『蜜のあわれ』

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 封切から1週間弱。木曜日の夜7時20分からのバルト9の回を観て来ました。東京23区内でも(そして都下でも)たった4館でしかやっていません。(新宿・品川・大泉学園・錦糸町と言うなかなか渋い組み合わせです。)全国でも30館弱。そのうちの1館バルト9では、1日に5回も上映する大人気です。実際、雨が朝から降り続く日であったにもかかわらず、客足は上々で、過去1年単位で振り返っても見たことのない50人以上もいる観客数でした。

 観客の層は大別すると、私ぐらいに年をとった中高年の男性と、20代後半から30代を中心とする女性。女性客は単独か女性の二人連れが多かったように思いますが、ほんの一部若い男女カップルもいたように思います。数の多さ以上に、客層の偏りが際立っていました。このような厚い客層が構成される背景にはそれなりに関心が湧きます。

 この映画を私が観に行った理由は、二階堂ふみの存在です。純粋にファンと言うよりは、二階堂ふみが躊躇なく引き受けるおかしな役柄の広がりを見極めたいと言うのが最大の動機と自覚しています。

 両親に絞首台を用意されつつある女子高生(『ヒミズ』)、連続爆破魔(『脳男』)、ブチ切れて血塗れの殺人劇に至る極道娘(『地獄でなぜ悪い』)、自分の父との肉体関係に溺れる殺人少女(『私の男』)、酒を飲んでは吐瀉しまくるアイドル歌手(『日々ロック』)、耳を削がれても悪態をつくイカレ女子学生(『渇き。』)、料理を作りに見知らぬ家に押しかけるメンヘラ元風俗嬢(『四十九日のレシピ』)。このように書いてみると、(勿論、それ以外にも『ほとりの朔子』や『味園ユニバース』などDVDで観た“フツー”の作品は存在しますが)枚挙に暇がないと言うよりも、彼女が意図的にキワモノの役を選んでいるとしか思えません。クラスの同級生をほぼ全員射殺されるのを目の当たりにして生き残る女子高生役の『悪の教典』でさえ、かなりまともな方に見えるほどです。

 そんな二階堂ふみが、今度は人間ですらない役柄になると言うと、コンプリート感の追求に観に行かざるを得ないと思いました。

「大正から昭和にかけて活躍した詩人で小説家の室生犀星が、自身をモデルに老作家と金魚の化身とのエロティックな日常を描いた小説を映画化したファンタジー。二階堂ふみが老作家の仕事場に現れては自由奔放にふるまい、惑わす金魚の化身・赤子を演じる…」

 MovieWalkerにある作品紹介文です。二階堂ふみの金魚以外にも、日本の近代文学作品の映画化作品にも、昭和初期から中期を舞台に(時代考証など)“真面目に”制作された作品にも、私は結構好ましく思える作品があるので、観に行く理由は非常に膨らみました。

 二階堂ふみに関しては、この作品の前に出演した『この国の空』がまさにその手の作品だったのですが、劇場で見逃してしまっていたのが残念だったので、今回の、「キワモノ役の二階堂ふみ」×「近代文学作品」の組み合わせは必見と、前から狙っていました。

 私は、室生犀星をほとんど読んでいません。詩集の数点と『兄いもうと』ぐらいではないかと思います。その内容さえも完全に記憶から抜け落ちています。中学から高校時代に短編作品を中心に、森鴎外、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫、谷崎潤一郎、菊池寛などを読んだあと、関心は安部公房に移り、どっぷりと嵌って、その後ほとんど進展はありませんでした。敢えて言うと、少々、夏目漱石や川端康成や坂口安吾を「常識として知っておこうか」と思い立つ機会や、何かの映画作品で知る機会が出るごとに追いかけて読んだことがあるぐらいです。

 仕事の都合で毎週通う田端駅の近くには、田端文士村記念館があり、そこで時間を潰したことも何度もあります。そこの資料の中にも、室生犀星が多々言及されていることを知っています。ただ、“そのような人がいた”と言う事実認識をただ色濃くしただけのことです。それぐらいに、シロウトからすると、室生犀星の作品群はメジャーではないのだと私は認識しています。

 その程度の知識の持ち合わせしかなくても、この作品は楽しめました。死んだ芥川龍之介との会話のシーンでは、自分の才能の無さや、多くの作家が自死する中、作品をあがいて書き続けている無様さを、室生犀星が自身の言葉として語っています。その場面で、親交の深かった萩原朔太郎のあの世での状況を、彼が芥川龍之介に尋ねると、「『(室生犀星は)以前の方が良かった』と言っていたよ」と断言されてしまい、落胆さえしています。老いが嵩じて、肺を患い、彼の記憶に生きる芥川や萩原に辿り着けない自分への焦燥や落胆がとても生々しく描かれています。

