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月曜日の夜7時25分の上映をバルト9で観てきました。封切から3週間余り。既にバルト9では1日に2度の上映になっていて、シアターもロビー階にある小型のものになっていました。スケジュールをネットで見て、これはヤバいと、慌てて駆けつけました。
チケット購入は上映開始の15分前。チケット・カウンタで見た座席の埋まり具合は、かなりなもので、入場して見ると、50人以上は観客がいたように思います。平日の夜とは言え、3週間過ぎて尚、この数の観客をきちんと入れられるのは、上映回数の絞り方がうまく需要にマッチしているためと思えました。観客層はやはり私ぐらいの年齢層が中心値のように見えました。中心値に偏っていて、大きなばらつきは見られません。男女比はほぼ半々か、やや男性が多いぐらいの感じに見えました。この渋いテーマで、特に若者ウケする人気俳優が配されている訳でもないので、まあこんなもんだろうと思います。
私がこの映画を見ることにした動機は、珍しく監督による選択です。最近、『脱兎見!』のことが知られるにつれ、「好きな映画」を尋ねられることが非常に増えたので、先日「好きな邦画50作」・「好きな洋画50作」を選んでファイルに残しておきましたが、その中にガッツリ食い込んでいる『その夜の侍』の監督が、監督作第二弾として作ったのがこの映画です。これは観ない訳にはいきません。
トレーラーで観た地味な圧力ある映像も気になっていました。主演の三浦友和は全然好きでも何でもない俳優でしたが、『アウトレイジ』のシリーズで観て、その芸達者さが印象には一応残りました。
また、南果歩は、私にとっては『帝都物語』・『帝都大戦』の二作の印象が非常に強い女優さんだったのですが、先日観た『さよなら歌舞伎町』では、いきなり、ラブホテル唯一の日本人社員の中年女性で、実は時効まであと40時間に迫った潜伏中の強盗傷害犯と言う役柄でした。時効直前に不倫でラブホテルに訪れた警官二人に発見されて愛人と逃避行を始めます。凄い役どころですが、DVDで観た『家族X』でも、本作同様、念願のマイホームを手に入れた後に家族が徐々に崩壊して行く様の真ん中に位置する主婦の役でした。
ぽよ〜んとした印象の風貌は、若い頃は清純で無垢な感じの表現の材料だったのでしょうが、最近はまともな思考をしていない中年女性を演じる材料になっているように感じられてなりません。いずれにせよ、極端な役柄が増えているように思います。ラブホテルの風呂場の拭き掃除を効率的に行なうために四肢の先に雑巾を持ち、四肢ばらばらに動かす、もの凄い技を淡々と作業として行なう様子には感嘆させられます。
そして、二人の息子のうちの長男は新井浩文です。ここ最近出演作が多く、至る所で目にします。最近私が観た作品の中だけでも『その夜の侍』、『さよなら渓谷』、『愛の渦』、『寄生獣 完結編』、『女が眠る時』と、多数あります。それもかなり目立つ役柄です。パンフレットを読むと三浦友和が、彼を「日本一死んだ目ができる男」と評しているのには、頷けると共に笑えました。(新井浩文は在日韓国人のはずなので、日本一と評するべきか否かには疑問の余地があります。)
パンフを読んで分かったことですが、この作品は元々『その夜の侍』同様に演劇作品として作られているものであり、演劇作品の方で、彼は問題の次男を演じていると言う話でした。いずれにせよ、「死んだ目」がウリになっている印象があり、『ゲルマニウムの夜』で尼僧を強姦していたキャラから、「死んだ目」の枠の中で演じられる範囲でやり尽くせる役の限りをやっていると言う感じに見えます。
