と親しくなった「準内部生」の持つ権力構造と同じです。

 私は留学時代の夏休みなどの長期休暇には帰国して主に東京でアルバイトをしていました。カネの心配が薄れてきた卒業年のアルバイトは、大学で学んだマーケティングに関連する仕事にすることにして、バブル崩壊直後の時代に『日経アントロポス』に載っていたマーケティング・リサーチの会社で働きました。このマーケティング・リサーチの会社は慶応大学出身者、それも、殆ど同期の数人によって起業されていました。学生ベンチャー企業です。内部生二人の役員がバブルに乗って、人脈やノリの中で彼らが「マーケティング・コンサルティング」と呼ぶ案件獲得をし稼ぎつつ、外部生数人の役員は一部の小型案件を処理しつつ、PRや人事・総務などを担当していたように記憶します。

 社長は慶応大学時代の教授から紹介された「信頼できるまとめ役」と位置づけられる、役員全員よりも数歳年上の国立大出身者でしたが、エリートであることには変わりません。外部生の役員と社長は、私に「指導」をきちんとしてくれましたが、内部生は社内でも如何にも横暴な感じに振る舞い、私にも雑用をぞんざいに言いつけたりしていました。

「今朝この事務所を引越ししようと言うことになったから、急ぎ、引っ越し先を探すのがお前の今日の仕事だ。アルバイトなんだから名刺もないが、近所の不動産屋を回って引っ越し先に適当な物件を調べてこい。そうだこれもってけ。役に立つぞ。雨が降っているからな」とビニール傘を一本渡されたことがあります。もう一人の内部生も「おお。行って来い。まあ、Tシャツにジーパン姿でアルバイトが来たのに、不動産屋が相手をするかどうかからが、チャレンジだがなぁ」などと笑っていました。

 結果的に、私が十数軒の不動産屋で話をして回り、そこからファクスで送られてきた物件情報を外部生の専務と社長が貯めおいてくれて、私が戻ると投資効果その他、見るべきポイントを教えてくれ、最終的に私が選んだ物件に引っ越しが決まりました。

 この会社での二度目のバイト期間の最後に、人事を担当する外部生が「市川、もし受ける気があるなら、ウチの社員採用の面接受けるか?」と尋ねてきました。就職の当てがなかった私は、取り敢えず、面接を受けることとなりました。外部生役員二名と(教授推薦の)社長と内部生役員の計四名の面接を受けた私は、後日採用を言い渡されました。

 私がその後の大学の最終学期でインターンシップに行った、当時のアンダーセン・コンサルティング本社からの紹介で、日本法人に入れることが決まり、お世話になったベンチャー・マーケティング会社の人事担当外部生役員に相談したところ、「ウチには後からでも来れるけど、アンダーセンは今しか入れないだろ。聞くまでもない」と、アンダーセン行きを後押ししてくれました。

 しかし、その可能性はあっさり消えました。ベンチャー会社の中では、内紛が起き、内部生役員が全員辞めたのです。そして、その後、色々な他社事業に関与しつつ存続していた会社も、所謂「発展的解消」を遂げました。特にお世話になった元人事担当外部生役員に呼び出され、食事をしたところ、「結局、お前の面接をきっかけにギクシャクし始めたんだよ」と言われました。詰まる所、内部生の面々は、まさにこの作品にある通り、自分たちで立ち上げた会社を、自分たちのノリで自分たちの能力の範囲で運営する社交場にしておきたかったのだと思います。私と言う外部生にさえ成り得ない、階級で言うなら不可触民のような得体の知れないものを、自分達と同列に扱うことを絶対に避けたかったのでしょう。

 そんな原体験やら、独立後も慶応大学出身者のオレキレキが集う三田倶楽部に数度同伴で入ったりした経験やら、幼稚舎に子供を迎えに行く社長のベンツに乗り合わせた経験から、私はこの作品の中で繰り広げられる世界が非常にリアルなものと知っているつもりです。最近の有名高偏差値大学で連続する集団女性凌辱事件などの背景にもこのような構造があると容易に想像がつきます。

 だからこそ、劇中のセリフにある「日本に格差なんかない。あるのは階級だ」と言う重たいセリフにも、拍手喝采の思いでした。よくぞ、この人間関係の知られざる切り口を精緻に描いたものだと思います。

 この映画を『何者』で自分の醜さをさらけ出した就活生達とつなげてみたら楽しいでしょうし、『ビリギャル』でさやかちゃんを鮮やかに慶応大学に送り込んだ坪田先生は、結局、被差別階級の勘違い学生を量産していただけなのかもなどと考えたりするのも悪くありません。色々と夢想が湧いてくる映画でした。鑑賞後の気分は、ちょっと『おそいひと』の時に似ているかもしれません。DVDは当然買いです。

追記;
 この映画のエンディングもなかなか優れものです。最初と殆ど同じ構図のバスの中の風景なのです。ところがオープニングの際とは一つ大きな相違点があります。オープニングでは全員沈鬱な表情なのに対して、エンディングでは、全員、まるでエアロビクスの選手のように貼り付いた笑顔を保っているのです。この笑顔が封じ込めている社会の薄暗さを散々見せておいてからのこのシーンはかなり衝撃的です。