『寄生獣 完結編』

 封切からまだ一週間経たない木曜日の午後三時過ぎの回をバルト9で観てきました。テレビも新聞もほとんど見ない私は、マスでの広告がどの程度行われていたのかわかりませんが、前作の人気を受けてかなりの期待度を背景に封切られたものと想像しています。

 新宿では、バルト9、新宿ピカデリー、そして、できたばかりの歌舞伎町のコマ跡地にある(ゴジラが載っている)映画館など、マルチプレックスの三大映画館の総てで頻度高く上映されています。バルト9でさえ封切直後は(正確に数えていませんが)毎日10回近くの上映を行なっていました。GW映画で邦画最大の目玉ではないかと思います。

 しかし、GWの飛び石祝日の合間とはいえ、平日の昼間に行ってみると、意外に観客は少なく、50人ぐらいだったように思います。カップルも目立つ比較的若い男女の層に、背広姿のサラリーマン風の男性もぽつぽつ混じる感じでした。50人程度の中では、たぶん、私が年齢でトップ5に入っていると思います。

 前作の感想でも書きましたが、私はかなりの寄生獣ファンの部類に入っていると思います。映画評で見る限り、前作を激賞する人々の多くは原作を知らない人であるように見受けました。そして、私の周囲の寄生獣ファンも「映画は観に行かないが、アニメの方はまあまあ面白い」ぐらいの評価をする人ばかりでした。それでも観に行ってみて、尺の関係か、魅力的な登場人物がかなり削られていることにはぎりぎり耐えたものの、原作の根本的なコンセプトを大きく翻案した部分には、全く納得できず、さらに、残ったメインキャラが原作と性格がずれていることで、観るに堪えない感じに思えました。

 それほどに、自他ともに評価の低い前作の続編を観に行くことにしたのは、私が好きな『寄生獣』と言う作品の中の最大の名場面が続編の方に含まれているからです。それは、田宮良子(原作後半では田村玲子に本人が変えています)の最期です。

 寄生生物の立場から寄生生物と人間の関係を根本から問い続け、寄生生物となった人間同士でセックスして子を生し、それを産み育てた田村玲子。寄生生物の中では最高レベルの知性故に殺戮マシーンの後藤以外では、最高の戦闘力と冷徹さを備えた田村玲子。その彼女が、徐々に人間の(感情と言うよりも)思考と感覚のパターンを理解し、研究する中で自分もそれに囚われるように変化していく。そして、最期は主人公の新一に、命を賭して我が子を託し死んでいきます。

 その人間の思考と感覚の習得・模倣の質の高さは、新一を常に右手の立場から観察し続け、新一とコミュニケーションをとり続けてきたミギーでさえ、理解不能なほどでした。田村玲子の死の直前のセリフは感動的です。私にとって、20年近く前に読んだコミックの『寄生獣』で見つけたこの場面は、それまで読んできたコミックの中で、牧村ミキの生首を抱きかかえた不動明と並ぶほどに心を揺さぶるものでした。

 映画の前作での冷徹な田宮良子を演じるには、線が細すぎるように感じた深津絵里は、徐々に人間の思考を吸収した田宮良子になって、(原作とは異なり名前を変える余裕もなく)本作ではぴったりの感じに様変わりしていました。コミックでは短くしか描かれていなかった「一人笑い」のシーンも、その笑い声がいつまでも鳴り響いて、心に刺さってきます。

 彼女を警戒し、殺害することを決めた三体の寄生生物もコミックよりもあっさりと瞬殺してしまいます。それが、その間に彼女を出し抜いて彼女の子を誘拐する“ただの人間と思われていた探偵(映画ではジャーナリストに変えられています)”置手紙を見て「余程、手ごわいじゃないか」との彼女の呟きにコミック以上の重さを与えていて、最高の演出に思えました。

 そして、最期です。
「ずうっと…考えていた…わたしは何のためにこの世に生まれてきたのかと…
 1つの疑問が解けるとまた次の…疑問がわいてくる…
 始まりを求め…終わりを求め…考えながら ただずっと…歩いてきた…
 どこまで行っても同じかもしれない…歩くのをやめてみるならそれもいい…
 すべての終わりが告げられても…「ああ そうか」と思うだけだ
 しかし…それでも今日また1つ…疑問の答えが出た
 新一…この子供…結局使わなかった…何の変哲もない人間の子供だ…
 人間たちの手で…普通に育ててやってくれ…」
「ありがとう…この前人間のまねをして…鏡の前で大声で笑ってみた…
 …なかなか気分がよかったぞ…」

 と言う原作のセリフに、自分の子供を「よく笑う、元気な子だ」と言う部分が加わって母性が強調されていますが、それさえも、深津絵里の迫真の演技で全く違和感がなく、原作をも凌駕する圧倒的な場面に作り上げられています。