この映画を観て最初に思いついた言葉は「地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions)」です。三浦友和と南果歩の演じる夫婦は共に自分なりの良かれと思うことを積み重ねて行って結果的に家族を破綻させていきます。まず(多分、学業成績も良くなかったであろう)次男は大学受験に失敗してから、家に引きこもり、どんどんひねくれていき、自分の人生の破綻を環境や他人のせいとして非難し開き直ることで日々を過ごしています。そんな風になった次男をそれでも可愛がるのが南果歩で、その次男とその次男の状態を寛容してしまう南果歩を、何かにつけて責めるのが三浦友和です。その三浦友和が演じる父の期待を一身に集めたのが、大学を卒業し、そこそこの会社の営業マンとなった長男です。
長男は就職後、「蓄えもできたし、家を出て自立するわ」と言って出て行き、結婚してマンション暮らしを始め、子供も二人できます。家には引きこもりダメ人間とそれをそのままに受け入れる母、そしてその状態を認めることが決してできない父が残り、長男と言う緩衝材無き後、一気に亀裂が拡大します。母は父とのセックスも拒むようになり、「結婚したのが間違いだった」と父に告げます。そして、次男と母は家出し、安アパートで母がパートで生計をたて始めますが、長男がその安アパートを見つけ出し、父が殴りこんで来て、表面上元の鞘に収まります。
そして、長男は会社を(次男と母の家出前からですが)営業成績が良くないことを理由に解雇され、家族にもそれを言えず、再就職もままならないうちに、投身自殺をします。期待の星である兄を妬み嫌悪していた弟は、以前から口癖だった「いつか一発逆転をして見せますよ」を兄の遺影に向かって宣言し、サバイバル・ナイフを通販で購入し、地下商店街で無差別大量殺人を犯し、殺人犯となります。精神に異常を来たしていたのが、顕在化した母は施設に入れられ、父は世間の中傷誹謗の対象となりながら、孤独に家に残る結果になります。
さらに、そこにダメ押しで善意の人がもう一人現れます。田中麗奈演じる獄中の次男と結婚する死刑廃止アクティビストです。私の印象に残っている彼女は、ウィキによると本人も気に入っている役だったようですが、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズの猫娘です。劇中で最もキャラが立っていて、しかも外見上も不自然感が少ない妖怪は他に居なかったものと思います。その彼女の自然な演技力が冴えるので、このアクティビストは非常に苛立ちを覚えさせるキャラに仕上がっています。映画全体のストーリーテラーの役割も果たしている要なのですが、執拗に父母と獄中の夫(次男)の前に現れては、勝手に家族の絆を求め、意味の分からない法的正義に関る自己主張を相手の顔も見ず只管語り、どこにも共感できる要素がないままに、父に犯されそうになって憤然として去っていきます。
『その夜の侍』に続き、監督は“一歩踏み外してしまうと誰もが簡単に陥ってしまう状況”を描いたとパンフで書いていますし、映画評の人々もそのように言っています。本当にそうなのでしょうか。私にはどうもそう思えないのです。
父は住宅街の中にポツンとあるような、自分の父から譲り受けた、やたら間口の狭い金物屋を営んでいます。何らかの経営努力をしている様子は全く見えません。客も来ないのに店番をしているだけの仕事に没頭している振りをして、家族を妻に任せっぱなしにし、気に食わないことだけを指摘し、妻や次男をただただ非難します。
私なら金物屋を多少なりとも繁盛させようとするか、店番の空き時間を何かに投資してリターンを得るかなど、何かしようとするものと思います。家族に対しても、もっと何らかの関与度を上げ、それでもダメなら、さっさと諦めて離婚するなり、家を出るなりすると思えてなりません。次男に対しても、20歳を過ぎたら、無理矢理にでも家の外に叩きだし、徹底対決の姿勢を取るかもしれません。
母は単に精神異常を来たして行くだけですが、「始めっから、あなたのことが嫌いだった」とセックスを拒んだ床で言うぐらいなら、さっさと離婚すれば良いものと思えます。丁度、『週刊モーニング』の『カバチタレ』で同様の夫婦の問題をテーマにした話がまさに展開していますが、刃傷沙汰や暴力沙汰に至るまで解決の糸口は見えないままにこじれ続けました。熟年離婚も流行る中、ここまで結婚関係の現状維持に拘泥する方が多数派であるとは私には思えないのです。
