『花芯』

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 公開から一週間余りの台風が東京を直撃する火曜日の夜に観に行ってきました。新宿の靖国通り沿いの映画館。1日4回の上映ですが、(全国でたった6館)関東でもたった1館だけでしか上映されていません。『ふきげんな過去』をこの映画館で観た際にトレーラーを見た作品です。

 夜6時30分からの回。中高年層ばかり30人以上ぐらいの客入り。40代前半のおばさん三人連れが目立ちましたが、後は中高年カップルの片割れが女性と言う感じでした。男性が過半数。中年男性にとって何が魅力なのか私には正直ピンと来ない感じに思えます。

 私がこの映画を観た動機は二つで、一つは瀬戸内寂聴の原作であることです。『夏の終り』をDVDで観て、どうしようもない恋愛感情に突き動かされる人の物語が鮮烈でした。もう一つの理由が監督。私が好きな『海を感じる時』の監督がこのテーマを描いたのなら観てみたいと思いました。『海を感じる時』も自分が好きになったと男を、(原作が書かれた)時代が今なら、間違いなくストーカーと呼ばれるほどに追いかけ回す、恋に突き動かされた女子高生のその後の物語です。

 瀬戸内寂聴個人について、私は全く好感を持っていません。むしろ、軽い嫌悪を感じる対象です。それは、彼女の政治活動の主張内容に全く共感できないからです。反原発も、反安保法も、その主張があまりに幼稚過ぎます。(20歳の頃から広瀬隆のファンではありますが、)私はここ現在に至って、「脱原発」を実効的に考えるべきだとは強く思っていますが、ただただ無責任に善後策も合わせ考えることもなくヒステリックに「反原発」を叫び続ける輩には、全く共感できません。反安保は愚鈍の極致で、「では、中国や韓国が史実を捏造し続け、日本の領土を事実上侵略している事態をどう考え、米国が徐々に軍縮して行く中で、日本は具体的にどうすべきだと思うのか」と尋ねて、まともな答えができもしないのに、根拠もなく「戦争法案反た〜い!」などと叫びまくって社会に貢献する活躍を重ねる自衛隊を不当に貶める人間にも嫌悪感が湧きます。

 ネトウヨほどの情熱もありませんが、「地獄への道は善意で敷き詰められている」のは多くの場合本当だと私は思っています。ヒステリックに叫ばれる「反原発」も「反戦争法案」も私は全く与するものではありません。しかし、その性愛観や人間観については評価するべきものがあると思っていますし、まさにこの原作を書いて、あまりに批判を浴び、数年間も出版業界から絶縁されるに至っても、作家活動を今なお続けることができる自分の価値観や視点についての自負や自信について、素晴らしいと思っています。

 観た印象は、瀬戸内寂聴原作による『夏の終り』よりも、寧ろ、劇中でも登場人物の言葉で紹介される当時の流行語そのままのタイトルの『自由戀愛 …』や『戦争と一人の女』を連想させる名作でした。同様の時代背景や恋愛観が嗅ぎ取れました。

 瀬戸内寂聴(当時は瀬戸内晴美だと思いますが)は、原作にあまりにも子宮と言う言葉が使われるので、「子宮作家」と揶揄されて、的を射ない批判や中傷に晒されたと言います。しかし、パンフによれば、原作中の「子宮」という言葉の登場回数は、たった1ケタなのだそうです。なぜ、このような馬鹿げた展開が彼女に対して起きたかと言えば、それは偏に、子供を捨てて夫の教え子と駆け落ちした彼女の事実関係からのことであろうと思われます。その駆け落ちの相手とも数年で別れ、それ以降も数々の男性と交際を重ねていた彼女の、自分の価値観を前面に押し出した作品を、多くの文壇の男性たちは許せなかったのではないかと思えてなりません。

 しかし、近代の有名作家だけで見ても、石川啄木や太宰治なども不倫は山ほどしていますし、壇一雄の『火宅の人』に至っては、「不倫=人非人」論をもってすれば、言語道断です。それらが評価されていて、彼らが陥れらる事無いままに彼らの死後の名声を保っているとするなら、瀬戸内寂聴もその文学性をきちんと評価されていいと私は思います。それどころか、比較的親しい(つまり、過去の恋愛経験を聞いたことのある)女性にも不倫経験者はたくさんいますし、(妻帯者の)中小企業の社長や幹部などにも交際相手が存在することは頻繁にあります。芸能人以外に政治家の愛人スキャンダルも報道で頻出しています。

 ベッキーの不倫騒動などをネットでみますが、このテーマほど、一般常識からのネットの乖離を感じさせるものはありません。私は「不倫=人非人」論は非常に稚拙な考え方だと思っています。だからと言って、結婚制度を否定し、どんどん誰とでもセックスを重ねるべきだとは思っていません。しかしながら、性交を求めることも軽く含んでしまうような強い恋愛感情が本能的に湧くことが人にはあり、それが起きる起きないは婚姻関係の有無には全く関係がないと私は思ってます。

