『赤い玉、』

 今月は見ている映画が少ないなぁと、映画のサイトの現在の上映作品をタラタラと見ていたら、目に留まり、観に行ってみようかと思い立ちました。「シルバー・ウィーク」(「ゴールデン・ウィーク」に対応して名づけられていると言う話ですが、もしそうなら、「シルバリー・ウィーク」でなくてはならないと思います。)明けの木曜日の夜。午後9時からの回を新宿の靖国通り沿いの映画館で観て来ました。

 封切から二週間弱。終わりは遅く雨脚は激しくなってきているとは言え、11時頃の終了ですから、終電が気になる時間ではありません。それでも、一日二回の上映で、観客は全部で20名少々しか居ませんでした。劇場はかなり大きく、ネットで見ると200席以上あります。とても閑散とした感じでした。ポスターを見ると、二三日に一度は何かのトークイベントがあるらしく、この日は、そのイベントの谷間であったせいで、動員が振るわなかったのかもしれません。

 20名程度の観客は、私以上の年齢の男性が過半数であるように見えました。ぱらぱらと見つけられる女性は、男性以上に年齢幅が広いように感じました。

 私がこの映画に関心を持った理由は、映画サイトの紹介にあった「人生の半ばを過ぎて“老い”と“性”の間で葛藤する男の姿をエロティックな描写と共に綴ったドラマ」と言う紹介です。クライアント企業には、アダルト・グッズの日本最大級のメーカーが存在しますが、この業界のターゲットの一つは、高齢者です。そのような関心に上乗せして、以前観た『娚の一生』でもトヨエツが、“枯れた男の魅力”を初めて演じたと言い、そのモテる渋い中高年の在りようは一応観る価値はあったと思っています。なので、今度は、トヨエツ並みに女性関係の噂が絶えない(と聞く)奥田瑛二の「枯れた男の魅力」を見てみようかと思った次第です。

 観てみると、色々な意味で「これじゃない感」が満載の作品でした。主人公は元映画監督と呼んだほうが良いぐらい久しく作品を撮っていず、今は美大か何かで映画制作を教えている男です。この男が、大学の教務課と思しき部署の事務の女性の一人と同棲していて、部屋に篭ってセックスらしきことばかりしています。「セックスらしきこと」と言うのは、(錠剤の外観からはバイアグラに見える)ED薬を飲んでも勃起しないことが多いことによります。勃起しても、大抵女性の騎上位で「マグロ状態」と本人が言っています。

 そんな主人公は、時々映画の制作会社から呼ばれ、若い社員から「先生、『新渡戸稲造物語』どうですか。ぐっと来ませんか」などと、煽てられて仕事を依頼されているのに、「いまさら、他人の人生なんか、やっている余裕無いんだよ」などと横柄に拒絶し、「自分の立場を分かれよ」と陰口を叩かれています。

 そんな彼が、何がエロいのかよく分からない印象と所作の女子高生に心惹かれ、付回しつつ妄想を重ね、それを台本にまとめ始めます。一応、この女子高生のエロさがこの映画の売りの一つであると、映画館の壁に貼られた雑誌記事などにも書かれているのですが、全くそのように見えません。エロいポール・ダンス風に見える踊りを延々スタジオで踊っているシーンがありますが、あまりに付け焼刃の踊りであるのと、艶かしさが欠落していて、欠伸が出る感じなのです。

 この女子高生に入れ込む傍ら、自分の古い作品もキッチリ観込んでいる自分の教え子の女子大生が、授業の濡れ場の撮影実習に飽き足らず、本当のセックス表現を求めて、「彼氏になってくれ」などと迫って来る一方で、女子高生への入れ込みに気づいた大学事務員には別離を申し渡されてしまいます。