長男のリストラに関しても、リストラをする会社だのブラック企業だのと言うのは世の中に溢れています。実家から独立したのなら、実家には何も報告しなくて良いので、せめて妻にはリストラの事実を告げていたら、展開は全く違ったものだったと思えます。見れば、(明確には分かりませんが)とんでもない一流企業と言うことでもなかったように見えます。首になったかも自主退職かもハタからは区別がつきません。単に「上司と揉めて嫌になったから辞めた」となぜ家族に言えないのかが私には分からないのです。
遥か以前、バブル崩壊後数年経った頃、一流企業と言われる会社があちこちで数千人単位のリストラを実行しました。人材紹介の商売をしていた私はそれらの「中高年人材」を仕入れては叩き売る商売をしていました。世間体を気にして、家から出勤している風情にしていて、その実、毎日あくせく(大企業のプライドそのままの)就活を中小企業相手に展開しては、失敗を重ねるだけの人材を毎日山ほど見てきました。
しかし、それらの人材も、今回の長男とは決定的に違うことが数点あります。それらの中高年人材は、当時の一流企業で育てられたプライドの塊で、相応の役職に退職まではついていましたし、当時は、大手企業を退職すること自体が今に比べて珍しいことでした。さらに、この中高年人材たちは、少なくとも家族には退職の事実を明かしています。
次男も次男で、それほど辛いのなら、さっさとネカフェ難民にでもなれば良いだけの話です。生活保護のお世話になっても良いでしょう。善悪の判断としてどうとかいうのは置いておき、取り敢えず、変なプライドに縛られて、騙しきれないのが明らかなのに、自分まで騙そうとして苦しむぐらいなら、彼から見た愚民どもを見返す自律をさっさと獲得すれば良かったものと思えます。一発逆転などできていない人は山ほどいます。私の人生にも振り返ってみて一発逆転と言えるような素晴らしい展開は見当たりません。彼の言う一発逆転は自分を見下す家族に対しての卑屈からのことです。ならば家族から離れれば、一発逆転は不要になった筈だと思えます。
パンフには、様々な犯罪者の家庭を取材してきたというノンフィクションライターの小野一光という人物の寄稿文が掲載されていて、加害者の家族の言動や思考、価値観には、世の中の一般に比して、微妙なずれや歪みがあると指摘しています。そして「このような現実を目にすると、どこかで殺人犯の家庭環境と凶悪な犯行との繋がりを連想せずにはいられない」と書いています。
私も中小企業診断士の商売柄、色々な中小零細企業をみて、経営不振の会社や経営がその後不振になる会社を高い確率で見分けられます。ですから、この小野氏が言う関係を私も想像することは一応できます。ところが、そのような自分の豊富で特異な体験を明かしているのに、小野氏は「ただし、こうしたことから殺人犯とそうでない人々との間には、越えられない溝があるとの考えを私は持っていない」と、突如論理を飛躍させます。
人間は、ひょんなことから犯罪者になったり、容疑者になったりすることがあり得ます。交通事故の多くの原因は「ついうっかり」や「こんなことになると思わなかった」だと思いますし、意図的でしかできないような万引きなどでさえ、「魔がさした」だの「どうしても盗んでみたくなった」だの、衝動的な欲動の結果と言うことはあり得ます。本当に何も意識的に触ろうとしていなくても、満員電車の痴漢冤罪をかぶせられることだってあるでしょう。
ですから、犯罪者になることが、特定のイカれた人間のみに起こることだと私は思っていません。しかし、「ついうっかりサバイバルナイフをネット通販で購入して、魔がさしたついでに、地下商店街で多数の通行人も次々とさすこと」は普通あり得ませんし、それが、誰しもに起こりえるとするのは論理が飛躍しすぎています。