 書籍でも、遺伝子の研究が進み、人間の進化上の“当たり前”が分かれば分かるほどに、不倫が起きても不思議ないことが証明されつつあるように思います。『女は男の指を見る』には、「遺伝子が自分のコピーをより多く作ろうとするために、不倫は必然」と明快に論じています。さらに、その具体的説明が続きます。

 それによれば、精子をほぼ無尽蔵に作れる男性は、生物の基本形である女性が自分の遺伝子をできるだけ多くの他の女性に配るために作った“遺伝子の運び屋”ですから、男性の不倫欲求は原理的には見境がありません。これに対して、一生の受精数に制限のある女性の不倫の発動メカニズムは、かなり複雑です。パートナーのいる女性は排卵期には遠出し、パートナーのいない場所で独りで過ごすことが多く、パートナーのいない女性は非排卵期に遠出し、一人でいることが多い。これはパートナーがいる女性は、今のパートナーより優れた遺伝子を持つ男から受精する機会を求め、パートナーのいない女性は、間違った受精を防げるよう“お試しセックス”の確率を上げているのだと説明されています。もちろん、女性本人が無意識のうちに起きている(実際の)現象です。

 このような事態から、『はじめての不倫学』と言う本は、不倫を「誰もが罹り得るインフルエンザ」のように捉えて社会的な不倫対策を論じています。大衆紙誌に不倫が報じられるたびに、ネット上でバッシングが展開されますが、不倫はこれらの書籍が論じるように、遺伝子に組み込まれた命令が、何かの条件が整って発動した結果と考えた方が、現実的なのです。

 単なる「不倫=人非人」論へのアンチテーゼとしてではなく、本能的に女性が持っている恋愛感情の本質をこの作品は描こうとしているのだと考えている中で、全く同じコンセプトを持つ映画を思い出しました。名作『愛を語れば変態ですか』です。

その感想の中で、

> 好きになった男が自分を大切に愛してくれるセックスで
> 女性は最高に感じると言います。
> これを額面通り受け止めて、「本当に好きな人と…」と言うことに
> こだわる女性もいまだ多いものと思いますが、
> 実際にはそうではないと私は思っています。

> 女性のセックスの悦楽を追求することに半生を費やした
> 偉大なAV監督、代々木忠監督の言葉に従って、
> 女性が「身も心も相手の男性に明け渡して、自分をさらけ出したセックス」を
> 行なうと、自分と相手との境界も、自分とその世界全部との境界も、
> 溶けてなくなり、悦楽がただただ広がる世界に身を投げ出せると、
> 出演者のAV女優が一様に語っています。そのような女性の只ならぬ様子が、
> 代々木忠監督の数多の作品の中に記録されています。そこに仕組まれた演技はなく、
> その場で起きたことを克明に記録した作品群であることが
> 業界の内外で知られています。

> 当然、AV女優が、元々好きな男優とだけセックスを重ねる訳ではありません。
> たまさか、「自分が好きになった人」には「身も心も明け渡せる」が故に、
> 究極の悦楽が訪れるのであって、「身も心も明け渡せる」なら、
> どんな男とのセックスでも究極の悦楽が訪れるというのが本当だと、
> 求道者のように代々木監督は言っています。

と私は書いています。

 実は、代々木監督の作品に登場するのはAV女優だけではありません。数百タイトルに及ぶ記録的大ヒットシリーズ『ザ・面接』では、深いオーガズムを経て、ほぼ素人同然の多数の女性が、子供の頃からのトラウマを克服したり、自傷癖や拒食症などから解放されて行く様子が描かれています。深いオーガズムを伴うセックスの持つ「生命力の漲り」を見出した代々木監督のこうした行動は、セックスを使った心療セラピーとでもいうべきもので、後に、トラウマなどから抑圧された別人格を持つ多重人格者まで対象者として行くのです。

「覗いちゃいけない深淵を覗いてしまったの」。
と主人公の園子は語っていますが、パンフで瀬戸内寂聴はこの深淵をセックスの極地の快感であると言っています。セックスで男性よりはるかに深く長い快感を得ることができる女性は、この極致を知ってしまうと、自分がセックスをしても良いと思える誰とのセックスでも、この極致に到達することができるようになると、代々木忠監督は名著である『つながる』で言っています。瀬戸内寂聴の言う深淵がこの状態を指しているのかどうかは分かりませんが、少なくとも、表現されている状態には多くの類似点があります。

 そして、劇中に描かれる園子の物語は、このセックスの極地の探究の様子を時系列で描いたものと見ることができます。映画の冒頭、主人公の園子は、出征前の軍服の男性に路地裏で着衣のまま胸を揉みしだかれています。けれども、彼は、園子に結婚まで純潔でいてほしいと言い、途中で行為を止めます。ペッティングで冷めた気持ちに投げ出された園子は女性の純潔性に疑問を持ちます。

