『家族の日』

ネットの映画紹介サイトでは、公開日が8月27日になっていますが、私が入手していたチラシでは公開日が11月19日になっていて、元々の公開日からはどこでやっていたのかがよく分かりません。

この映画は行きつけの飲み屋のママが、「ウチにたまに来てくれるお客さんが、○○をやっていて、最近手掛けたのがコレらしいんだよ。映画よく観るんだろ。じゃあ、この券あげるから見て来なよ。少し先のことだけどさ」とチラシと共に券一枚をくれたものです。チケットは前売券だったのですが、漠然と私は、そこに書かれた1100円を通常価格に比べて割引で1100円になる券と言う風に理解していて、この券を出しながら財布を広げていたら、何も料金がかからず拍子抜けしました。ちなみに○○の部分はよく記憶していず、次に行った際に感想を伝えると共に、その穴開き部分を補完したいと思っています。

チラシと券を貰ったのは、確かに9月末か10月初旬だったように記憶します。それから、2カ月近く、観に行くのを忘れないよう、部屋のホワイトボードにマグネットで貼り付けておいて、封切日を待ちました。ところが封切後には、優先して観たい映画が何本かあったのと、それなりに仕事が忙しく、なかなか時間を作れないままに、ふと気づくと上映最終週になっていました。

上映館は東京でも少なく、新宿では東南口に近いシアターが一つしかない映画館一館だけで、最終週は日中の上映が連続して3回行われていました。私が行ったのは、水曜日の真昼間12時15分からの回です。私の知る範囲の方の封切日から約半月。観客は20人ほどいました。男女比はほぼ半々。年齢は性別に拠らず40代以上がほとんどだったように思います。平日の昼間にこれほど人が入っていることにも少々驚きが湧きましたが、終わった後に見た次の回の観客もそれなりに居て、にもかかわらず公開を終了させるタイミングが近いことも意外でした。

女子中学生・男子小学生・幼稚園男児ぐらいの感じの三人の子供抱える夫婦が東京に暮らしていて、妻は専業主婦のようで夫は小さな旅行代理店を友人と二人で出資して経営しています。小学生の長男はいじめられっ子で、さすが自営業の夫は主張的で、学校の温い対応に激怒します。一方で、長女はいじめっ子で、学校に呼び出された夫婦は、担当教員らから叱責を受け続けます。

母子家庭で育ったらしい夫は、「立派な父親になる」との妙な気概があって、「親が責任を取って、のびのびと子供を育てられる環境を用意する」と、妻にも納得させて、いきなり岡山の片田舎に移住をします。旅行代理店の仕事はそのままネットで主に継続しつつ時々上京しては継続させる形態でした。

ところが、田舎に来てみると、小学校も中学校も同じ建物の中にあり、小学生は1教室8人だかしかいない複式学級で、中学生に至っては1教室にたった一人の男子生徒しかいない状態でした。その学力レベルは惨憺たるもので、父親は大きく失望します。おまけにそれを学校や村人に訴えて、反感を買うに至ります。ところが、旅行代理店の共同経営者は、その夫が頻繁に出社しなくなると、だらだらと愛人兼事務員の女性と会社で過ごすようになり、経営が傾き、会社は清算目前に追い込まれてしまいます。家族全員で再び東京に戻るか、自分一人で東京に単身赴任して会社を立て直すか、映画中盤で早くも悩むことになります。

一家が移住した村の山には、村人から「ターザン」と呼ばれる、世捨て人のような男が一人で住んでおり、実は、都会で零細企業の経営者をしていたものの、家族を全員交通事故で失い、元々亡き妻と考えていた田舎暮らしの超ワイルド版に打って出ていた人と言うことでした。「心優しい寡黙な仙人」とでも言った位置づけです。ジブリの幾つかの作品やその他のこの手の設定のアニメによくある、都会から来て地域に馴染めない子供と山の精や妖怪などとの交流のパターンは、或る意味クリシェで、この作品も例外ではありません。

おまけに、仙人と子供達との交流が、山での遭難などの事故やそれについての誤解を端に、村全体の知る所となり、物語のターニングポイントとなる…と言うのも、これまたクリシェと言えばクリシェです。この作品では、幼稚園もない村で次男が日中山に行ってターザンと交流するようになり、それに姉兄も合流し村の小学生も合流していく流れで、ターザンの人柄が認識されて行きます。ターニングポイントの方は、山の急斜面で滑落して身動きできなくなったターザンを次男が見つけて一緒に時を過ごしたことが遭難事件と見做され、隣接する村から動員してまでの山狩り騒動に発展します。そんな中で、この都会から移住してきた家族は、村の結束の素晴らしさを感じ、家族が揃って暮らすことの大事さを痛感する…と言った展開になっていきます。

