GW真っ只中の土曜日。午後二時過ぎからの回を娘と二人で、小樽市東部にある商業施設の映画館で観てきました。北海道ではたった9館でしか上映されていません。封切からまだ一週間経っていない状況で、一日5回もの上映がなされています。どれぐらいの人入りかと思っていたら、50人弱は観客がいたように思います。ロビーは珍しく相当の混雑でしたが、『寄生獣 完結編』や『シンデレラ』の方が観客が多かったようですし、さらに子供連れや中学生ぐらいまでの層は、『ドラゴンボール』、『名探偵コナン』、『クレヨンしんちゃん』などの作品に大雑把な年齢層別に吸い込まれていったような気がします。
この映画の原作である『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』を私は購入してかなり読み込みました。この手の動機づけモノは仕事に関係が相当あるのですが、あまりにも世の中に溢れすぎていて、ほぼ無条件にスルーするのが当たり前になっています。それでも買うことにしたのは、まずはカバーのみならず、扉ページにまで配された写真のJKのメヂカラによるところが大きいように思います。
勿論、現在は慶應大学を卒業している本人(さやかちゃん)ではなく、石川恋と言うモデルなのですが、現場でイメージ作りに努力したらしく、著者もあとがきで賛辞を贈るほどに当時の「さやかちゃん」にイメージが似ているとのことでした。そして、確かに「こんな子が慶應に受かったら、それは面白いだろうな」と思わせる力が写真から放射されているように感じられるのです。
こうして手に取った書籍の中には、『ドラゴン桜』とはまた異なる、学生一人ひとりに合わせた科目ごとの教育方法がかなり細かく描かれており、中二の娘の高校受験の話を塾の会社の営業担当者から聞かされていたりした背景もあって、関心を持ち買ってみることにしたのでした。読んでみると、末尾には、著者が心掛けているという独自の指導方法のテクニックまで解説されており、仕事面のみならず、最近、趣味と多少の実益でやっている催眠技術にさえ応用できるぐらいの中身の濃さでした。物語も当然一度は読みましたが、寧ろこの指導テクニック集の方を何度か紐解く結果となりました。
こうして、原作をかなり読み込んだ私が、この本の映画化の話を聞いた時には、「はあ、なんだそりゃ」と言う感想しか湧きませんでした。それぐらいに、私には、原作が“物語”ではなく“教育本”だったのです。映画の公開が近づくと、単行本化された原作の表紙は有村架純のものに変わりました。石川恋に比べて、明らかに可愛らしすぎて、イメージが合わず、「なんだよ。ここまでして宣伝すんな」的なネガティブな印象しか持てませんでした。
このイメージは、映画のトレーラーを初めて観てかなり変わりました。確かにグレたギャルとしての有村架純は中途半端ですが、危うげにも目標に挑み、すべてを投げ出して、意地と周囲の支えだけで、苦手だった勉強に打ち込んでいく姿には、有村架純がぴったりなのです。トレーラーだけでも、挫折と再挑戦の連続が十分窺え、そのたびに脱ギャル化していく主人公を描くにはスタートのイメージの合致度はあまり重要な要素ではなかったと認識するに至りました。
これは、最近観た例の『寄生獣』シリーズの深津絵里にも同じことが言えます。前半の作品では、私の好きなキャラ、田宮良子を演じるには深津絵里は線が細すぎました。しかし、完結編の方ではキャラの方が深津絵里に近づくように変化するので、不気味なほどにぴったりになるのです。
現実に本作を見てみると、スタート時点のギャル像には有村架純の配役は明らかに無理がありましたが、その無理感は、映画の中盤に至る前に解消されたのでした。そして、トレーラーの中の有村架純の変化には、「年取ってきて涙腺緩んで来ているのに、これは、完全に泣かされるな…」と確信できるほど、彼女の努力に引き込まれていった周囲の人間の協力と信頼がまとわりついています。
泣かされる映画が好きな訳でもないので、候補作の一つぐらいに考えていたところで、GWに娘と何か映画を観に行こうということになり、他に目ぼしい作品もなく、消去法的にこの映画を観に行くことになりました。そして、やはり、娘と見た中では、過去に『子ぎつねヘレン』を二人で観たとき以来の大泣き作品でした。娘はブラウスの胸元が湿ってぐちゃぐちゃになるほどに泣かされたようです。
