『ビハインド・ザ・コーヴ~捕鯨問題の謎に迫る~』

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 1月末から公開されて約一ヶ月。全国でもたった一館。当初2週間は毎日2回、その後は毎日1回上映を繰り返している、新宿南口近くのミニシアターで観てきました。小さなシアターですが、観客は30人近くはいたように思います。年齢層はどちらかと言うと上のほうばかり。男女比はほぼ半々でした。この問題に関心を持っている層を想像せよと言われたら、ほぼばっちり当った感じかと思います。

 午後からの移動には1時前から入らなければならなかったので、10時半からの上映で、107分の映画でしたから、それからマンションに戻って出かける準備は楽勝かと思っていたら、予告編がやたらに多く、終了は12時半と聞いて動揺しました。結果的に映画が終わると同時にシアターを一旦出ましたが、トイレに行っていると、シアターから続々と出てくるはずの観客はいず、ドアを開けた状態のシアターから拍手などが聞こえてきました。何かと思って覗いてみたら、監督が舞台の上で一人ぽつんと立って挨拶を始めていました。時間がないので、15秒ほどドア脇で監督の様子を見てから、その場を去ることにしました。

 なぜこの映画を観たかといえば、元ネタの『ザ・コーブ』が社会問題と化す中、到底、気分が悪く金と時間を費やしてみる気が湧かないので、せめて、現実・真実に基づき、その批判をしている作品を観ておこうかと思い立ったのが理由です。『ザ・コーブ』は、無知や誤解、偏見や人種差別に満ち満ちた、完全に破綻をきたしている映画であるはずなのに、私が敬愛するロジャー・イーバートまでもがそれなりに高い評価をし、おまけにアカデミー賞まで受賞すると言う、空いた口の塞がらない、存在さえ許すべきではないぐらいの作品だと理解しています。

 嫌な映画が世の中でそれなりに流行っていたり話題になっていたりするが、その本編を観たくないので、それに関する別作品を観る流れでは、『ピープルVSジョージ・ルーカス』と観た動機の構造は一緒ですが、元ネタに対する嫌悪感が数万倍異なります。

 映画の内容は、ウィキなどに書かれている『ザ・コーブ』の問題点の主要な幾つかを取り上げ、過剰なぐらいに中立な視点で、太地町住民等の日本側関係者の主張や感想と、今となってはテロリスト指定されてながら支援者からの金集めのためにスタンドプレーを続ける精神異常者団体シーシェパードの輩の言い分を並べて見せます。それほど目新しい論点や情報は含まれていません。基本的に以前読んだ『白人はイルカを食べてもOKで日本人はNGの本当の理由』に書かれていることと大きな違いはありません。

 ただ、住民の生の言葉が綴られ、精神に異常を来たしているとしか思えないような悪辣で傲慢な主張を重ねるガイジン集団に対して、平和に対応しようとしている、住民の態度が、否応なく際立ちます。食生活のみならず、生活全般に深く歴史的に関わってきた鯨漁について、これほどに大切に思っているなら、なぜもっと主張し、なぜもっと村を守ろうとしないのかが不思議に思えて、苛立ちさえ覚えます。

 留学していて、「お前も鯨を食うのか」と議論を吹っかけられたことは何度もありますが、そういう低脳学生は、列強の国々が、鯨を海に浮かんだ機械油タンクぐらいにしか思っていず、油の補給のために殺戮を無配慮に繰り返しては、残ったものはすべて海に投棄し続けた明白な歴史を見過ごしています。鯨の寿命や世代から考えるとその頃の乱獲が今に至る絶対数の激減に繋がったのは、それなりに知られた事実です。その事実を低脳学生にガンガン言い迫ると、簡単にギブアップします。