子供達がターザンと慣れ親しむ姿を見て、夫はターザンに広い家の離れで暮らすよう提案しますが、ターザンは入院し全身に転移していた癌で静かに息を引き取ります。そのターザンが大切に抱いていた家族との思い出を知り、夫は会社を捨て、田舎に残り、田舎の地で稼ぐ道を模索することにしたのでした。

家族の結束や価値を描いた物語としてみた時、十分評価できるものが盛り込まれている映画だと思います。役者陣もかなりハイレベルです。

夫は伊原剛志と言う男優で、かなりよく見かけます。私もこの男優を見た瞬間に、最近DVDで観た『ストレイヤーズ・クロニクル』や『超高速!参勤交代』が思い出されました。妻の方もミレニアム・ゴジラ系の作品などで主役級だったような記憶がある女優です。それ以外にも、1年前からUターンして来ていた夫婦の、東京出身で、現地の人を公然と「田舎者」呼ばわりする妻は、演歌歌手の川中美幸が演じていたりします。

さらに、物語の展開の核となっているターザンは岸部一徳がこの上ない安定感ですし、別の学校の校長を引退した後、中学生のクラスを担当する老教諭は大竹まことが演じています。これほどの豪華キャストで作り込まれているはずなのに、この作品は何かが噛み合わず、何かが空回りしているような印象が否めないのです。

物語の設定が非現実的と言う部分は間違いなくあります。子育てを充実させるための移住であったのに、学校生活がどういう状況なのか調べていないと言うのが、よく分かりません。後に東京の塾で使っているとか言う教材まで出張時に買ってくるぐらいなのですから、元々田舎の学校に通わせつつ、(まるで海外赴任時に子供に受験対策を現地でガッツリさせる商社マンの親のように)家でガツガツ勉強させればよいだけのことです。田舎の学校の先生達を詰問する前に、自分がそもそも田舎の塾でも開業すればよかったのではないかと思えます。

東京在住なのになぜ移動の時間コストと金銭コストが馬鹿にならない岡山に移住しようとするのかもよく分かりません。関東にだって田舎は山ほどありますし、新幹線通勤で一本の場所だって、新潟や東北各県まで広がっています。雪がない所の方が楽だというのなら、静岡でも良いでしょう。それであれば、ギリギリで週数日の出社の体制を維持することもできたことと思います。また、海外のホテルのコーディネータの支援を現実にネット上でやっていますが、それならば、会社を辞め、独立して事務所ナシの個人事業で行なう形態も選択できたことでしょう。いずれにせよ、遠距離で働く環境の想定が全く甘い状況で、とても紛い也にも事業経営をしている人間のやることには見えません。

前述のクリシェの物語展開は、NHKの連ドラなどと比較すれば、僅か104分の尺ですので、十分鑑賞に耐え得る凝縮度ですが、先述の豪華な役者陣もこのようなよく分からない無理のある物語設定と、何かどことなく陳腐なセリフ回しで、ぎこちない不発状態が続きます。夫婦の会話も仲が良いのかよくないのかがよく分からない感じですし、親子の会話もぎこちなさを表現しているようでいて、「それを狙っています」感がアリアリのわざとらしさがあります。「この場面でそんな風に言うかな」と疑問がどんどん湧く細かな箇所が次々と登場します。

さらによく分からないのは、長女の態度です。当初は、街の中学校の不良グループのいじめっ子リーダーと言う口ぶりなのですが、映画中盤から、突如仙人の所で幼稚園児クラスと同じような遊びをどんどんするようになりますし、家でも子供三人で「わぁ〜っ」と騒ぎまくったりし始めます。ところが、中学校の唯一のクラスメート男子が想いを寄せてくると、いきなり恋愛おねーちゃんモードになってしまったりします。アニメのツンデレキャラなどでも、今時もっと相応の一貫性がある態度ではないかと思われます。言葉遣いから性格の面まで、全然一貫性が感じられません。

映画紹介サイトで調べると、子役のほとんどは映画初出演と言うことのようですが、彼らの資質に拠る部分よりも、キャラ設定とセリフ回しの甘さに拠る部分が、首をかしげたくなる場面の多さの原因になっているように思えます。

さらに、この映画を観る限り、田舎嫌いの川中美幸の主婦がガンガン語る、田舎の人間関係の暑苦しさや差し出がましさ、そして、教育レベルの低さなどが、主たる田舎暮らしのデメリットのようです。けれども、東京暮らしから札幌にJターンし、今も東京と札幌の暮らしを並行している私からすると、田舎暮らしのデメリットもあまりにバイアスに満ちているように感じられます。

