11月末の封切から一週間少々。新宿ピカデリーの火曜日の午前中の回を観て来ました。かなり頑張って早起きし、9時20分の開始時間にロビーに入ると、朝の幾つかの上映が数分単位の時間差で始まりつつありました。ほぼオープン時間と言っていい時間のこの映画館のロビーなどの様子を見るのは久々です。
晴れた平日の午前、どれぐらい混んでいるのかと思えば、男性は私を含めてたった6人。女性は2人と言う少なさでした。私はこの作品のタイトルの奇抜さにまずは引き込まれて観に来ましたが、どうも他の方々には、このタイトルのインパクトはあまりなかったのかもしれません。
持ってまわったタイトルの言い回しは、演劇っぽいと感じて解説を見ると、やはり、『キング・オブ・心中』と言う舞台モノの原作でした。私は芝居が原作の映画が、結構好きです。『サマータイムマシン・ブルース』はその最たるものですし、本谷有希子による、『乱暴と待機』や『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』など、そのような作品はたくさんあげられます。ただ、演劇の表現に縛られてしまっているように見えて、面白さが削がれた感じがした『愛のゆくえ(仮)』なども存在しますので、演劇からの転作を必ずしも無条件に礼賛している訳でもありません。
舞台作品が原作と分かって関心が湧き、さらに…
「とある郊外の住宅街で、一組の幸せそうな夫婦がカレー屋の開店を明日に控えて準備に追われていた。そこへ、集まってくる男共の多くは、妻あさこの不倫相手だった。平凡な主婦の顔を持ちながら男たちを惑わすあさこは、世界を救うために驚愕の行動に打って出る」と言ったストーリー解説を読むと、さらに関心が高まりました。
映画を観てみると、あさこはどんな考えを持っているのかが、徐々に表出してきます。偶然ですが、最近読んでいた『恋愛しない若者たち』に、「現代は、若者の恋愛観において、恋愛・セックス・結婚が分離した時代」と表現されていたと記憶していたことが、この映画の理解を非常に深めてくれました。
この映画をその定義に従ってみると、主人公のあさこは真正恋愛至上主義です。恋愛関係と言う人間同士の関係性の観点ではなく、男女間の恋愛感情を意味している「恋愛」のことです。恋愛によって、多幸感や「世界が変わる(ことが感じられるような価値観の変化)」が極力多く得られることが善なので、目の前の誰とでもキスをし、その都度本気に恋愛をします。当然セックスに至ることも多々あります。結婚していても、誰とでもそのようになるので、事実上、何股もかけた不倫状態になります。
それに対して、出てくる男たちは夫も含め基本的に恋愛とセックスと結婚(ないしは恋愛相手を束縛する関係)はすべて重なっている旧型の価値観の持ち主です。愛を交わしたあさこが誰を選ぶのか、誰と一緒であるのが幸せなのかを、或る時は暴力で、或る時は理屈で、さらに或る時は情で主張し合うことに終始しています。そして、あさこに対しては、自分以外の男との恋愛もセックスも気の迷いであり、自分とのものが本物であったと認めるよう迫ります。
あさこにとっては、どれも真剣なもので、人間にとって必須の癒しであり成長であり充足であるのが恋愛でありセックスです。特定の誰かとの関係に縛られるものではありませんでした。
そして、自分が関わってきた男達の狭量な恋愛観に失望し、「愛を馬鹿にしている。愛を分かっていない男たちを愛に目覚めさせる」ことを決意し、変に馴れ合い、ともにあさこを理解できず呆然とする男たちを尻目に、突如出奔し、郊外の住宅街の路上無差別キス魔となって、ありとあらゆる男達を襲い始めるのでした。曰く、「私は美人の方だ。そんな私とキスをすれば、世の中が変わり、愛が分かるようになる」のだそうです。
たった73分の作品のラスト15分ほどがあさこの暴走を描くクライマックスです。それまでの間は、急激にエスカレートしていく男達の諍いの中で、誰を愛しているかはっきりするように迫られるたびに、あさこの本質が徐々ににじみ出てくる構造になっています。あさこの本質を大型ホオジロザメにたとえるなら、ジョーズと同じような構成に見える映画です。
あさこの暴走には、インパクトがあります。普段着で「うぉぉぉぉ」と叫びながら住宅街を駆け抜け、最初は自転車に乗る新聞配達の若い男の胸にいきなり飛び蹴りを食らわせます。倒れこんだ男の頭を抱き寄せ、いきなりキスをします。そこそこ濃密なキスです。そして、「気分は?」と尋ね、愛を知ったことを確認します。
