『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』

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 6月に入って最初の水曜日の夜7時50分。明治通り沿いの映画館で観て来ました。根拠がよく分からない割引で、1100円で観ることができました。5月末の封切から僅か一週間弱。割引日であるせいもあるのか、若しくはノー残業デーが普及しているのか、300席のシアターに60人以上は観客がいました。都内でも(そして23区内でも)たった5館しか上映していないマイナー映画の位置付けにしては健闘している方ではないかと思います。

 観客は男女構成比は半々ぐらいで、年齢は比較的若い方に集中していたように思います。上の方で40代がチラホラと言う感じで、見渡した限りでは、私は上から10位以内だと思います。

 私はマイケル・ムーアの映画がかなり好きです。古くは『ロジャー&ミー』も『ボウリング・フォー・コロンバイン』も好きでDVDを持っています。政治に大きく踏み込んだ『華氏911』も、少々鼻にはつきましたが、映画と言うモノの可能性を大きく広げた、金字塔的作品と私は思っています。『シッコ』と『キャピタリズム マネーは踊る』は映画館で見逃し、DVDで観ましたが、変に見せ場ができていて、初期の頃の荒削りな良さを感じませんでしたが、観る価値は十分にある作品群だと思っています。

 他にもマイナーな作品が幾つかあることは知っていますが、それを追っかけて観たいと言うほどの大ファンではありません。特に、少々ファン熱が上がって原書で読んだ『マイケル・ムーアの恐るべき真実 アホでマヌケなアメリカ白人』の内容が、かなり好い加減で、狂牛病の描写などは、科学的にナンセンスだったことなどには、驚かされました。それ以降、マイケル・ムーア作品は、映画だけをその内容からだけ鑑賞すれば良いものと割り切っています。

 そんな中、映画は相応に期待できるものと踏んで、観に行ったのがこの作品です。結論を言うと、面白いです。面白いと言うよりも、「心が揺さぶられる」とか「胸に突き刺さる」部分が幾つもあると言うべきかもしれません。

 今回のテーマは珍しく米国の外に目を向けたものです。過去には(「銃社会であっても犯罪社会ではない隣国カナダとの比較をした場面はありましたが)米国の内部の矛盾や汚点を抉り出すスタイルでしたが、今回は(チュニジアも含む)ヨーロッパ方面の国々を訪問する形の映画です。曰く、第二次大戦以降、ありとあらゆる戦争で勝てなくなり、狙っていた原油をぶんどってこれない状態になっている米軍から依頼を受け、新たな形の他国侵略に彼自身が向かい、侵略国から何かを強奪してくる…と言った趣向です。

 強奪したものを挙げると、「イタリアの休暇だらけの労働環境」や「フランスの質の高い学校給食」、「フィンランドの宿題と統一テストを配して子供たちの高学力を実現した教育制度」、「スロベニアの留学生にまで完全無料の大学制度」、「ドイツのワークライフバランス」、「ポルトガルの麻薬の完全合法化」、「ノルウェーの犯罪者の充実した服役生活」、「チュニジアの男女同権」、「アイスランドの男女平等」です。

 各々の侵略地で各々のテーマに直接的に関わっている人物や代表的人物にインタビューを敢行し、インタビュー終了後、「この国を侵略した。この国の●●の制度(/考え方)を私たちは盗む!」と宣言し、その場に米国国旗を立ててきます。(イタリアでは、ドゥカティの生産現場で経営者にインタビューしたので、そこに国旗を立ててきましたが、それ以外に、取材を行なった労働者夫婦宅の居間にも国旗を立てています。)驚かされることに、各国の首相や大統領などもバンバン取材に応じていている一方で、一般の労働者も、学校の教師も、警官もインタビューされ、彼らの平易な言葉で、米国とは全く異なる現実が語られています。