 園子が見合いで結婚することになった夫は、以前から知っている男性で、徴兵されたくない本心を隠して「園子のために、将来稼ぎが多くなる理系の専攻に文系から変えた」などと嘯き、「園子のために、色々な誘惑に打ち勝って、僕は童貞を守り通してきた」と園子にとってはありがた迷惑な信念を振り回し、初夜にはセックスがまともにできずに終わります。そんな夫にもともと愛情も持っていない園子は、結婚が「ロマンチックな男女の恋愛関係の長く続く完成形」と言った想いを持つ妹を嗜めたりします。

 夫の転勤先の京都に行くと、40歳近くになって、夫のいる下宿に住んでいて、20歳も年上の下宿屋の女主人の愛人に甘んじている、自分の夫の上司に園子はドンドン惹かれて行きます。生まれて初めて自分の中に育つ押し留められない恋愛感情を意識します。それを夫に馬鹿正直に言って、人間理解の乏しい世間知らずの夫に激怒されます。

 そんな時に、近所のアコーディオン弾きのオタク的言動の引き籠り男から、「好きなので、一度だけセックスして欲しい」と迫られ、初めての不倫に及びます。ここで、園子は、それなりに快感を得ることができていた夫とのセックスではなくても、深い快感を得られることを知ってしまいます。乱れた着衣で畳の上に二人で寝転がっていて、突然、「アハハハハ」と一人笑いだす園子の不敵さが際立っています。

 そして、その後、冷めきった感情で夫とセックスしても、深い快感を自分で得られるようになった自分に気付くのです。その場面の園子と夫との会話は壮絶です。打ち寄せる快感に身をよじっていた園子の姿を見て、自分の上司への園子の恋愛感情などなかったことにしようと思ったのか、夫は(多分、最高に間抜けな)「僕たちの愛情もだんだん深まってきたということだね」などとド勘違いの発言をします。すると、園子は「前にも試したから、分かっているのよ」的な趣旨をぼそりと言います。激昂した夫は園子の首を絞め扼殺寸前に至ります。息を吹き返した園子は「殺せばよかったのに」と冷静に呟きます。その後、園子は紆余曲折を経て、離婚が成立していないままに家を出て、夫の上司と箱根に不倫旅行に行き、念願の想い人と肌を重ね、いつもの深い快感をただ味わうだけだったことに驚くのです。

 園子のセックスの快楽の経緯はまるで何かの実験を重ねているかのようです。そして、セックスの深淵が、愛情にも関りなければ、恋焦がれる激情とも相関しないことに気付いてしまうのです。それでも園子はセックスしたいと思えるほどに誰かを好きになることがあり、夫の上司とも時折の逢瀬を重ねつつ、他の男ともセックスを重ねます。

 当然ですが、嘗て観た『ニンフォマニアック』に登場した主人公のような、物理的な性器結合をただ繰り返し頻繁に求める状態の「疾病としての色情狂」とは、明らかに園子の心境は異なります。多分、親密な会話などの延長線上の比較的近い所にコミュニケーションの一環としてのセックスが存在し、代々木監督が言う「身も心も明け渡し状態」を一定量のコミュニケーションを費やした後の男性に対して実現できるのだと思います。これは疾病ではありません。そして、たまさかその相手の男性が妻帯者だった場合は、不倫と呼ばれる形になってしまっているだけなのだと思います。

 瀬戸内寂聴はパンフレットの中で「私も不倫は何度もしましたけれど、人を不幸にしたその上に幸せは絶対に成り立たない。だから、相手に奥さんがいて、別れたら自分が奥さんになるなんて絶対にうまくいかないです。好きになるのは理屈じゃないから、人の夫でも好きになってしまうことはあると思います。私も不倫をしたけれど、家庭を壊したいと思ったことは一度もない」と言っています。コミュニケーションの延長線上にある、相互に受け入れようとする心情の発露としてのセックスであれば、確かに、不倫のケース分類をすることの方が、無意味でしょう。

 最近の痴呆的戯言にしか見えない「不倫=人非人」論に呆れれば呆れるほど、この映画のテーマが示唆するモノが大きく感じられます。それをシンプルな物語として描いたこの作品のDVDは買いなのですが、私の嫌いな骨太体型に見え、私の好きな横長丸顔とも全く異なる容貌で、おまけに深淵を覗いても覗かなくても、殆どセックスの演技に違いが生れない主人公園子に、全く好感が持てず、点数で言えばギリギリ及第点と言う感じではあります。

 映画を振り返ってみて、本当に『愛を語れば変態ですか』は、まるで、子宮作家と揶揄され蔑まれた瀬戸内寂聴の言葉のように感じられてなりません。