最近読んだ『まだ東京で消耗しているの?…』にも書かれている通り、田舎には仕事は山ほどあります。雇われる立場だけで見たら、或る程度限られているでしょうが、自立的な働き方をするなら、下手をすると、東京にいるよりも稼げるぐらいでしょう。おまけに支出も(どの程度都会との往復を前提としたライフスタイルを組むかに大きく依存しますが)劇的に下がります。この書籍にもあるように、サラリーマンをして暮らす東京暮らしから、田舎に移って田舎に馴染みつつ、都会で得た知識やスキルを活かした自立的な働き方をするのなら、かなり直截的なメリットがあると思えます。ですので、この映画の“既に自営業をしている夫”の田舎への移住構想自体が拙い故に、右往左往のおかしな物語が成立することができているのです。

私が認識する最大の田舎暮らしのデメリットの第一は、移住1年目の川中美幸の主婦が語る鬱陶しい人間関係の長期的な固定化です。勿論、迷惑をかけあえる相互扶助組織としての濃密な共同体の関係の良さも否定しません。しかしながら、何かの齟齬があった時に、周囲のどんな人間からも逃げずに生活しつつ、相互理解の努力を図る以外に日々顔を合わせつつ暮らす道がないのは、とんでもないストレスになることでしょう。都会でも賃貸生活を止めて、持ち家・持ちマンションになれば、近隣関係は固定化されますが、それでも、周囲と関わりなく暮らすことは或る程度可能です。しかし、この映画にあるようなレベルの田舎ではひとたび人間関係が崩れると、修復の努力をその完了まで注ぎ続けることが前提となることでしょう。

第二のデメリットは、リアル情報の格差です。よく「地方に行ってもイオンのモールはあるし、ネットでも買い物ができるから、都会も地方も変わらない」という意見を持つ人に会うことがあります。これはとんでもない誤解です。私が札幌の生活で最も不便を感じたのは、電車の中の吊り広告が少ないことです。そして、好きなヘビメタの(私の世代で言う)コンサートもほとんどなく、美術館に各種の展示は少なく、流行の物事に人が行列するのを見かけることがないことです。

人口が100万を切るぐらいになれば、カルトな映画を見せる映画館もほぼないでしょうし、フロア半分が新書売場と言った書店もほとんどないですし、(私には不要ですが)凝った地酒専門店も、オタク向けフィギュア専門店も存在しなくなります。つまり、それらがずらり並ぶ様子を見て、手に取ってみるという経験も、そこでやたらに凝った店員と会話するという経験もできないのです。ネットで見るだけではダメで、登山でも何でも自然は体で体験しなくてはならないという人はたくさんいます。ならば商品や文化関係の物事も同じ原理のはずです。端的に言うと「プッシュ型で放っておいてもバンバン入って来る多様性あるリアル情報」が断然に欠落するのです。

別に誰もが生き馬の目を抜くようなグローバル・スタンダードでがむしゃらに働くべきとは勿論思っていませんが、昼間のオフィス街にほど近い飲食店街で、店員が全く呼び込みをしない経営感覚も、デメリットと言えばデメリットでしょう。地元の経営コンサルタントでさえ、「東京に行ったら、あれほど客がいる状態なのに、客の取り合いを店員が熾烈にしていることに驚かされた」と言うぐらいに、地方都市の経済には競合による切磋琢磨が見られません。

しもた屋が並ぶシャッター商店街が発生する理由を、大手SCの存在に求めたりする意見があります。勿論、その面も否めませんが、魅力ある店舗には地方でも来客が絶えません。お客様都合軽視が私は最大の原因だと思っていますが、その原因を排除しようと経営者や経営組織が思い至る最大のきっかけは競合による危機感です。それが、決定的に欠けていることが多いのが地方経済なのです。『里山資本主義』を読むと、地方経済の活性化の活路があることが分かりますが、それが実現しにくい要因も非常によく分かります。『ファスト風土化する日本』を読めば、別の背景要因も実感できます。

104分の尺でこんな七面倒な状況を全部描き込めとは言いません。けれども、崩れ切った地方経済とそこに住む行き詰まった人々を描いた『サウダーヂ』のような作品も存在します。家族愛を描くのでも、その背景に、都会から移住した人間が知ることになる、田舎の生活の設定を詳細に詰めることはできたのではないかと思えるのです。

岸部一徳のターザンの怪演が光っていて、長女と純朴なクラスメートのちょっとした恋愛劇も悪くはありません。さらに、事業がうまく行かないとき、「なんとかなる」と自分に言い聞かせ、道を開こうとする夫の態度も自営業者として非常に共感できます。絵本のような抽象化と象徴化を施した分かりやすい“物語”だと思えば、ギリギリDVDは買いかとは思いますが、見返す頻度はかなり低いものと思います。