『夫婦フーフー日記』

 5月末の公開から既に一ヶ月以上の水曜日。終電間近、23:40の終了の回を新宿ピカデリーで観てきました。既に都内では新宿ピカデリー一館。それも一日に一回の上映。最近の作品であまり告知されていない中では、かなり人気を保っている映画だと思います。

 ぐずぐずと続く梅雨の中、20人程度の観客がいて、客層は20代後半から40代前半と見える女性が多いようでした。水曜日の女性逆差別割引のためであろうと思います。男性客は平均年齢が女性よりも高く、私も必ずしも上の方ではなかったように思います。

 17年単に友人として付き合ってきた、書店店員の女性と作家を目指す音楽雑誌編集者。その二人が37歳にして結婚すると、すぐに子供ができ、その子供の妊娠中に、妻の直腸がんが発見される。そして、それは末期がんと分かり転移がどんどん広がり、出産を無事終えて数ヶ月で亡くなってしまう。それをまとめたブログが『がんフーフー日記』で、それが書籍となり、そして今回の映画となったと言う話です。

 物語は妻が亡くなった後から始まります。妻は夫にだけ見える幽霊として常に夫のそばにいて、ブログの書籍化や全く慣れない子育てに苦労する夫を鼓舞し続ける。そして、夫と幽霊の妻はブログの原稿を読み返す中、過去の自分達の在りし日々を時系列に振りかえっていく…、と言う形で物語は展開します。

 死んだ人間が主人公だけに見えると言う設定は、非常によくあります。そして、練られたプロットで感動だったり、笑いだったりをきっちり用意する作品も少なくありません。たとえば、前者なら、(正確には「死んだと思われていた人物の記憶の映像化したもの」が出てきていたのですが)『幻肢』はクオリティの高い名作だったと思っています。

 他にも『黄泉がえり』や『ふたり』など、名作だけ上げてもきりがありません。
※『黄泉がえり』は蘇った人が誰にでも見える状態になっています。

 そのような類似設定の映画が山ほどある中で、この映画の幽霊には悲壮感が全くありません。一方で、何か幽霊に拠って明らかになる新事実や驚きがある訳でもありません。 かと言って、笑えることがあるかと言えば、夫婦の情愛に基づいて、しみじみと描かれてはいるものの、特に大受けのコメディでもない。どうも中途半端な物語に見えます。

 妻は福島の出身で、(当然、3.11以前の話ですので原発系の話は登場しません)今時あまり見ないような、親戚づきあいや旧友との関係性がそこに見出せます。夫の方は広島出身ですが、広島の両親だけが登場する形ではあるものの、やはり、頻繁に孫の面倒を見る役を買って出たりしています。ほのぼのしています。けれどもそれだけなのです。

 たとえば、残されたほんの短い時間を毅然と生きる人を描いた映画を考えると、孤高と言っても良いぐらいにダントツに優れた名画があります。『エンディングノート』です。ここには笑いもあれば、死に行く人の生き残る人々への深い愛情もあり、病魔自体からの苦悩もあれば、否応ない理不尽な別離の苦悩も、すべて濃厚に詰められていて、生きる者すべてに生きることのこの上ない価値を捻じ込んで来る描写があります。

 多分、この作品の妻が過ごした最後の日々は、本来『エンディングノート』のそれのようになっていたものと思います。ところが、夫の残したブログの文章は、文章それ自体も薄っぺらい上に、捉えるべき瞬間を逃してばかりで、来し方を見返している最中の妻の幽霊から、「ここを書けよ!」と生きている夫が詰られるシーンさえ何度もあるぐらいなのです。

 私がこの映画を観に行ったのは、当然、永作博美一点狙いです。予想を裏切らず、永作博美の名演技が光っています。しかし、光り過ぎて空回りしているのです。

 永作博美が出た作品で、劇場で観た中では、『蛇のひと』、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』や『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』など。そして、DVDで観た『八日目の蝉』は大当たり、『四十九日のレシピ』も二階堂ふみの常識破りの展開が永作博美の存在できちんと枠の中に収束しているように見えました。どれも或る意味極端な設定のストーリーです。その極端さを極端に見えなくなるぐらいに中和してしまうのが永作博美の演技力による「普通さ」なのだと私は思っています。

