『ドクター・ストレンジ』

 封切から6週間ほど。大分時間が経って、かなり早い段階から、バルト9では1日1回の上映になっていました。需要の推移に敏感に反応するように見えるバルト9に比して、新宿ピカデリーでは、1日3回の上映が維持されていました。上映回数の選択肢の面から、今回は都合がつく時間枠のあった新宿ピカデリーの午後6時50分の回を木曜日に観に行ってきました。

 微妙な作品です。何がどう微妙かと言うと、全体的に中途半端な立ち位置の作品と(少なくとも私には)感じられることです。パンフには、「マーベルのコミックの中でも、『アイアンマン』シリーズから広がり続けている世界観に、満を持して『ドクター・ストレンジ』が登場した…」などと書かれています。しかし、マーベルの世界観は大きく先行する『XーMEN』は孤高の作品とされる中で、アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ハルク、ソーとどんどん参加者が増えて行って、アントマンやら従来作品から底無しにしょぼくなったスパイダーマン、さらに私が全く聞いたことがなかった『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の面々など、かなりマイナーな所にまで至っています。そこで登場するドクター・ストレンジが、「満を持し」た筈がないと考える方が自然です。

 他を振り返ってみても、アイアンマンのロバート・ダウニー・Jr.と、ブラック・ウィドウのスカヨハ、アイアンマンの彼女のグウィネス・パルトロウ、そして、ソーの彼女のナタリー・ポートマンぐらいしか、広い認知度を持つ俳優が参加していないと言うことはありますが、それにしても、今回のこの作品には、メジャー級の俳優が見当たりません。敢えて言うと、ユニセックスの権化のようなイメージで、その手の役しか代表作にならないようなティルダ・スウィントンぐらいでしょうか。私は『オルランド』の(外科手術に拠らず)性転換するキャラクターや『コンスタンティン』の天使など、彼女のはまり役が印象に残っています。

 さらに魔法だの魔術だのの世界が、また、今時の表現を採用すると「フワッとした感じ」で、世の中にある各種の魔法の世界観がごっちゃ混ぜになっているように思えました。スウィントン演じるエンシャント・ワンと言われる師は、ケルト人起源らしいと言われています。ケルト文化は『魔法使いの弟子』でも魔術の原点とされています。しかし、修行が行なわれるのはカトマンズからさらに進んだ山奥だったりします。さらに衣装や武道の修行の様子は、どちらかと言えば、少林寺をモチーフにした映画作品のようです。これを、西欧人の他文明に対する敬意の足りなさと取るべきなのか、優れた文化横断的なイマジネーションと取るべきなのか、判断がつきません。

 トレーラーを見た段階で、これらの「微妙さ」は分かっていたので、この作品の劇場における映画鑑賞の優先順位を下げていたのですが、ここ最近、どうも観たいと思える映画が少なく、とうとう、脳内のジョブ・キューの中で処理の番が回ってきたものです。

 観てみると、一応、楽しめました。複雑で独創的な魔術の世界観の説明的描写は全く不十分ではあるものの、『マイティ・ソー』シリーズの唐突さに比べたら、まだだいぶマシです。むしろ似たジャンルと或る程度は言えそうな『魔法使いの弟子』や『パーシー・ジャクソンと…』シリーズなどに比べて、荒唐無稽感が少なく、プロの外科医の目から見える世界であり、シブいおっさんの目から見る世界である、舞台と物語の設定には多少の好感が持てます。

 さらに、全体を通して何度も登場する、空間を捻じ曲げたりする魔術のシーンが、素晴らしい特撮になっています。あの『インセプション』のエッシャーの作品を連想させるような映像美を凌駕するぐらいになっていると思いました。さらに、精神世界のような場に、科学文明への過信に捉われている主人公を師がいきなり押し込む場面がありますが、これも、展開だけで見ると『マトリックス』のようですが、画像の万華鏡の中のような美しさや複雑さは、寧ろ『アルタード・ステーツ』や比較的最近劇場で見てとても愉しめた『LUCY/ルーシー』に近いように感じます。

 ドクター・ストレンジら魔術師が放つ魔法も花火の火花を連続させたようなグラフィックで表現されていて、斬新です。一時期『スター・ウォーズ』のライトセーバーの殺陣のビジュアルが凄いとそれなりに話題になっていたことがありますが、(私は『スター・ウォーズ』シリーズに全く関心が湧かないことも相俟って)こちらの方が数段美しい表現に感じられます。

 さらに戦闘方法では、一つ画期的な見所があります。異次元空間から全宇宙の支配を目論んでいるドルマムゥは強大で、天才的なセンスがあるとは言え、つい最近魔術をマスターしたばかりのドクター・ストレンジは敵う訳がありません。さらに、「医師の誓い」だか何だかによって、ドクター・ストレンジは敵であっても生命を奪うことを良しとしていません。(ドルマムゥが生命を持っているのかどうかは、かなり疑わしいように思えますが…)

 そんな中で、ドクター・ストレンジは、禁断の魔法書を盗み見て覚えていた「時間ループ」の魔法一本で敵に挑みます。余り類例がない戦い方です。現世・現次元に現れたドルマムゥの場所に行き、“Dormammu, I’ve come here to bargain.”(「交渉だ」)と言いだします。ドルマムゥは、当然、そんな気が無いので、あっさり、強大な力で、ドクター・ストレンジを消し去ります。すると、時間ループが発動して、まるでDVDのチャプターの頭出しでも見るかのように、再度、“Dormammu, I’ve come here to bargain.”と登場するのです。この時間ループはかなり執拗で、ドルマムゥのみならず、観ている側も笑いとウンザリ感の両方が湧いてくるほどです。