 他の作品でも見られる、取り扱っている社会的問題の直接的で劇的な被害者である個人(『シッコ』の時には、マイケル・ムーアと一緒にキューバに行く病人など)を今回も見事にあちこちで見つけ出しています。ノルウェーでは、69名もの死者を出した2011年のウトヤ島銃乱射事件で殺害された子供の父親にインタビューし、殺された子供から死の30分前に島からの電話で助けを求められたことなどを語らせた後に、「もし、法律がなかったら、犯人を殺すだろ?」と執拗に質問するなど、その地の文化や制度の本質をその地の人々の本音で語らせる構図は、以前以上に磨かれています。

 米国人にとって衝撃的であろう事実が発覚するたびに、(米国人以外の観客にも分かるようにと言う配慮もあってか)米国での実態を示す映像が比較対象として挿入されています。フランス料理の子供版のような給食を食べるフランスの貧困地域の学校の食事時間に混じり込み、水しか飲まない生徒たちに、「コカコーラを飲まないのか。ほら、飲んでみろ」と薦めたりするなど、わざわざ、傲慢な米国人気質を演じて見せたりもする入念な演出が続きます。

 普段、私たちが「欧米的」と言うとき、「欧」と「米」はひとまとめにされていて、その区別をしていないままに、多くの日本人は「米」のことを想起しています。その「米」の現実さえ、米国留学して、村にたった一人の日本人の目から見た現実を知っている私からすると、かなり理想化されたり、偏ったもので、必ずしも「米」の現実を投影しているものではありません。仕事の経営関係の話題で、私も「米的文化」「米的社会」「米的経営」を語る時がよくありますが、その際に、いつの間にか「アメリカでは」に代わって「欧米では」が混じりこんでしまっていることがあります。映画を観ていて、マイケル・ムーアが演じて見せるフツー感覚のアメリカ人が「信じられない!」と言う場面が、私も強く頷けました。だからこそ、「欧米」一括りの認識が混じりこまないよう猛省する瞬間が多々ありました。

 ただ、優れているとして強奪された、劇中の論点に私は必ずしも賛同しません。唯一賛同できたのは、麻薬の合法化ぐらいです。

 仕事と生活が二項対立になっていて、「ストレスを感じるのは、体に悪いことだ」などと大真面目に言われると、馬鹿も休み休み言えと言いたくなります。現実に「ストレスを感じることは体に悪いことではない」ことが各種実験でも近年実証されつつあります。キャリア視点や仕事によって得られる事柄を全く無視したまま、「バカンスがない生活は地獄だ」などと言っている労働者を見ると、何かが完全に抜け落ちていると感じられます。

 同様に大学の完全無料化にも疑問が湧きます。もちろん、現在の日本の大学生向け奨学金制度が、最大値で卒業時に700万円以上の借金を学生に負わせることには異常を感じていますが、それでも、完全に無料になるべきものと私は思っていません。私は自分が図書館の本を借りても、真剣に読んで、その学びを自分の血肉とすることができない人間であることを知っているので、本はどんどん買って、積読にし、そのコストの大きさを思い知って、真剣に読み取ることにしています。

 いつぞや、貧乏役者の若者が、「芸術活動に対して、公的機関がもっと支援をするべきだ」と自分たちの窮状を嘆いて、テレビ番組で発言していたら、そこにいた、樹木希林 が、「そんなことをしていい芝居を作れる訳がない」とあっさりと切り捨てていたことを思い出します。価値あるものは、手に入れることが難しいから価値があるはずです。大学教育がコモディティとなるなら、それは本質的な価値の低下につながっていくことと私は思います。

 投票権さえまともになかったチュニジアの女性が立ち上がり、自分たちの権利を憲法で保障させたのは、或る意味、歴史の必然です。しかし、経済の大破綻を来したのは、男性的組織に金融業界が牛耳られていたからだとして、女性政治家や女性経営者が胸を張って語るアイスランドの男女平等にも疑問が湧きます。歴史を振り返れば、男性よりは少数でしょうが、女性の政治家は山ほど存在します。その中には強欲な者も、残忍な者もやたらにいたはずです。もちろん、賢者も居れば公正な人もいたでしょう。ここにも、馬鹿げた単細胞的男女性差の二項対立構造が見えてきます。

