『ANTIPORNO』

 封切からほぼ2週間経ったこの作品を土曜日の午前中に観てきました。毎月、映画館で二本の映画を見るノルマを今月は全く達成できていなかったので、焦って、以前からリストアップしていた映画を早く見るべしと思い立ち、大の苦手な早起きをしてまで、新宿東口の武蔵野館に行きました。

 多分、日活ロマンポルノからの起算だと思いますが、今年はロマンポルノ45周年なのだそうで、それに当たって、ロマンポルノをリブートすると言う企画が立ち上がり、異なる監督によって、合計5作品が作られたようです。この企画は、私も以前からあちこちのミニシアターに行くごとに、何となく目にはしていて、気になっていました。

 この作品は、昨年11月から順次封切られ始めた5作品のうちの4作品目です。私が一番見に行きたかったのは、ケイズシネマで先月中旬に封切られた『牝猫たち』ですが、上映期間が短く、仕事でドタバタしているうちに、見逃してしまいました。監督が『日本で一番悪い奴ら』と『凶悪』の監督だと知ったことが一番人気の最大理由です。レビューその他で見る限り芳しい評価ではないようなので、私ももし見ていたらどのように感じていたかは、ちょっと怪しい感じはしますが、少なくとも、観たいと思っていた映画ではあります。(これが、歌舞伎町が舞台ならもっと良かったと思いますが、残念ながら舞台は私にとって特に関心が湧かない池袋だったように記憶します。)

『牝猫たち』を見逃したのですが、一応、このシリーズを一作品ぐらいは観ておくべきかと考えて、今回何とか観ることができたのが、私にとっての二番人気の『ANTIPORNO』でした。役者に特に観たい人がいる訳でもなく、監督が園子温だったことが、ギリギリこの作品を認識できるものにしたと言う感じです。

 このシリーズにそれだけの“一応”の執着があった理由は、やはり、日活ロマンポルノ作品への好感があります。このブログを書き始めてからしばらく経った2010年にも『ロマンポルノ RETURNS』と銘打った企画がありました。この際にも、第一弾の『団地妻 昼下がりの情事』を観に行きたいと思っていて見逃してしまい、第二弾の『後ろから前から』を観たら、全く冴えない映画で落胆しました。

『後ろから前から』の感想には、オリジナルの日活ロマンポルノに対して私が思っていることが…

「日活ロマンポルノが全盛であった時代、私はまだ小中学生であったりして、(ビデオさえない時代の地方都市では)リアルタイムで日活ロマンポルノを見る機会は全くありませんでした。最近では、『二十世紀少年』にそのような場面がありますが、街角や銭湯の壁に貼られたポスターを見て、アダルトビデオもない時代に、「ピンク映画」と呼ばれた一群の映画の内容を想像していたのでした。日活ロマンポルノはポルノ映画の中でも、(場合によっては、セックスシーンでさえなく)裸さえ出てくれば何でもありのストーリーや設定の、或る種の「実験映画」のシリーズであることに気がついたのは高校生ぐらいになってからであったように思います。
 見ることもなかった日活ロマンポルノに未成年の段階でも関心をもったきっかけは、日活ロマンポルノ出身の美保純が当時、竹中直人と同棲していて(同棲と言う言葉自体が当時は甘酸っぱい特殊な響きがありましたが。)、徐々に一般の知名度を上げていたこと。そして、アイドル歌手であった畑中葉子が日活ロマンポルノの女優に転向し、『後ろから前から』に主演すると同時に、同じタイトルの歌まで歌うという、破天荒な企画が、衝撃を世の中に与えたことでした。(それも一般向けの歌番組ぐらいしか歌を歌える番組はないわけですので、ゴールデンタイムに所謂「お茶の間」に向けて流れたことになります)
 成人した頃には、ビデオが登場して日活ロマンポルノも含めたポルノ映画は迷走を始め、ロマンXと呼ばれる作品群が出たり、性描写が少ないソフト路線のものも増えたり、日活系の映画館がロッポニカと名称を変えたりしました。札幌にあったロッポニカに行き、『箱の中の女』や『噛む女』などを見た覚えがあります」