圧巻は、タイトルのままのセリフに至るまでの場面です。二人目の犠牲者の後、河原の土手の上をランニングする運動部系の三人の男めがけて、あさこが土手を再び「うぉぉぉぉ」と駆け上がり、抱きつこうとすると、するりと躱され、土手の反対側斜面にあさこは転がり落ちてしまいます。飛びつかれそうになった一人が、斜面を下りて倒れているあさこを介抱しようとすると、突如あさこがキスを迫ってきます。男は柔道の投げ技のような感じで、あさこを突き放します。そして、「なんなんだ。変態!」とあさこを詰ります。
すると、あさこは不敵に笑いながら立ち上がり、「こんなご時世。愛を語れば変態ですか」とドスの効いた声で言うのでした。そこには、映画冒頭の髪をポニーテイルに結わえ、エプロン姿のはにかみ甘えた若妻の気配は全く残っていません。寧ろ、オニババか悪鬼と言ったオーラが放射されています。その男に組み付き、抱きついた状態で、男の膝を折り、ねっとりしたキスを決めます。
面白いです。笑えます。私はこの15分程度の暴走シーンがとても気に入りました。正直、暴走に至るまでの男達の無様さは目に余ります。ウンザリ感が極まった辺りで、ドーンとこのあさこの狂気のシーンに至るので、或る種のカタルシスも伴って、余計このシーンが楽しいのだと思います。
狙っているのかどうかよく分かりませんが、前半の男共の見苦しさはハンパではありません。なぜあさこの言う価値観を理解できないままに、あさこに対する独占欲だけをたぎらせていくのかが私には理解しかねます。本当にあさこがいい女だと確信できるなら、あさこの価値観を受け入れることで自分もあさこにとって大切な人間になるべきであろうと思います。あさこがただセックスで盛り上がった相手であったというだけなら、逆に他の男の存在があってもなくても、その関係性を捨ててしまってもよいでしょう。いずれせよ、あさこの意志や考えを理解しようともせず、ただ独占欲をぶつけ合い、結果的にあさこを人形か奴隷のようにしか認識していない精神構造があからさまになり、醜態を晒し続けるのです。
私はあさこの言う「愛は世界を変える」に或る程度共感できます。行きずりのキス一発で、あさこが言うほどの変化が起きるとは思えませんが、行きずりのセックスでなら十分あり得るように思うからです。好きになった男が自分を大切に愛してくれるセックスで女性は最高に感じると言います。これを額面通り受け止めて、「本当に好きな人と…」と言うことにこだわる女性もいまだ多いものと思いますが、実際にはそうではないと私は思っています。
女性のセックスの悦楽を追求することに半生を費やした偉大なAV監督、代々木忠監督の言葉に従って、女性が「身も心も相手の男性に明け渡して、自分をさらけ出したセックス」を行なうと、自分と相手との境界も、自分とその世界全部との境界も、溶けてなくなり、悦楽がただただ広がる世界に身を投げ出せると、出演者のAV女優が一様に語っています。そのような女性の只ならぬ様子が、代々木忠監督の数多の作品の中に記録されています。そこに仕組まれた演技はなく、その場で起きたことを克明に記録した作品群であることが業界の内外で知られています。
当然、AV女優が、元々好きな男優とだけセックスを重ねる訳ではありません。たまさか、「自分が好きになった人」には「身も心も明け渡せる」が故に、究極の悦楽が訪れるのであって、「身も心も明け渡せる」なら、どんな男とのセックスでも究極の悦楽が訪れるというのが本当だと、求道者のように代々木監督は言っています。
現実に、明治に西欧のセックス観が広く社会に普及させられるまでは、平安時代から江戸時代に至る間の記録に残る限り、夜這いの習慣などに見られるように、交際と言う形の恋愛関係さえ伴わないセックスが自由に大らかに為されていたのは間違いないことです。そのように考えると、「愛」にうまいことすり返られてしまっていますが、あさこの言う「愛を馬鹿にしている。愛を分かっていない男たちを愛に目覚めさせる」と言う考えは、実際には「セックスを馬鹿にしている男たち」だと考えるべきだと私は思います。面白い映画です。「こんなご時世。愛を語れば変態ですか」は記憶に残る名台詞だと思います。あさこが暴走を始めてからの部分を何度も観てみたくなりそうなので、DVDは勿論買いです。
追記:
映画サイトやパンフレットの写真で見ると、あまり似ていないのですが、映画で観ていると、あさこを演じる黒川芽以と言う女優が、有村千佳に見えることが頻繁にありました。アングルによる顔の雰囲気や声がとても似ているのだと思います。長台詞もかなりこなせるAV女優さんだったので、もう引退してしまっていますが、この作品のアダルト版があったら、彼女が主演を務められたのではないかと思えます。