 仕方なく、女子高生を追い回していると、援助交際でホテルに入っている所を見つけて衝撃を受けます。ホテルから出てきた彼女に思わず詰め寄ると、「ああ、いつも付回している人ですね。一回7万円です。高いですか」などと冷静に言い渡されます。7万円を払ってホテルに行きますが、ED薬を飲んでも勃起せず、事に至れません。すると、「それなら、お仕置きせなあきまへんなぁ」と(京都が舞台ですが)突如女子高生は京都弁で彼のローブを脱がし、陰茎にビンタを何度も張るのでした。

“男が打ち止めになると、陰茎の先から赤い玉が出る”と言う都市伝説的な話があり、それがこの映画のタイトルなのですが、ビンタで陰茎の先から出血した結果、彼も“赤い玉”がでたことになりました。多分、邦画で私が一番好きな映画を挙げろと言われたら、『海と毒薬』です。その主人公であった奥田瑛二が、インタビューなどでも散々思い入れを語るぐらいに乗って表現した“老いと性”が、こんな話で、ただただ止め処なくだらしなく崩れた状態が続くのかと、がっかりさせられます。

 彼が仕上げた台本は、まさにこの映画、『赤い玉、』で、醜さにもなりきれない中途半端な“老いと性”についての私小説的な話です。それが(実際には、「映画になりそうです」と後刻メールが来ますが)映画になりそうにないと知ると、「映画を教えられなくなったから教師失格だ。女子高生を買ったから、人間も失格だ。だから、今日で大学を辞める」と学生達に告げて教室を去ります。実際には、「女子高生に現を抜かしてしまって、大人の女の愛人も失格だ」も加えられるべきです。

 彼は京都のはずれの小さな茶屋のような店に、妻と娘を残して生きていたことが突如劇中で判明します。店に行くと、入口にいた娘から「母さんには会わないで帰ってくれ」と迫られます。「十分とはとても言えないが」と現金が入った封筒を娘に渡して当て所なく去ります。その後、酔って、例の女子高生の幻を追いかけているうちに車に轢き逃げされて落命します。

 大学の教員と言う構図は『娚の一生』のトヨエツとも同じですし、遥か以前の名作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の伊丹十三とも同じです。けれども、全然エロさが醸し出されているようには見えません。家族を捨てて女と同棲している構図なら、(一応同じ創作系の商売ということで括ると)『火宅の人』の緒形拳と比べたくなります。しかし、どうも、身を焼くような業も、否応なく突き付けられる“衰え”への抵抗と焦燥と諦念のようなものが、全然感じ取れないのです。

 監督・脚本の高橋伴明という人物は、ネットで調べてみると、私が結構好きな『逆噴射家族』のプロデューサーを務め、かなり好きな『魚からダイオキシン!!』の原作を書いた人物です。現在は大学で教鞭をとっているという話で、今時の大学生が映画制作の中でエロス描写を避ける傾向にあるのを嘆き、奥田瑛二に一肌脱いでもらって、自分の大学の学生を多数エキストラに使いながら、エロスをテーマにした映画を撮ろうと思い立ったといいます。

 撮影現場で、濡れ場に前張りなしで挑む奥田瑛二の本気を学生に見せられたなどと、語っています。自分の大学教員の立場の妄想をネタにして、劇中での自分にエロスのネタを脚本として成立させる構造の話が、そのままその劇中作品として映画になった、メタ映像作品であるのが、この作品です。しかし、この作品の制作意図を知ると、この映画が、学生向けのテキストで、エロス教材でしかないことに気づかされます。道理で面白くない訳です。ポスターにでかでかと書かれた「みだらに狂ってこそ、映画」の台詞が悪い冗談のように感じられます。

 私はエロスは人間性の多々ある面の一つとして描写されるべきだと思っています。エロス描写から逃げる学生達は、多分、エヴァで言うところの“ヤマアラシのジレンマ”よろしく、傷つけ合いながら距離を詰めるしかない、なんだかんだが溢れかえっている人生からも逃げているのではないかと思います。エロス描写だけを選分けて避けている訳ではないことでしょう。その学生達にエロス描写を教えようと、前張りなしで奮闘するプロ男優を見せる教科書を作る…という発想そのものが単純すぎます。

 当然ですが、DVDは全く必要ありません。