 さらに、子供に宿題を出さないフィンランドの教育が素晴らしいと言われると、全く首を傾げざるを得ません。義務教育の中で、全員が最低限の一定の知識・知見・体験を得ておくことを想定する時に、学校授業が給食の時間も含めて週20時間で終わるカリキュラムなど考えることができません。統一テストが思考力を奪っているという論点は認めるとしても、統一されたカリキュラムの持つ圧倒的な長所が、劇中では一方的に無視されたままです。

 また、他に協調して成果を出すことを求められたり、高い一定基準を求められたりする時、人間には負荷がかかり、それを乗り越えることを動機として能力が伸びる(ことがある)と言うのが、当たり前です。自主性だけで、人間が自己認識している能力の枠を超えて努力をどんどん重ねるとも思えません。まして、それが子供であればなおさらです。

 この映画を観ていて、一つどこを探しても登場しない人間の姿があります。それは「真剣に努力している人」の姿です。それを美徳とする考え方も見当たりません。彼らの努力の定義によれば、きっとそれは、劇中に時々登場する、街をプラカードを持って行進し、場合によっては警官隊と小競り合いするような権利主張が、“体を張った努力”なのではないかと疑われます。

 マイケル・ムーアの考える「米国が理想とするべき社会制度」が、このようなものであっても、米国民には多分圧倒的な驚きがあるでしょうし、それを明瞭に対比して見せたこの作品には十分価値があります。DVDも入手保存する価値があります。しかし、それだけなのであって、そこには人間の本質を見据えた分析がないのです。

 注目すべきなのは、劇中で「略奪品」として取り上げられる社会制度や考え方が、実は被略奪者の方から、「これは元々私たちが米国から学んだものだ」と指摘されていることです。この発見は非常に興味深く、映画の終盤、「実は私たちが学ばなければならないものを得る必要はなくて、元々自分たちにあるものをきちんと見直せばよいだけだった」とのパラダイム変更をバンと提示して、見事なエンディングを迎えます。

 考えてみたら、第二次大戦を挟む全世界的な混乱期が産んだ二つの実験国家が当時のソビエトとアメリカ合衆国でした。そこでありとあらゆる科学実験やら社会実験が試されては潰えて、今に至っています。労働者を全員国家公務員にしてみたら、誰もまじめに働かなくなった。酒は人間を堕落させる悪いものとして廃止してみたら、闇経済がどんどん膨らんだ。片方は宗教を麻薬扱いして弾圧する一方、片方は実質的なキリスト教国家になったら、進化論裁判は国中に広がり、イスラム教徒は敵視されるようになった。などなど、おかしな実験結果を乱発しながら今に至っています。

 幸いなことに、これらの実験結果を腑分けして、良いものを上手く社会に馴染むように微調整しながら採り入れることが、他の国々には可能でした。今では、事典にも載るぐらいに世界的に普及した経営用語「カイゼン」だって、元々GHQの指導で日本に導入されたQC活動がベースです。それが定着して日本を世界に冠たる経済大国に変える原動力になったことは、非常に有名です。この映画で紹介される幾つもの「略奪品」と全く構造が一緒です。
 
 そのように考えると、この映画自体が米国の実験国家の在り様そのものにさえ見えてきます。つまり、税制や経済政策、さらに就労観や教育観などに大きく踏み込むテーマを散逸的に紹介しながら、その腑分けや分析に観る者を駆り立てるように構成されているのです。

 米国で生まれた私の娘は、米国と日本の二重国籍者であと10年経たない未来には、何れか一方を選ぶことになります。その前には米国の大学に留学する予定ですが、自分の目で見た米国とそれ以外の世界の国々との社会や経済や教育の制度の在り方を広く観て選択してほしいと思っています。マイケル・ムーアの一連の作品は米国社会を知ってもらう上で、なかなか良い参考資料と元々思っていましたが、本作は他国との比較論となっているので、娘に見るように勧めてみたいと思いました。