「ああちゃん」と呼ばれる彼女の母は、娘の「さやかちゃん」に、「好きなことをしなさい」と言うのが常で、いじめ対応で転校させることや、彼女が可愛くて好きと言った制服の私立女子高に進学させるなど、娘を信じる母として評価できるものの、それが少なくとも「さやかちゃん」にとってプラスになっていない面が幾つも見つかります。
「さやかちゃん」が煙草を持っていることが学校で問題になり、停学になるかの瀬戸際になったとき、中高大の一貫校の進学ルートを辞め、再び「ああちゃん」は(まるでいじめの時の対応のように)「さやかちゃん」に受験による大学進学の道を考えてみようかと持ち掛け、塾の説明会に行くように勧めるのでした。そして、映画のタイトルにある通り、「さやかちゃん」の成績はビリで東西南北が地図のどちら側かもわからないレベルでしたので、このまま仮に大学受験をしていたら、(今時、学費にこだわらなければ、誰でもどこかの大学には入れるので)近所の無名大学にAO入試と言った展開になっていたはずでした。
ここで、「さやかちゃん」を信じる第二の人物が現れます。原作の著者の塾講師、坪田先生です。この坪田先生は決して「さやかちゃん」をクズと見ることなく、常に「さやかちゃん」の努力を引き出し、成果が得られる方向に牽引していくのです。この方向性があって初めて、「ああちゃん」の「さやかちゃん」を支える姿勢も有効なものに変わっていきます。「ああちゃん」の本気度は激烈です。「さやかちゃん」を週六回のコースに通わせるために、定期預金も妹の分の積み立てもすべて取り崩し、親戚などに頭を下げて借金をして塾の費用の頭金を工面し、さらに、深夜まで宅配便の集荷センターのパートを増やすのでした。
そして、学校教師は「さやかちゃん」をクズ呼ばわりし続ける中、がむしゃらに勉強に身を投じている「さやかちゃん」の姿を見て、遊び仲間のJK達も彼女を応援するために、遊ぶのを控えるようになり、彼女をクズと見做して長男の野球人生に没頭していた父親までもが彼女を支えるようになっていくのです。この映画の泣かせるポイントは、「さやかちゃん」の努力そのものの姿ではなく、諦めない周囲の人々や、その姿に感化され、協力を申し出る人々の姿にあるのです。
「さやかちゃん」が歴史の勉強のために渡されたのは、漫画でした。その内容に、「ペリーって黒船でいちいち来やがって、汚くね」と言った感想を持ちつつも「さやかちゃん」はどんどん知ることや学ぶことの楽しさにのめり込んで行きます。こう言った受ける側の知識レベルや関心に合わせた勉強法や啓発法の絶大な効果を私も知っています。私は、高卒で当時の電電公社に入り、二年間給料を貰いつつ、只管勉強するだけになる研修制度に身を置いたことがあります。朝から夕刻まで仕事代わりにびっちりと勉強させられた二年間でした。
三桁に上る科目数を各々数日から数週間の授業でマスターし、試験を受けて合格点をとらねばなりませんでした。教えるのは東大など有名大学からの客員教授でした。どれほど難しいかと思っていましたが、有名校から来た教授ほど、全くイミフな高卒受講者にも分かり易い説明をしてくださいました。
偏微分の先生は、「広くて緩やかなスキー場に目隠しして立っていたとして、どちらに傾斜しているかを知るには、一歩或る方向に前に出てみて戻り、それと90°の方向にまた一歩踏み出してみるってことなんだ」と説明をはじめ、周回積分の先生は、「積分路はパチンコ台にくくった輪ゴムと同じ。釘を超えない限り、どんな風に伸ばしてもいい」と問題を解きながら言ったりします。経済原論の先生は「限界効用逓減の法則は、飲まず食わずに山から出てきた人に、一個々々まんじゅうを食べさせては感想を聞く感じで、簡単にイメージできる」などと言い出すのです。20歳の多感な時期であったこともあると思いますが、私はこの感激を忘れたことがありません。
私がクライアントとするオーナー社長率いる中小零細企業には、一般的に“優れたビジネス能力”を備えた社員などほとんど見当たりません。私は“ドロドロの中小企業”などと言ったりしますし、「アホな社員さんばかり…」などと平然と言うので、上から目線の尊大な態度と思われがちです。しかし、私自身が20歳の頃を振り返ると、とんでもなくアホの極みで、機会を与えてくださった人々なしには今の自分が全く存在していないであろうことをよく知っています。そのように受け止めて戴けるかどうかわかりませんが、私が言う「アホな人々…」は、20代の私のように「知って変わる面白さに飢えた、耕されるのを待つ畑のような人々」と言う意味なのです。