と書かれていますが、今から見返してみても、斬新さを感じる作品や当時の世の中のけだるさのようなものがにじみ出る名作が幾つも見つかるシリーズだと思っています。この想いから、『RETURNS』企画でえらくハズしてくれたロマンポルノの復活が今回はどうなったのか、一応見届けて観たかったのです。

 それにしても、この作品を観に行ったのはかなりの妥協です。まず監督の園子温に対しては、以前はかなり好きな作品がありましたが、『ヒミズ』で東日本大震災のイメージに捕らわれ始めた様子に何か違和感を覚えるようになり、『希望の国』は完全に関心が持てなくなり、園子温の作品が出ると「観ておこう」と思い立つ習慣が消えました。その後、変な役を演じる作品は一応見ておきたいと思っている二階堂ふみが出ることになっていたので『地獄でなぜ悪い』はDVDで観ましたが、二階堂ふみと堤真一は楽しめましたが、それだけの映画だったように思います。

 それまでの園子温の作品には、私が自分の好きな邦画BEST10に入っている『紀子の食卓』や、それと話がつながっている『自殺サークル』もありますし、比較的最近の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』も私はかなり好きな作品です。園子温の何が、私に関心を持たせなくなったかと言うと、多分、思想や思い入れを直接的に表現しようとしている所ではないかと思います。

『ヒミズ』でも、私にはなぜあれほど東日本大震災の場面が意味もなく挿入されるのか全く理解できませんでした。東日本大震災が或る意味日本史の中の出来事として記述が常に残る大惨事であることは勿論分かっています。しかし、原作から持ってきた映画で、他の場面はそれなりに原作に沿って作られていたらしい作品で、「自分が衝撃を受けたことをただネタに入れるのかい」と言う唖然とさせられた感じが、違和感の最初でした。さらに、そのようにした自分の判断をかなり色々と発信するようになり、自分の映画観・作品観をあちこちでコメントしまくるようになったように私は感じています。

 一大ブームとなったと言っていい『シン・ゴジラ』や『君の名は。』は、私も全く好きになれませんし、関心も湧きませんが、それを「クソ映画」・「ゴミ映画」とツイッターで批判しまくるなどの態度にも全く共感ができません。『ヒミズ』のごっちゃ混ぜ感は、ネタの目利きが全く感じられない采配でしたが、それでも良いからせめて、くだらないツイッターの発言ではなく、作品で語って欲しいものだと思えました。

 今尚、積極的に嫌いな監督と言う訳ではありませんが、以前の好きな作品が多い監督と言う位置付けはとうの昔に失われていました。

 そんな中で、園子温のポルノ作品を観に行くこととしました。チラシには、「ロマンポルノ初監督作品」と銘打たれていますが、確かにロマンポルノは監督していないかもしれませんが、2000年には『性戯の達人 女体壺さぐり』と言うどう見てもタイトルからズバリエロ映画そのものの作品を作っています。その意味で、「初監督作品」は事実上、事実無根のキャッチでしかなく、不快です。さらに、パンフレットがない作品なので、劇場のロビーの映画のパブリシティのクリッピングを読むと、「既に、今はロマンポルノの時代では無くなっているのは明かなので、アンチ・ポルノと言う作品を作ってみた」と言うような主旨を語っています。

 ロマンポルノの時代ではないと思うのなら、引き受けなければよいのではないかと思えます。ロマンポルノとして作品を作っている他の四監督にも、敢えて言うなら、ロマンポルノの復活があるなら愉しそうと感じている私も一応含めたファンにさえ非常に失礼な考えであるように思えます。自分も、ポルノ映画を2000年まで作っていた訳ですので、そこから今までの間にロマンポルノの時代は終焉したと言うことなのでしょう。