 それに対して、この作品も、『脇役物語』も『人のセックスを笑うな』もどこかマイルドで中途半端な作品のように感じます。こちらのグループの作品ではDVDで観た『気球クラブ、その後』もそうですが、どうも、永作博美が活きないのです。

 佐々木蔵之介は、やはり私にとっては『サマータイムマシン・ブルース』です。『超高速!参勤交代』もちょっと思い出す程度で、あまり印象にありません。印象にないのは或る意味名脇役の特長なのかもしれませんが、今回のような主役級だとかなり苦しい気がします。

 この映画を観てみて、本来のストーリーや設定とは無関係の所で楽しめたことがあります。この夫婦二人は、文系夫婦な訳ですが、その読んだ作品群がかなり共感できるのです。夫婦二人が同居を始めて、本が本棚に収まらず、互いに「●●なんて、もういらないだろ!」と互いの好きな著者を名指しし合います。最後に妻が夫の漫画に言及し、「永井豪なんていらないだろ」と言いだすと、夫はそれまで以上に猛然と自分の本を守ろうとするのでした。

 夫婦の何げない会話を始め、劇中には、その時代を分かっていないと楽しめない要素がたくさん鏤めてあります。死期が迫って、家族がそれを意識し、本人を前にそれを語れるようになった時、福島に住む妻の弟は、「ねーちゃん。死ぬんじゃねぇよ。『トイ・ストーリー 』の新作がもうすぐ出んだぞ。話が完結する感動の話だぞ。それ見ねぇで死ねるってか」と言います。病床の周りの家族全員が「もう止めろ」と制止する中、妻の永作博美は、「みっでぇなぁあ」と呻くように言うのでした。

 そして、東京のマンションを引き払い、死を迎えるために福島へ去る当日。その場面を振り返る幽霊の妻は、福島に向かう自分が乗った車を見送りながら、「無限の彼方へ!」と両腕を羽のように突き出すのでした。バズの有名な台詞です。

 がら空きの深夜バスに乗った夫の横の座席で幽霊の妻が、「もう、この際だから、本当のこと言っちゃうね。実は、死んだのは私じゃなくて、こうちゃん(夫)の方。だから、私が時々見えなくなっちゃうの」と言い出す場面まであります。私も内心「はあ。ここに来て、『リアル 完全なる首長竜の日』と同じ展開かよ!」と驚愕したら、実はそれは幽霊の妻の冗談でした。夫も劇中で「『シックス・センス』かよ!」と突っ込んでいました。メジャーさは兎も角、夫婦間の死者・生者の関係の逆転という意味では私の方が、突っ込みが正確だったので、「してやったり感」がかなり湧きました。

 こんな細かい仕込みが各所に鏤められているのに、その一覧を期待して買ったパンフにはこのようなトリヴィアの「ト」の字も書かれていませんでした。勿体無いことだと思います。

 亡くなった人が残された人に見えるのかどうかは別として、その存在が在った頃の行動や思考のパターンが、残された者の中に長く維持されて、亡くなった人がまだいるかのように考え、振る舞うことはよくあることだと思います。

 この映画の幽霊の設定の一つの魅力は、時々消えては出てくる妻の幽霊の出没の基準がどこでも説明されてないままに、目立つ特撮手法もなくそのまんまの永作博美が演じているのにもかかわらず、どこか危うげで、次に消えれば二度と会えない切なさが常に漂っていることです。

 それはまるで、総ての生者の実態は実はその周囲の人々の記憶の中に存在していると言う、私の大好きな構造主義的人生観の表現のようでした。面白いは趣向は色々凝らしてあるのですが、ウェハースを食べているような歯応えの無さは否めません。それでも、そのほんのりした甘さと永作博美見たさ故にDVDはギリギリ買いです。