クライアントの社員に、「お客様を知り、お客様を良い方向に「げぇっ」と驚かせることがお客様満足だ」などと言ったりもしますし、それを理解させるために、映画の『幸福のスイッチ』を見せて感想をやり取りすることもあります。そういうことにノリノリで会話できる社員は、あちこちに見つかりますし、どんどんやる気を持って行動を変えていきます。クライアントの経営者から、「よくも、まともに働かないし、本など満足に読まないようなうちの社員を、こんな風に変えてくれたもんだ」と感涙されたことも何度もあります。こんな組織の変化を執拗に求める商売ができるのは、あの時の自分の体験故のことと、自覚しています。
こうした自分自身が原体験として持っている「生かされ感」や「活かされ感」を抉り出し容赦なく鼻先に突き付けてくるところが、この作品の持つ事実の物語の力なのだと思います。
有村架純は、娘によると「テレビをつけるとすぐ何かに出てくる」ほどの人気なのだそうですが、私はそれらを全く知らず、小樽の映画館で同時に上映されていた『ストロボ・エッジ』にも全く関心が湧きません。有村架純と言えば、私には単に『女子ーズ』のヘルメットがやたらに似合うグリーンであり、その正体は全く演技が下手で「森の木B」などと言ったあり得ない端役を宛がわれる劇団員の印象しかありません。
その有村架純が、ツケマを取り、茶髪を止め、髪をバッサリ切り、ジャージ常用に変わっていくと、どうも劇団員「森の木B」にしか見えないぐらいでした。ただ、彼女が体現した直向きさや自分を信じてくれる人々へ報いる信念は、心に深く刺さるのです。
原作にとても忠実に作られているように見える映画ですが、細かく見ると、「さやかちゃん」からの坪田先生への合格の第一報は電話だった筈だとか、「さやかちゃん」をクズと見做し続けてきた学校の先生は裸で校庭を一周してやるという約束を反故にした(映画でもただ裸になっただけですが…)筈だとか、色々と食い違いはあります。
坪田先生が原作で指摘するように、聖徳太子を「せいとく・たこ」と言うデブの女の子と考えたと臆面もなく言うことができ、且つ、父への強烈な反撥と母の献身に報いることを自分の動機づけとしていると、大っぴらに言える「さやかちゃん」だからこそできたことであって、どんなビリギャルでも、このような軌跡を進める訳ではないことも分かります。
さらに、「さやかちゃん」の父役が『愛の渦』で「大人のパーティ」の主催者の胡散臭いおっさんの役の男優だったので、かなり違和感があったとか、色々思うところもあります。また、いつも「夢を持つこと」や「ビジョンを持つこと」に否定的な私なので、「慶應に受かる」を目標にすることの違和感は少々残るとか、大体にして、塾と家での勉強が忙しいから、学校で寝るしかなく、「ああちゃん」の嘆願もあって、授業中に担任教師公認で寝ていたなども、本来なら間違いなく本末転倒の話です。
そんなこんなは色々あるのですが、周囲の人々の心を動かし、急激に慣性を増しながら、目標の一点に向かって突き進む、有村架純演じる「さやかちゃん」の姿は、観る者の心をとらえて離さないのです。DVDは速攻買いです。
追記:
私はこの映画を見ても「明確な目標を持つこと」に懐疑的です。ただ、この映画の「さやかちゃん」のように、五里霧中状態で、何か明確な標的がなくては、動機づけが難しいことも分かります。また、「さやかちゃん」が失敗したときに備えて坪田先生が書いた手紙の文面に、目標を持って失敗することのリスクへの対処法も読み取れます。
私なら、目標を持たずとも、自分に迫りくる総てに対して、悔いない日々を送れるような対処を自ら見出せるように、私が教えることになった人々にはなって欲しいように思います。
追記2:
パンフレットをよくよく読み返してみると、「さやかちゃん」をクズと呼び続け、机に突っ伏して寝ている「さやかちゃん」の髪を鷲掴みにして引き起こし、最後には校庭で全裸にされる学校教師の役の安田顕という俳優は『女子ーズ』でまさに劇団員のグリーンに「森の木B」を宛がった演出家も演じていました。因縁の二人…と見ると笑えます。