「鯨が減っているのに捕り続けるなと言うなら、数を減らした責任を歴史上負うべき国が、鯨を養殖して日本に無償で提供すべきだ。傲慢な欧米人の論理は破綻している。知能が高いから殺すなと言うのなら、殺すに十分な理由など一片もなく、ほとんど何らの意味なくアフリカや中南米、オーストラリアの原住民を殺戮しまわったのは、どう説明するのか。インディアンとか呼び続けて、ネイティブ・アメリカンを殺しまわった馬鹿どもからそんなことを言われる筋合いはない。ベトナムでも日本でも全く戦争に関係ない民間人を数十万の単位で殺しまわった国民がそんなことを言う立場にはない。念のため、言っておくが、真珠湾では日本は軍事施設しか破壊していない。南京の大虐殺は一切デマで、国際法を知らない軍服を脱いでも戦い続ける、一見民間人と区別の付かない便衣兵を射殺することがあっただけのことだ」。

 当時私が言っていた主張の大方は、この作品の中でも、何人かの白人識者が説明しています。驚くことに、その意見を理路整然と説明している日本人はほとんど登場しないのです。精神異常者に見える団体構成員どもは、「カメラを武器にしてネット上に嘘八百をアップして」いて、それで「困った」、「困った」と言う日本人はいますが、こちらもそれをやり返してやるという者はいませんし、町に都合の良い条例を作って、彼らの行動を制限しようと言う動きも劇中で見る限り全く見つかりません。

 交通ルールを違反しているケースや、立ち入り禁止エリアに踏み込んでいるケースも多々見つかるようですから、片っ端から立件して犯罪者として扱えば良いだけのことのようにも見えます。「町内の人物撮影に当っては、肖像権に配慮し、必ず被写体となる人物全員の同意を被写体の人物が理解できる言葉で間違いなく得ること」など、肖像権侵害なども条例化して、ガンガン取り締まればよいだけのことでしょう。町の文化財となる場所への立ち入りを厳罰化するのも良いでしょう。

 本当に迷惑していると言うのなら、商店やホテルも彼らに対して販売拒否やサービス提供拒否をすればよいだけのことです。英語の読み書きができる人間は山ほどいるのが日本の良いところの一つですから、拙い文章でも良いから主張をガンガンネットにアップするぐらい簡単にできるはずです。なぜ、そのようなことも行なわず、「困った」、「いつか分かってくれると思う」、「白人が皆、こんな人たちだけではないと思いたい」、「政府のIWCでの腰抜け対応がおかしい」などと、自分で最低限できることもせずに、“時ぐすり”が効くのを待ちわびる態度は、理解不能としか言えません。

「大好きな竜田揚げが食べられなくなるかも」と言う危機感からこの映画を撮ったと語る監督の取り組みそのものが、唯一の“見える形”の反撃に見えますが、それさえも中立的な視点の枠にとどまっているが故に、矛盾を暴くことには成功していても、その結論に至る道はやたらに冗長で不明確です。映画制作も初めて、自力での撮影に当たりカメラ撮影も初めて、おまけに英語も拙く…と言った監督の状況がそのまま作品の質に影を落としているのが残念でなりません。こちら側の立場から、マイケル・ムーア作品のようなドキュメンタリーをガッツリ創り込めたら、どれほど良かったかと思います。

 モントリオール映画祭などで、この作品は非常に注目されたと言います。捕鯨反対の立場の欧米人でさえ、「日本の立場の意見を知ることができてよかった。歴史に基づく文化の重みが分かった」などと言うようなコメントが多々得られたと言います。それはそれで、無いよりは余程マシですが、主張は拙く、道程は冗長で、全く胸の空く思いが湧くところの無い作品だったので、DVDは不要です。

追記:
 この作品全般での最大の収穫は、2007年から2008年にかけて、自分が制作に関わったテレビ番組「ホエール・ウォーズ」の偏ったメッセージ性を許せず、反捕鯨側から「商業捕鯨は反対、伝統捕鯨の存続」の立場変わり、太地町の捕鯨文化を世界産業遺産に登録するために尽力しているサイモン・ワーンの存在に気付けたことです。彼の著作などがあれば読みたいと思いましたが、調べても現時点では見つかりません。