『完全なるチェックメイト』

 正月明けの平日の水曜日の昼の2時少々前の回を観て来ました。映画館は何年かぶりに行った日比谷の古い映画館です。開始10分ほど前に、JRの有楽町駅から歩いて向かった、1階の昔ながらの外に面したガラス越しのチケットカウンターには、高齢の観客がまとまっていました。時間ぎりぎりになったこちらの問題ですが、これほど平日の真昼間から混んでいるとは思っていませんでした。

 エレベータの中でも、高齢の男性二人が「これ、映画はチェスの話でしょ?私は全然チェスを知らなくて、大丈夫なんだろうかとかずっと思ってましてね」「ああ、私も、若い時分はちょっとやったんですけど、今の生活になってちょっと習ってみようかと思って遠藤さんに頼んだんですけど、やろうと思っていた矢先に遠藤さんが亡くなってしまって、結局やらずじまいですよ」などと会話していました。何か関心がなくても映画を観ることが促される集団的システムがあるような口ぶりでした。そういうクラブ(むしろ、倶楽部と書くような感じですが…)などが存在するのかもしれません。よく分かりません。

 チケットカウンターで席を選ぼうとしたら、満席に近い状態だったらしく、いつも私が選ぶ通路側の席は前三列以外には空いていないということでしたので、仕方なく、前から三列目の一番端の席に座りました。中近両用の眼鏡をかけてから初めてのスクリーン間近の席体験です。斜めに観る形なので、距離は或る程度とれますが、その距離はスクリーンの部分によって一様ではありません。おまけに中近両用眼鏡だと、レンズの観る部分によって度が異なりますから、終わり頃には目に負担がかかったようで、軽く頭痛がしました。

 クリスマス当日の封切から二週間弱。シアター内は6〜7割埋まった感じで、席を買ってあっても現れない客が多いのか、列の通路側の席も幾つか後方で空いていました。客層は、とんでもない贅沢はしていないものの、そこそこ高いシックな感じのものを身に着けた高齢者集団と言う感じでした。男性の二人連れも女性の二人連れも居ました。カップルもいました。概ね二人連れ客が目立つようでした。チェスを始めようとしても亡くなる人がいるぐらいですから、席を買ってあっても亡くなって観に来れない人がいるのではないかと勘繰ってみたりしました。

 以前も日本橋や有楽町の映画館に行ってみた時に感じたことですが、やはり古くからある栄えた地域の古い映画館に行くと、客も含めて見慣れないものを色々目にすることになります。

 冷戦時代のチェスの世界タイトルを争う米ソのチェス・チャンピオンの対決を軸に、米国側の代表、ボビー・フィッシャーの人生を描いた映画です。観に行くことにした理由は、チェスがまあまあ嫌いではないことが一番です。チェス、将棋、碁で比べると、碁は遥か以前、中学時代に短い期間囲碁部にいたような記憶があるだけで、原理は分かっていて見ていることはできてもやることがほぼできないレベル。将棋はルールは分かっていて、一応指せるが、全くの素人レベル。チェスは、将棋よりちょっとマシなレベル、と言った感じです。パソコンのチェスソフトでは「簡単」レベルで時々勝てるぐらいの腕でしかありません。

 私の超低レベルのスキルの中の比較は、指し手の選択肢の大きさそのもので、それはその後、人工知能相手に対戦して、チェスは早々にコンピュータが連勝するようになったのに対して、将棋はなかなかで、碁に至っては人間の方にまだまだ分があることでもわかります。劇中で、「一旦始まるとコマの動かし方は数百億のパターンがあり、それに人間の脳で対峙しなくてはならない、精神を壊して当たり前のゲームだ」とチェスのことを言っている元チャンピオンの神父がいますが、それを言ったら、プロの碁打ちは全員発狂ものだと思います。チェスが馬鹿に簡単などと言っているのではなく、単純に選択肢の広さで言うなら、将棋や碁の方が遥かに複雑であるのは間違いないということです。