 観てみてこの映画の“おいしさ”は重層的なものと分かりました。前述のような室生犀星本人の姿の描写に作家としての苦悩が滲み出ています。さらに、二階堂ふみ演じる金魚の化身との擬人化されたエロティックな描写が映画の大きな魅力となっています。毎夜同衾していながら、(実際には人間等身大に見えても)サイズの違いからセックスには至れないようです。金魚の敏感な尾鰭を指で優しくなぞったり、野良猫に割かれてしまった尾鰭を唾を付けて接いだりするなども、セックスの愛撫と同質に描かれています。

 日本人の文化では、それがオタクの文化であろうとも、物品や生き物の擬人化が行なわれるのが特徴だと言われます。古くは付喪神などの存在もまさにそれでしょうし、新しくは、艦これだって、この範疇です。けれども、戦後も過ぎ、高度成長のど真ん中に至る昭和34年の日本で、70歳になり、妻を失ったばかりの室生犀星が、こうした構図の小説で、性と生に振り回される人間の姿を描いたことには驚きが湧きます。

 劇中、室生犀星には、彼から文学の指導を受ける女性が愛人として存在することが判明します。それを知った金魚の化身赤子(あかこ)は嫉妬し、室生犀星の子を孕むことができないので、彼女を気遣い時々に面倒を看る“金魚屋”のオヤジに頼み、オスの金魚と交尾してたくさんの卵を孕みます。オスの金魚とのセックスは、滝をバックにした床の上に全裸で横たわる二階堂ふみに若々しい男が近寄り、身体を重ねる生々しい場面として描かれています。その生々しさがそっくり室生犀星の嫉妬の激しさを伝えてきます。

 その赤子は愛人を囲っていた室生犀星との諍いから家を出て、結果的に卵も産まないまま子供達に足蹴にされていたところを、金魚屋に救われましたが、室生犀星のところに運ばれてきた際には、新聞紙にくるまれた金魚の死骸になってしまいました。室生犀星の慟哭がその後長らくシアター内に響き渡ります。

 室生犀星の方は愛人と、久々に勃起して実際の性交に及べると喜び勇んだのも束の間、ひょんなことから機会を逃し、激昂して愛人の元から去ってしまいます。男の身勝手さなのか、老人の醜さなのか、分別の付かない人間像が細かなエピソードが重なるごとに浮かび上がってきます。

 作家の老醜、満足の行く作品ができない焦燥、人間の愛情と嫉妬、失って分かる価値。色々なものが重層的に丁寧に描き込まれた上質な物語です。近代文学系の映画作品で観た作品群に比べても、『夢十夜』には無い愛と嫉妬、『戦争と一人の女』には無い老醜、そして『斜陽』にはない親愛がキッチリと描きこまれているのです。特に、『夢十夜』と『戦争と一人の女』は、私の邦画トップ・ランキングに入っている作品群ですが、この作品はそれらと伍す魅力を持っています。

 この魅力の実現は、当初の鑑賞動機である二階堂ふみではなく、寧ろ、室生犀星役の大杉漣の優れた演技力によって支えられています。大杉漣を私が最近観たのは、DVDで観た『XX(ダブルエックス) 美しき獲物』の被害者である美しい夫人に魅惑され、ズブズブに入れ込んでしまう中年刑事の役でした。愛情や嫉妬の感情に振り回され、激しいセックスの衝動に飲まれていく中高年をやらせたら、日活ポルノの作品群に多数出演していた大杉漣の演技の厚みが否応無く発揮されてしまうのかもしれません。ウィキに拠れば…

「偉人群像から社会の底辺に生きる人物、公安刑事から体制破壊主義者、堅実なサラリーマンからホームレス、学校長からヤクザ、好人物から偏狭な人物、誠実な父親・夫から退廃的な不良中年、精神異常を思わせるサイコ色の強い異常人格から変態・エロ系の人物まで、様々な役柄を演じ、「300の顔を持つ男」「カメレオン」などの異名を得る」

 とのことで、今回の室生犀星の中には、300のうちの幾つかがうまくミックスされているように感じられます。思い返してみると、私が彼の存在に気付いたのは、私が大好きなコミック作品『あさってDANCE』の映画化作品に出てきた顔の長い弁護士役であったかもしれません。

 本作の中で、『さよなら渓谷』などでも全く好感が持てなかった真木よう子が、渋い幽霊役を好演していたのは、私にはボーナスポイントでした。さらに、『戦争と一人の女』、そして『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』に並ぶほどに、チョイ役でしたが、永瀬正敏の金魚屋の存在感は素晴らしかったです。DVDは勿論買いです。

追記:
『日々ロック』でも(敢えて言うと『四十九日のレシピ』でも)感じたことですが、どうも二階堂ふみの踊りと歌はキレが悪く、観るには多少の忍耐を要します。演技には見えないような泥臭さは、本作の数少ない欠点のように感じています。