 なぜ、ロマンポルノの時代は終わったと思うかと言う話では、記事の中で何やら「今の時代は、AVのように過激な性描写が求められている一方で、性に対して規制が厳しくなり、皆が性から関心を失っている時代だ。その矛盾をテーマにしたかった」のような主旨を語っていました。全く稚拙で表層的な見解です。

 性から関心が失われているのではなくて、人との関りの不安や面倒くささが膨張した状態が起きた結果、人間対人間の関りの中でのセックス観が崩れ、セックスが記号化してしまったがために、激しいセックスのイメージだけが先走るようになったにすぎないのは、ちょっと、宮台真司か坂爪真吾の本を数冊読めば分かることだと思います。全くどこにも矛盾などはなく、寧ろ園子温が社会に見る現象は原因と結果の密接な関係にあります。

 この愚鈍な見解を知った時点で、もしチケットを買っていなかったら、『牝猫たち』を見逃したことで今回のリブートシリーズ全体を諦めていたことと思うのですが、既にチケットも買ってしまっていたので、仕方なく映画を見ることとしました。

 観てみると、「10分に一回は濡れ場」のロマンポルノの基本ルールは守っていますし、どこがアンチなのかよく分かりません。これまたクリッピングの記事の中では、「段々服を脱いでいくのがポルノだが、この作品では服を着せて行った」とか、「女性ばかり出して、男を登場させず、セックスを女性的に見ることが多い自分のセックス観を活かしてレズビアンが作った作品のようになった」のような(記憶が定かではありませんので、かなり正確性を欠く文章になってしまっていますが)主旨の事柄を書いていました。

 確かに女性ばかりが出ていますが、男性とのセックスシーンだの素股シーンだのは頻出していますから、どこがどうレズビアンの目線なのか全く意味不明です。服を着たままのセックス・シーンもありますが、全裸になるシーンも(今回のリブート作品のルールの)80分程度の尺の中でそれなりに頻出しています。記事で言っていたことがどこのことなのか全く分かりません。

 さらに、レズビアンの目線とか言うのも、かなり勘違いの産物のように感じられます。劇中の台詞で最も頻出する名詞は、「バイタ(売女)」で、次が「クソ」で、多分その次が「処女」ではないかと思います。(各種の「もの」だの「こと」だのの名詞は置いておき、テキスト・マイニング的な見地からの頻出度のことです。)チラシのキャッチにも、「処女なのに売女」などと書かれていて、「処女性」と「売女」の両立をさせねばならない女性達の苦悩や矛盾を描くと言うことを目指したらしいことが分かります。

 しかし、女性達は本当にこんなことで困ったり、悩んだりしているのでしょうか。私には全くそうは思えません。寧ろ、それを楽しんだり、平然と使い分けができるのが普通の女性ではないかと思えます。女性目線からこうなったのではなく、女性だったらこう思うのではないかと言う稚拙な園子温の思い込みを投影しただけのように思えるのです。

 現実に、50半ばを過ぎてから、この作品でいきなりヘアヌード状態になったとネットなどでも噂になっている筒井真理子は、その名演技で従順で自信無げなマネージャや大物女優の立場を、秒単位で切り替える大技を見事に、それも何度も決めてくれています。入口段階で嫌悪感が湧いたこの作品ですが、評価できる最大のポイントは筒井真理子の神技と言っても良いぐらいの好演ではないかと思えます。

 ピンポイントですが、女子高生らしき姉妹が、セックスに明け暮れる一見真面目に暮らす和服姿の両親と食事中に語る会話の中身も秀逸です。娘が「私の女性性器にはいつか男性性器が入るのですか」。「そうよ。●●ちゃんの女性性器には、いつか誰かの男性性器が入るのよ」のような会話をしていて、その一方で娘が「お父さんとお母さんはいつもセックスをしていて、お母さんのまんこにお父さんのちんぽが入っているのは…」などと語りだすと、両親はセックスの話は汚らわしい話だと、汚れた自分たちを認めつつ、その話題を望ましくないものとして扱うのでした。この学校の性教育の矛盾を突いたような会話は非常に象徴性に優れていると思いました。