家庭を見ると異常さが醸し出されているのを察知できると小野氏は書いていますが、『遺伝子の不都合な真実…』という最新の遺伝子研究の成果をまとめた書籍を読むと、家庭環境がそうなのではなく、そのような犯罪者になる遺伝子を持った親がその家庭を作っているから、たまさかその家庭から犯罪者が出たと考える方が妥当です。もちろん、総てが遺伝子で決まると言う優生学的な差別観を持つ気はありませんが、確率論ではかなり妥当な理屈であるのはどうも本当であるようです。そのように考えると、監督が執拗にパンフで強調する「普通の人でも一歩間違えると…」論には、どうも共感できないのです。
ただ、小野氏が指摘するような性向を持つ人々を、不気味なリアリティを持って演じることに、この映画の出演者は皆成功しているように思えます。特に三浦友和の自己主張・自己承認・自己中心キャラのいやらしさは、形容のしようがないほどです。そして、田中麗奈です。先述の通りのウザい女のキャラを丁寧に演じきってくれます。
多分童貞のままでセックスなど想像しかしたことがない次男が刑務所の暑さに対して不満を言うと、昔の男とクーラーのない部屋で汗まみれになってセックスし続けた思い出を、「蒸し暑くて不快な日であっても人生の大切な思い出になりえる」と言う意味での人生訓として嬉しそうに面会のアクリル板越しに語る表情など、どこまでも嫌悪感が湧きます。
そんな田中麗奈でさえ、孤独に家で暮らすことになった父にとっては、付き纏って来ては(次男の話を聞き出そうとする上で)自分の話を聞いてくれる女性として、存在感を増して行きます。最後に、戸籍上の妻である田中麗奈にだけ死刑の執行の報がもたらされたので、それを伝えに彼女は最後の御挨拶をしに父のもとに現れます。「もうちょっと私が努力すれば事態は変わったはずだ」などと根拠もなさ気な自己陶酔の台詞を吐き、「それでは」と去ろうとします。
すると、父は「これで稔(=次男)とのことは終わったんだな」と言っていきなり彼女に抱きつき、キスを迫ります(見た目、キスには一応成功したかに見えます)。「あなたはおかしい!」と半狂乱で激怒する彼女に、「じゃあ、俺がそこらで三人ぐらい人を殺してきたら、俺と結婚してくれるのか」と父は真剣な目つきで言うのでした。田中麗奈は、死刑になることが見えている人間の尊厳を主張するためだけで、死刑囚の人格を無視して結婚をすることを選んだのですから、それが今度はその父であっても、そしてそれが田中麗奈とセックスするための犯罪であっても、死刑になる選択をする者と結婚することがおかしいことではないように私は思えます。
彼女の自分の存在証明や承認の欲求をすり替えただけであることが見え透いた、偽善的で誰のためにもなっていない活動が、本当にいやらしく描かれていたので、この最後の場面には少々胸がすく思いでした。寧ろ、どうせ暴力的でもある父なので、彼女を無理にでも組み敷いて、犯しつつ彼女のくだらない正義感をへし折って見せるぐらいの展開になったらすっきりしたことと思います。実際にはそんな『渇き。』のようなカタルシスは用意されていず、おまけに父は家の新築の際に植えた記念樹で首つり自殺を図りますが、枝が折れて失敗すると言う平坦な展開です。詰まる所、破綻した家族とその家庭に何らの終焉の形もつけず終わらせたかった映画であるのだろうと思えます。
「正義感を振り回したい」、「父親然としていたい」、「子供達をただただ(盲目的に)可愛がりたい」などなど、本来の隠された欲求の発露の善意が蓄積すると、酷い結果になると言う物語を丁寧に描いた快作だとは思います。誰しもこうなり得ると言われたら、全く共感はできませんが、見直すなり、人に薦めるなりする価値は見いだせるので、DVDは買いです。
追記:
どこかの個別のコンビニ店舗がスポンサーになって、物納で支援でもしているのかと思えるほど、やたらにコンビニ食品を登場人物達が食べまくる映画です。おいしがる訳でもなく、機械的に食べる場面ばかりです。単に食欲を満たすだけの食事を象徴的に多数埋め込んだのだと思います。そう言えば、『その夜の侍』も三個パックのプリンを主人公が何かにつけて食べていました。エンディングでは頭や顔に塗りたくります。廉価な食べ物の記号的活用が好きな監督なのだと分かりました。