『永遠のヨギー 〜ヨガをめぐる奇跡の旅〜』

【注意!!】
 このページのコンテンツは、2016年10月26日未明に発生したアイ・ドゥコミュニケーションズ株式会社によるサーバクラッシュにより失われ、さらに7か月分がバックアップされていない状態での復旧対応により、一旦、完全に消失したものです。弊社にて過去のデータを浚い、概ね回復しましたが、一部に当初ページ・コンテンツのアップ時とは異なっている可能性があります。ご了承ください。
===================================================

 9月初旬の水曜日、渋谷駅の北西にかなり歩く、渋谷エリアの映画館とは認識しづらい位置のミニシアターで観てきました。この映画の封切は映画サイトなどで見ると4月30日と言うことになっています。その時点でどこの映画館でどの程度の規模で上映されていたのか分かりませんが、少なくとも私がこの映画を認知したのは最近で、このミニシアターでも(以前にも上映していたのかもしれませんが)ここ最近の上映は二週間ぐらい前から始まっていたように思います。この映画が製作されたのは2014年ですので、ヨガのブームの到来と共に発掘され、日本での上映が決まったのかもしれません。

 毎日1回の午前10時45分からの回です。実は、このミニシアターで観たい映画がもう一本あり、二本を一気に観るために映画館に赴きました。この作品は10時45分からで、もう一本は、12時15分開始。この作品は上映時間が87分なので、きちんと計算することもなく、何となく二本連続で見られるものと思っていました。ところが、このミニシアターには、(数少ない『美輪明宏ドキュメンタリー 黒蜥蜴を探して』を観た際の例外を除いて、普段同じシアターばかり私が偶然入っているため、気付いていなかったのですが)複数のシアターが存在していて、二本の上映時間はかぶっていたのでした。

 スタッフは、この作品のエンドロールの途中で出てくれば、二本目の方の予告終了後のタイミングぐらいになるので、そのように移動したらよいと計算してくれていましたが、両作ともに満席状態だったので、シアター内が暗くなった後の入場は憚られるものと判断して、スタッフの助言には従わず、この作品の最後の5分少々を観ずに、二本目に移ることとしました。

 その判断の根拠には、こちらの作品への期待が二本目に比べて薄かったこともあります。趣味と実益を兼ねて催眠技術の学習に取り組んでいますが、私が実践催眠術の第一人者吉田かずお先生から習った広義の催眠技術によれば、ヨガもその範疇に含まれています。それは、人間の意識が直接的にコントロールできない無意識(現代の研究結果から言うなら「適応的無意識」)に向き合い、それを制御すると言うよりも、自分の意識と統合させていくことで、自分自身を自らのものとする考え方だからです。

 そのような理解が大枠であるにも拘らず、ヨガのルーツやその発展の歴史などを学ぶ所まで、手が回っていなかったので、手っ取り早くそのエッセンスを映画で学ぶことができればと考えたのが、この映画を観ることにした最大の理由です。

 この最大の理由以外には、このドキュメンタリー映画の原作である、西洋ヨガの父と呼ばれるパラマハンサ・ヨガナンダの自伝『あるヨギの自伝』は、ビートルズのジョージ・ハリスンの人生を一変させ、スティーブ・ジョブズが余りの敬愛故に自分のiPadにたった一冊だけ入れていた書籍と言われています。そのように、西洋の、特に米国の人々に、当時の(そして今も一般的に)彼らが軽んじ易い東洋の知恵が、どのように映ったのかも、一応僅かな関心にはなっていました。

 ただ、多分に、(映画を潤んだ目で観ながらヨガのポーズを取っていた私の隣の中年女性客も含め)ヨガの習得者が有難がるその映画の内容も、催眠技術の考え方として見ると、特に大きな発見もなく、過去のその手の研究が十分ではなかった頃の語彙でどのように表現され、どのように認識されてきたのかを確認する作業にしかならないであろうと予想していました。二本の映画のうち、事前リサーチ不足で上映時間が一部重複していることに気付いた際に、先のこの映画を観るのを止めようかと思った理由は、このような事前の想定でした。それでも、そのような位置付けなら尚のこと、観ないよりは観られるだけ観れば良いかと考え直し、ラストの5〜10分を(通常なら、映画の一部でも見逃すのを躊躇う私ですが)捨てて掛かってよいものと判断できました。

 私の事前想定は全く外れることがありませんでした。

 劇中に紹介される「…宇宙の氣が流れ込み感覚のサーチライトを外から反転させ、脊髄に集中させる」などの表現は、意識を外部との接触から自身の(無意識の)内部に向けることである「変性意識状態」の描写そのものです。宇宙の氣で言うなら、変性意識状態の中でも非常に深い女性のセックスのエクスタシー状態について、「自分が溶けて無くなって、宇宙と一体化する感じ」とか「相手の男性との境界が分からなくなって、全部が溶け合って、外にある全部と自分が一体になる感じ」などと女性が表現しています。まさに、宇宙の氣をフルに取り込んだ状態と思えます。

 ヨガナンダは「集中力を高めるために瞑想するのだ」と述べていますが、瞑想は自分自身を変性意識状態に導き、無意識に直接向き合う一つの方法です。端的に言ってしまえば、催眠術を知らない人間ができる自己催眠の有名な手法の一つです。

 神経学者のアントニオ・ダマシオの『しあわせ仮説』には、瞑想、認知療法、ドラッグの三種類が無意識に働きかける手法として挙げられていますが、その働きかけの様子は、必ずしも明確なものではなく、無意識を“意識”することや、抗鬱剤のように気分を高揚させる方向に変化させるものであったりと、漠然としたものです。その意味で、無意識への直接的で明示的な働きかけ手法として催眠技術の特徴があると私は考えています。