 面白いことに、映画終盤で、ボビー・フィッシャーは「皆は選択肢がたくさんあると言うが、そんなことはない。チェスのどの場面でも、選ぶべき手は一手のみだ。それを選び続けるだけだ」と言っています。映画では彼の偏執的狂気と傲慢がやたらに強調されますが、彼のチェス観は深く掘り下げられていないように思えました。凡人が観るチェス、プロが観るチェス、そして、ボビー・フィッシャーが観るチェスは何が違うのかが、今一つ描き切れていないままに、映画はどんどん彼の狂気と当時の米国の社会風潮を描いていきます。

 彼は子供の頃から深い没入感を好んでいたようです。一人っ子で育ち、一人で遊ぶことに子供の頃から慣れると、大なり小なりこのような特性を持つ人間ができるものと、私は思っていて、この状態を「一人っ子型ゾーン」と呼んだりしています。このゾーンに入ると、周囲の音や気配に鋭敏になることが多く、ボビー・フィッシャーの場合は特に周囲の音や匂い、振動などに敏感で、ゾーンがそれらによって妨害されると激昂するのが常であったようです。

(ちなみに、ボビー・フィッシャーには年の離れた姉がいますが、早くから子供に興味をなくしていた母に代わって彼を気遣っていたのは姉の方で、事実上、母代りと言う位置付けだったようです。)

 劇中で観る限り、母と父は早くに別れ、母は当時の政治活動に熱を上げており、当局からも監視されていた人物でした。幼いボビーが「家の外に黒い車が止まっていて、中の男の人がずっとこっちを見ている」などと母に告げると、母はボビーに「悪い人がいつも私たちを監視していて、何かを尋ねてくるかもしれないけれども、そんなときは「答えることは何もない」ときちんというのよ」などと答えています。これがトラウマとなってその後のボビーの一生を陰謀説の世界に叩き込みます。

 ソ連とのチェスの対戦地に赴いた際にも、「電話が盗聴されている」、「KGBが俺の載る飛行機を爆破する」などと常に妄想に苛まれています。さらに対戦中にあっては、周囲の音が自分だけやたら気になるのを、「陰謀だ」、「妨害だ」と一々論っては、「フェアじゃないので降りる」と対戦の場を放置して去るのでした。たとえば、当時のカメラのフィルムのリールが回る音や、観衆の咳払いなどを聞くごとに、「フェアじゃない」とがなり立てては、「世界一のチェスプレイヤーが俺であることが明らかなので、それを妨害して何とか陥れようとしているのだ」と騒ぎ立てます。

 確かに才能はあるのだと思いますし、現実にすべての妨害音を避けるために会場の施設の地下にある卓球室で、彼の要求した対戦をするようになってから、目覚ましい手を打ち続け、記録に残る勝利を何度も納めています。それはそうなのですが、科学者がなりふり構わず研究する…と言うのであればまだしも、相手が目の前にいる明確な勝負の場の話です。最低限の雑音が入るのは対戦者も同じで、同一条件の中で勝てないなら、それは「弱い」と言うことであろうと日本人なら考えやすいのではないかと思えてなりません。

 冬季オリンピックの種目の幾つかで日本に不利なルール変更が何度も為されていると言います。それをメディアでもネットでも、「不利だ」、「不利だ」と書き立てますし、選手本人たちは間違いなくその不利を十分わかっていることでしょう。それでも、そのルールに他国の選手も従う以上は、それに異議を唱えることはしないでしょうし、まして、その場から「フェアじゃないから降りる」と立ち去ることはしないものと思います。

 ボビー・フィッシャーがチェスの場でソ連と戦うことが、冷戦の代理戦争のように捉えられ、衆目が瞠目する対戦となり、当時のアイゼンハワー大統領までも、またぞろ因縁をつけて試合放棄をしているボビーを説得するための電話をかけてくる状態になりました。そんな中、時の人、ボビーについて街頭インタビューをすると、「最高の人物だ。私たちの誇りだ」「愛してる(、抱かれたい)」が出てくる反面、「傲慢だ」と言う非難の声も出ていました。しかし、どうもそれは少数派であるように思えます。才能ある者の傲慢や非社会性を野放図に受け入れるべきこととしてしまう国民性には辟易させられます。

 陰謀説を奉じ、自分を「陰謀と戦い、陰謀に苛まれながらチェスと言う場で真実を追求する戦士」に見立てたボビー・フィッシャーは、世界チャンピオンになった後も、どんどん精神状態を悪化させ、とうとう公の場から完全に姿を消します。