 結局、ドクター・ストレンジは、負け続けることを永遠に続けることで、ドルマムゥに撤退と言う自分の要求をのませることに成功するのです。ドクター・ストレンジが戻ってきた現世ではほとんど時間が経っていないようですから、彼がループされた時間は全世界共通のものであったようです。つまり、全世界でほんの1分に満たないような時間の反復を(映画で見る限り)十数度は繰り返したことになります。物凄く傍迷惑な戦術を取らざるを得なかったほどに、時空間レベルの世界の命運を決める戦いだったのであろうと好意的に受け止めざるを得ません。

 相手を結果の出ない無限ループに落とし込むと言う奇妙な攻撃技は、ジョジョ・シリーズで私が最も好きな第五部の主人公、ジョルノ・ジョバーナがスタンドの技として繰り出します。ただ、その場合は時間ループが繰り返すのではなく、敵を殺害する交通事故や刺殺、溺死などのあらゆる死が敵を次々と襲い、死んではまた次の死のために生き返ることを繰り返します。さらに、実世界に攻撃者であるジョルノ・ジョバーナは存在し、特に攻撃を意識しなくても、攻撃は発動し継続しています。当然、実世界の中の時間は正常に流れています。このジョルノ・ジョバーナの技と対比すると、今回のドクター・ストレンジの技は、究極に傍迷惑です。結果的に、「このループを停めろ」とドルマムゥが懇願する状態になって、撤退に同意させたようです。

 詰まる所、ドクター・ストレンジの技は、攻撃技ではなく捨て身の交渉テクであったと解釈すべきでしょう。悪を説得して撤退させると言う場面は、勧善懲悪が大好きであるらしい海外の物語にはあまり登場しません。刑事裁判で本来の量刑が出ることが少なく、犯罪者と公が取引をすることで決着する米国らしい発想と言う風に見ることもできなくはありません。

 トレーラーで観た際の今一つなポイントは数々あるものの、総体的に面白いと思える作品でした。結局典型的アメリカ人的な知的エリート意識から抜け切ったとは思えないままの主人公のキャラ設定。どこかで観たことがある好きなタイプの外観のヒロインと思っていたら、最近DVDで観たばかりの『スポットライト…』にも登場していたレイチェル・マクアダムス。細かな再見の価値あるポイントもあるので、DVDは買いです。

 1日の上映回数はかなり限られているものの、6週間の連続上映は、それなりの人気と考えることもできます。マーベル・コミックの中での人気は先述の通り相応に微妙ですが、何かの口コミなのか、世の中に私の想定以上にマーベル・コミック・ファンが存在するのか、観客は50人以上はいました。男女構成は半々ぐらいになっていて、ばらつきは大きいものの、平均値は20代後半から30代前半にあったように思えます。平日の夜であるのに、(午後の仕事からまっすぐ向かった私以外には)背広姿の男性はほぼ皆無だったように記憶します。封切6週目にして、このような客層を募ることができるこの作品の魅力や背景が私には分からず仕舞いでした。

追記:
 全く予備知識のなかったドクター・ストレンジですが、まさか、(発音的には「ストレインジ」の方が近い)ストレンジが本当に主人公のラストネームだとは思っていませんでした。「変」と言う苗字の人間が居たら、子供は高確率で虐めに遭うのではないかと思います。
 劇中、組織を裏切りドルマムゥの手先となる魔術師カエシリウスが、初対面のドクター・ストレンジに会い、名前を尋ねるために、「ミスター…?」と苗字を言うように促すと、魔法使いバリバリの恰好をしているのに医師のプライドが捨て去れないドクター・ストレンジは、「ミスター」ではなくて、「ドクター」だと言う意味で、「ドクター!」と応えます。
 すると、カエシリウスは、相手の苗字が「ドクター」なのだと思い込み、「ミスター・ドクター」とその後、数度呼ぶことになります。これには笑えました。ただ、端的に苗字比較をした場合、「変氏」と「博士氏」ではどう考えても後者の方が相対的にまともです。そんな考えにどれほど英語文化圏の観客は共感できるのか分かりませんが、少なくとも私には秀逸なギャグに見えました。

追記2:
 帰りにパンフを買いに売店に行くと、売り切れとなっていました。役名やら設定やら、色々と確認したいことがあるので、パンフを買い求めようと、バルト9の売店に足を運ぶと、まだ売っていました。1日3回の上映館ではパンフレットが売り切れて入荷の見込みがないと言う話で、1日1回の上映館ではパンフレットが余っている事態を、どのように解釈すればよいのかが分かりませんでした。

追記3:
 マーベル作品のお決まりで、エンドロールの後にもちょっとした次作品に続くエピソードが登場しますが、今回は二つもあります。一つ目は、ドクター・ストレンジとソーの会話シーンで、もう一つは掻い摘んで言うと魔術師同士の内輪もめ的な感じの、魔術師がもう一人の魔術師の能力を完全に奪い取ってしまう場面です。その際に凶行(?)に及んだ側の魔術師が、“Too many sorcerers”と理由を述べます。
 魔術師が多すぎるのは劇中において本当ですが、既にマーベル・シネマティック・ユニバースでは、ヒーロー、ヒロインがインフレ状態で魔術師が増えても別に無限大に1を足すような結果でしかないような気がしないではありません。