 注目されるのは、日本の禅でもヨガの瞑想でも、無意識への働きかけが「人間がよりよく生きるための術」と位置付けていることです。ただ、瞑想には別の側面もあります。明治後期から戦後に至るまで、女性解放運動家として活躍し、有名な『元始、女性は太陽であった』の文章で知られる平塚雷鳥は禅に凝って、禅の体験を「神秘に通じる唯一の門」として”精神集注”と呼んでいます。彼女は「催眠術による”完全な催眠状態”」と「接吻の”恍惚”」を類似する精神状態として挙げています。瞑想には、悦楽が結び付けられるようです。

 遥か以前、革命の嵐に揺れ始めたフランスで、自分を催眠術師と思っていなかった偉大な催眠術師アントン・メスメルは、女性を催眠でかどわかしていると糾弾され、彼の名声は大きく傷つきました。それより以前、彼が活躍したウィーンでも、盲目の少女への個別治療が、彼を追放する端緒となっているのは有名です。

 同様に、渡米して西海岸にヨガ普及のセンターを作り、それを Spiritual White House と自ら呼んだヨガナンダにも、明らかに驕りが感じられます。映画では明言されていませんが、KKKさえデモンストレーション行進を大っぴらにしていたこの時代の米国で、黒人が差別の真っ只中にいて、インド人が差別の対象にならない訳がありません。

 ヨガに傾倒していく妻を夫がセンターから無理やり連れ出したことがヨガナンダの凋落の皮切りです。自分が米国の講演行脚に出掛けている間、センターを運営するためにインドから呼んだ兄弟弟子とは、センター運営方針で揉めて袂を違い、彼はあろうことか女性の入門者と結婚してヨガ指導者の立場を捨て、さらにヨガナンダを訴えてきます。おまけに、ヨガナンダの講演先では、アントン・メスメルと全く同じ構造ですが、「主夫」達が妻を誘惑されることを避けようと、ヨガナンダの現地入りを阻むようにさえなるのです。

 余りの苦難に帰国したいと切望したものの、結局、ヨガナンダは米国に残り、米国人で出家弟子となるほんの数人と共に小規模にセンターを再開し、それから間もなく、自分の師の死が近いことを知って帰国するのでした。

 凋落前までのヨガナンダの布教の成功要因として、映画では、多くのクリスチャンに対して、キリストを最高のヨギと位置付けたことで懐柔ができたことと、西海岸の当時勃興していたニューリッチ的な立場の人々を初期の布教対象とできたことなどが挙げられています。しかし、その後を見ると、このような妥協や懐柔が腐敗のタネを内在した急激な規模拡大を招いたように見えます。

 パンフには「人間の本質、平和と喜びと愛で、我々は一つになれる」とのヨガナンダの言葉が書かれていますが、残念ながら、瞑想を中心とした個々の成長を前提とする、ヨガナンダの考える「平和と喜びと愛」の効用は、有色人種への差別と西洋人に特に色濃く見られる我欲(所有欲・支配欲)を乗り越えることはできなかったようです。

 こうして、ヨガナンダの旅は終わり、映画のラスト数分を見逃している私は、エンディングがどうであったか分かりませんが、大往生を遂げ、その遺体は一般の遺体に比べて腐敗の進行が非常に遅かったとパンフには書かれています。

 瞑想の一つの効果が、自律神経を整えることであるので、免疫系が強化改善されたり、代謝が向上したりすることが見られるのは当然で、それを長年、日がな一日繰り返していれば、腐敗しにくくなるのも当然かもしれません。それをヨガナンダはいみじくも自分の運動指導セミナーで、「脊髄に宇宙のエネルギーを取り込めば、それは電気のように体をめぐり、病原菌も感電死させる」と表現しています。

 病原菌が感電死するほどの電流なら、正常な細胞も死んでしまうことでしょう。今時、「抗癌剤が正常細胞をも殺している」ことはよく知られています。当時の科学研究のレベルとヨガナンダの英語学習レベルでは、非常に効果的な表現だったのかもしれませんが、劇中にさえ、現代科学による瞑想中の脳内のスキャン画像を医師が説明していたりする一方で、ヨガナンダの教えを執拗に「スピリットの科学」と持ち上げて見せるのは、どうかなと思えます。

 現在の日本の凡百の催眠術達も、無意識のことをいつまでもフロイト時代の無意識だと思い続け、現代科学の新たな無意識の考え方による、自分たちの技術の再定義に挑んでいるようには見えません。不思議なのは、パンフレットでコメントを述べる多くのヨガ習得者達も、ヨガナンダの教えを、現代科学と統合させてみようとしている節は見られませんでした。

「瞑想によって宇宙のエネルギーを取りこむと、体内に電気が起きて、病原菌を感電死させる」と真顔で説明していることはないかもしれませんが、この説明をどう置き換えて彼らの生徒や弟子たちに説明しているのかを知ろうとしても、どこにも手がかりが示されません。私がヨガを真剣に学びに誰かの門を敲いたとして、この説明を聞かされたら、「宇宙のエネルギーは、具体的に素粒子などとどのような関係のあるものか」とか「体内の細菌を殺す電気はどのように測定したのか」などと色々と尋ねてみたくなることと思います。

 これが、無意識に働きかける素晴らしい技術体系が、単なる社会的ブームの反復的普及の範囲でしか知られることのない最大の原因なのであろうと、この映画を観て思いました。ラストを見直すことと、まるでアントン・メスメルの現代版の凋落劇を観るような記録内容を手元に置いておくことに価値はあるので、DVDが出れば、または出ているのであれば、買いです。