 映画のメインストーリーは世界チャンピオンの勝利に沸く米国の60年代の粗いレトロな画像の積み重ねで締め括られ、その後、老人となった本物のボビー・フィッシャーの記録を断片的に紹介して終わります。結果的に、彼の傲慢を直視せずに祭り上げた母国からも見捨てられ、事実上の亡命の地で生涯を閉じるのでした。

 ボビー・フィッシャーのソ連チャンピオンとの戦いは歴史に残る名勝負だと言われ、試合放棄から復帰した第3局以降、次々と前代未聞の戦法を編み出し勝利したとされています。将棋でもあるような戦術パターンが当然チェスでもあるようで、それを無視した未曾有の戦いに相手を引きずり込み、先の「選ぶべき一手を見据える」ことができるボビーが勝ち抜けると言う天才性を発揮した勝負だったようです。

 米国留学時代に成績が良かった私は、良くも悪くも留学生の中で注目されていて、チェス好きで知られる教授から「一度やろう」と誘われたことがあります。私は有名戦術パターンを全く知らなかったので、ゼロから考え、「波型防衛線」と名付けた戦法に打って出てみました。その時に私が言ったのは、「一度だけなら勝てるのではないかと思う」でした。予想通り、「見たことのない戦法だ。これを攻略するパターンなど聞いたことがない。これは日本では有名なやり方なのか」と一分に一度ぐらいの頻度で教授は繰り返し、あっさり勝つことができました。私はその後二度とチェスをその教授としませんでした。

 将棋や碁よりも遥かに選択肢の限られているチェスで定番の戦術はかなり明確なものだと思います。それをプレーヤーがマスターし、それを膨大な練習で練磨し、その枠の中でぶつかり合うのが、多分、ボビー以外の主だったチェス・プレーヤーのチェス観だったのだと思われます。その意味でのボビーの天才性はもちろん認めますが、その優れた点が他のどのような欠点をも補い得ると考える、劇中に描かれている世界には、本当にうんざりさせられます。チェスを彼から取ったら、ただの超絶コミュ障の素人童貞陰謀説オタクに過ぎないのです。(劇中で宿泊先のホテルにいた売春婦と初めてセックスをするシーンがありますが、その後、何らかの女性と展開があるような場面は一切ありません。)

 そのとんでもなく鬱陶しいオタクを演じているのが、私の好きな古い方のスパイダーマン・シリーズの主人公であるところが、実は観に行った動機に含まれています。やはり芸達者な人だと思いました。心から鬱陶しさを堪能させる演技です。対するソ連のチャンピオンは、ウルヴァリンの兄貴、ソルトのスパイの「兄弟」を演じたあの兄貴好き男です。ここでも頼れるナイスガイ的な役どころをきっちり演じてくれて安心してみていられます。この物語は、安心してみていられるほどに高品質な「傲慢な素人童貞とそれに阿る人々の物語」なのです。よくできているのですが、その不愉快感故にDVDは要らないものと思います。

追記:
 一点不思議なことがあります。音が気になる!陰謀だ!妨害だ!と喚きたてたボビーの言い分を聞いて、静寂が担保される卓球室の勝負が始まりました。負け始めたソ連のチャンピンが、突如、自分の椅子が振動していて気になると騒ぎ始めます。今まで劇中で描かれた中では、一度もそんなことがなかったのにです。そしてボビーはそのようなことが気になっていないようでした。さらに、その後、勝負は比較的早い局のうちから、また観衆が見守る講堂のようなところに戻されて、その後問題なく進められているようなのです。
 このような状況を見ると、チェスのプロ選手は負けそうになると、「妨害だ!」と言い募るものであり、気分がよければ、実は何も気にならない…と言う仮説が成立します。
 最近読んだ、信奉者の多い中村天風の本には、人間が幸福に生きるのに必要な力は6つの種類があるとされていて、その中の一つが「胆力」で、「たとえ何が起こっても動ずることのない心の安定と落ち着いた度胸」とされています。道理で、ボビーも対戦者もおかしくなり不幸な生活を送る訳です。