 その他にこの作品で私が面白いと思えたのは、主演の女優が当初登場してから数分間の間、頭の中に湧いて出てくる思考のままに口に出している台詞の妙です。頭にあることを話すと言えば当然のようですが、実際に普段例えば歩きながら口走っている独り言をボイス・レコーダで録音したとしたら、多分、全く支離滅裂な言葉の展開になることでしょう。それを起床してからの若い女性の感覚でやって見せている所が、妙に生々しく、シアターに入るまでの嫌悪感を大分払拭する興味深さでした。

 しかし、そんな繊細な台詞群も、あっという間に、定義も意味もよく分からないままに濫用される「お前は、売女か!」と言うただ五月蠅いだけの単調な怒号の繰り返しに変わっていき、まるで学園祭の演劇のように感じられます。それもそのはず、離人症的な精神状態なのか、本当に撮影現場なのか分からない中で、主人公の腫れぼったい顔の子は、この叫びまわる役を演じていると言うことになっていたのでした。なので、私には、この子が、この作品の「下手くそで変に思い入れだけが先走っている若手女優」の役を上手く演じているのか、本当に「下手くそで辺に思い入れが先走っている若手女優」であるのかの区別が、全く付きませんでした。いずれにせよ、見るべき価値を見出せませんでした。

 彼女は、まるで、園子温の現在の妻の以前の状態のように、頻繁に園子温の最近の作品に出ているとのことなので、園子温の作品群によくある俳優陣使い回しの結果なのかと思われます。

 別に、英語脳か何か(自分でもよく分かりませんが)をひけらかしたい訳でも何でもありませんが、英語の文字群を見ると、そのまま英語の発音で読んでしまいます。新宿駅の埼京線の乗り場で、Akabane と電光掲示板に表示されているのを見ても、「赤羽」と頭に浮かぶ前に、直観的に「アーカベイン」と頭に読みが浮かびますし、Chitose と飛行場で見ると、「チャイトーズ」と頭にまず浮かびます。そのような私がこの映画のタイトルを見ると「安泰ポーノ」に読めてしまいます。英語でアンチと発音しないので、正規のタイトル表記が英語なら、カタカナの振り仮名も「アンタイ・ポーノ」などとして欲しかったです。

 幼稚で子供くさい女性観と、読みが饅頭の皮のように薄っぺらい社会観。それを「どうだ、凄いだろ」とばかりに投げつけただけの作品のように私には感じられます。幻想的なシーンは、「おっ」と思わせるものが僅かにありますが、『奇妙なサーカス』などから続く彼の得意技でしかありません。幻想シーンも『奇妙なサーカス』の劣化版のように見えます。

 出演作は多く、カメレオン女優と言う評価もあると言う、私もどこかで見た感じがすると思いつつも全く決定的に「あの映画!」と思いつけない、筒井真理子の好演は、他の作品では見ることができない優れモノではないかと思いますが、この大きな一点と、その他のちょぼちょぼとした見るべきポイントの存在程度では、DVDを買うほどの好感にも関心にもつながらないままで終わったように思えます。誰かがDVDをくれたら、筒井真理子見たさに、喜んでもらうと思いますが、買う必要は全く感じません。

 シアターにいたのは、なぜか、全員男性で私よりやや歳を重ねた感じの観客が30人ほどでしたが、彼らの期待も「日活ロマンポルノ」に対する憧憬のようなものであったのか、見終わった後の表情に明るいものは感じられませんでした。

 DVDで持っている『性戯の達人 女体壺さぐり』の方がよほどできが良い作品なので、近日中に見返したいと思いました。

追記:
 映画が終わってロビーに出ると、狭いスペースに50、60人ぐらいはびっちりといる感じでした。どうも、その時間から始まる『たかが世界の終り』という作品を見に来た人たちのようでした。全く内容を知りませんが、私もこちらの作品にした方が楽しめたのかもしれません。