『チャッピー』

 日曜日の終了時刻が終電時間にかかる夜9時50分の回を新宿のピカデリーで観てきました。封切から既にまるまる3週間。それでも、ピカデリーでは多分一日三回か四回の上映をしていたはずです。

 上映開始時間30分ほど前の、カウンタで席を決めた際には、10人少々しかいなかったはずの観客は、私が最後列の席についてみると、トレーラーの上映が続く中でどんどん膨れ上がり、最終的には30人以上になっていたように思います。客層は概ね若い層が多く、性別の組み合わせを問わない若者二人連れが多かったように思います。

 この映画を観に行くのを楽しみにしていました。それほど大々的に告知されているような認識もありませんでしたが、上映館が関東だけでも三桁の配給状況から、かなりの人気で、混雑しているものと思い、後回しにしていました。実際、封切からまるまる三週間の終電時間の上映でさえ、30人を集めるのですから、かなりの人気であることが分かります。かなりの人気はわかるのですが、何によってこの人気が構成されているのかがよくわからないままです。少なくとも、私が「『チャッピー』を観に行く」と告げた周囲のまあまあ映画の話題をよく口にする数人の人々は全員この映画の存在を知りませんでした。

 私がこの映画を観に行った理由は、『第9地区』の映画監督がまたもや南アフリカのヨハネスブルグを舞台に描く近未来SFという一点に尽きます。『第9地区』はよくできたSFでした。それはSFの形を借りた人間が歴史上拭うことのできなかった差別意識を見る者に突き付ける名作でした。華々しさもなく、グロいシーンはかなり多く、「モビル・スーツっぽいマシンが出てくる」などの頓珍漢な見所も、私には殆どどうでも良いものでした。アパルトヘイトが蔓延していたはずの街を舞台に、黒人を描くことなく、社会差別の現実を描いた映画として、私には印象に残っています。

『第9地区』は、近々続編が出るという噂があり、まんまですが『第10地区』であるという話でした。その作品はいつまで経っても現れなかったので、今回の『チャッピー』が、せめて多少なりとも、世界観やストーリーなどを受け継いでいるのかと期待していました。結論から言うと、世界観はまあ同じですが、全く接続性のない映画でした。

 この手の人工知能を持ったロボットの受難や悲哀の物語が出ると、パンフには、西欧人はほぼ必ず『ピノキオ』に準えたコメントを書き、日本人の数人に一人は『鉄腕アトム』を思い出すと言い出します。私はどちらもそれほどの思い入れがなく、この手のクリシェを見るとうんざり来ます。そして『チャッピー』のパンフやチラシもその例外ではありませんでした。

 よく見てみると、創造者である科学者から強奪だの悪辣な犯罪行為はダメだと言われた言いつけに(最後には自分の命を維持するために苦渋の決断で破戒に至りますが)かなり従順です。その結果、チャッピーの育ての親のチンピラどもはチャッピーに襲撃をさせるために、かなり色々と認識の置換をしなければならなくなります。車の強奪の際には、「パパの車を盗んだ悪人から車を取り返すんだ。悪人を懲らしめなくてはダメだ」ということにされていますし、「銃で人を撃たない」と頑として譲らないチャッピーに、「じゃあ、これで、悪人を眠らせてやるだけでいいんだ。奴らは本当は眠りたがっているんだ」と手裏剣のようなものを渡します。この構造は『鉄腕アトム』などより、寧ろ不完全な良心回路を備えたキカイダーに近いように感じました。

 手裏剣を完璧なヒット率で投げるチャッピーの姿は、なかなか見入るものがありますが、そのたびに「ねんねしな!」と(残念ながら英語表現が聞き取れなかった)セリフが字幕に出るのには、少々笑えました。

 チャッピーは人工知能をインストールされ、赤ん坊の状態から“成長”が始まりますが、スクラップのボディを使ったため、バッテリーの交換が不可能で、寿命が最初から5日間しかない実験体として誕生します。「ねんねしな!」は確かに幼児レベルの知能のチャッピーには適訳なのですが、逆に、映画評で“驚くべきスピードで成長する”などと書かれている学習能力は、これだけの時間をかけてもこの程度なのかと思わされます。(『寄生獣』のミギーを見習ってほしいものです。)

 正直、チャッピーは日本人ウケするような可愛らしさが全くありません。それでも、あのルックスで、あの魅力的とも思えない声で、じわじわと愛嬌を感じるようになるのは、学習プロセスをそれなりに丁寧に描いた演出の成果なのかなと思いました。舞台設定以外の『第9地区』との最大の共通点は、もしかすると、日本人感覚で可愛らしさを感じられないキャラに多少の愛着を湧かせる展開かもしれません。

 ウルヴァリンを降りるだの降りないだの揉めているという報道を先日見た、ヒュー・ジャックマンも典型的な憎まれキャラを嬉々として演じているように見えて、頭に貼り付いたようなチャパツの変な髪形も、見てるうちに慣れてきます。最後には、オフィスの中で追い回してくるチャッピーにさんざんどつき回されて、「この腕が悪いのか!」と腕をへし折られたりして、ズタボロにされます。

 右往左往するシガーニ・ウィーバーも、既に十八番になった欲得尽くの女上司役を完璧に披露してくれます。『第9地区』に比べて、脇役は危うさがなく、グロいシーンもほぼなく、おまけに、(映画評にあるほどの「泣かし」要素は感じませんでしたが)感動のヒューマン・ストーリー的な結末で、よくできていると思いました。

 結末を支えるのは、人間も機械も関係なく、“意識”を移植することのできる技術で、脳神経の複雑なプログラミングの集積を“意識”として捕捉できるようになった結果と理解しました。それはそれでOKなのですが、人間と機械の入れ物間の移動ではなく、どうせクラウドの時代ですから、『攻殻機動隊』や『トランセンデンス』、『her…』の話のように、どこかその辺どこにでも存在する人格ということにしてしまったらどうかと思えました。しかし、それをやれば、今後出てくるSFで似たシチュエーションがあれば、皆それをやることが当然になってしまいます。敢えて人間と機械の相互交換の可能性を作ったところにとどめていた方が、話としてはよいのかもしれません。何にせよ、限界の中で行われる点にこそ優れた可能性は生まれるのは本当だと思いますので。

「おおっ」と叫ぶほどの感激はありませんが、間違いなく好感が持てる作品です。DVDは買いです。