(ドキュメンタリーの『エンディングノート』の主人公の最期を除いて)私は映画の作品中、自分が死ぬ時もこのような考えが頭に去来したらよいと思う場面は、『CASSHIRN(キャシャーン)』の悪役達の死の場面です。彼らが本来人間だった頃の、前世のような記憶を取り戻し、自分が生まれた訳を悟り、そして、たぶん、これから行くところを垣間見ながら、「なんだ、そういうことだったのか」との安寧の中に息を引き取っていきます。

 長く映像での憧れる死の場面は、『CASSHIRN(キャシャーン)』のそれでしたが、この『寄生獣 完結編』の田宮良子の死は、簡単にそれを塗り替えてしまいました。母の死から新一が失っていた涙を再びよみがえらせるほどの、人間の母としての田宮良子の死です。

 知人のフェイスブックの書き込みに、全国の看護師にアンケートした、亡くなる人が語る後悔のトップ5と言うのがありました。

・自分自身に忠実に生きればよかった
・あんなに一生懸命に働かなくてもよかった
・もっと自分の気持ちを表す勇気を持てばよかった
・もっとたくさんの人と友人関係を続けていればよかった
・自分をもっと幸せにしてあげればよかった

 どう考えても、私は、こんな風に思うことはないと思います。たぶん、ほとんど田宮良子と同じことを考えながら息絶えることができるように思えてなりません。

 同じく新一に対して母性を発揮する女性が『寄生獣 完結編』に登場します。もう一つの原作の『寄生獣』の私にとっての名場面は、追ってくる殺戮マシーン後藤の影に怯えつつ逃避行に出ようとする新一と村野との初めてのセックスのシーンです。村野の魅力が全開のこのシーンがどうなっているのかを確かめるのが、『寄生獣 完結編』を観た第二の理由でした。

 こちらも、田宮良子の死と同じように、原作からの巧みな翻案と緻密な演出で最高のできになっていました。もともと、前作でも風貌などはかなり違うはずなのに、橋本愛演じる村野は原作のイメージにかなり近いものでした。その村野は後藤に追われて辿り着いた最終決戦の場である(原作のゴミの不法投棄現場とは異なりますが)低レベル核廃棄物処理場にまで呼び出されて現れ、怯え泣く新一を抱きしめて、体を重ねるのです。

 この場面の原作との決定的な違いは、既に森の中の戦いで、新一はミギーを置き去りにしているため、新一の右腕がなくなっている状態であることです。原作の村野は新一の胸と背中の寄生生物に開けられた穴の跡を知ってなお、それについて知ろうとせず、新一を受け容れます。しかし、映画の村野は、そんなどころではなく、ミギーが右腕に寄生した状態であったことさえ悟り、さらに、ゴミ焼却炉の灼熱の中の後藤との最終決戦さえ焼却炉の上階から見届けるのです。

 村野と新一のセックスも、やたらに時間をかけて丁寧に描かれています。村野が徐々に服を脱ぎ、背を向けてブラを外すところなどが、強い想いに突き動かされている村野の様子を完璧に描いているように感じられます。肌を重ねてからも、挿入の瞬間の二人の表情まで描く丁寧さです。パンフにも書かれていますが、作り手の思い入れの強さがとてもよく分かります。

 最後の浦上にビルの屋上から突き落とされる場面で、ミギーに命を救われた村野は、新一の右手を握り、ミギーに向かって「ありがとう」とお礼を言っています。完全にすべてを把握し、それでもなお敢然と新一を受け容れている村野の覚悟と愛情が強烈に輝くエンディングです。

 原作に比べて、前作同様に、加奈も倉森の妻も、森の近くの集落の老婆も登場しないなどの物足りなさは、禁じ得ません。さらに、原作と異なり、ミギーを残して逃亡した新一の右腕の切断面にはミギーの細胞が残っていて、その脳波を追って後藤は追撃してくるのですが、この程度の細胞でも脳波を追跡できるのなら、田宮良子が寄生生物三体をあっさり倒した顔面から分離した別働隊三体はなぜ気づかれなかったのかとか、色々と疑問点はあります。また、前作同様に後藤が変に哲学を語るのは少々違和感があります。

 しかし、市役所で撃ち殺される寄生生物が死の間際に頭部が暴れもがきながら倒れていく数々のシーンや、毒(映画では核物質です)を打ち込まれた後藤の体が分離しようと足掻くシーンなど、原作をとても大切にしながら映像化した節があちこちに窺われます。

 私が原作で愛して止まない二つのシーンが原作を超える表現になっていたのは、最大の喜びでした。寧ろ、田宮良子と村野を軸にストリーが展開するように作られているようにさえ見えて、感激しました。前作はDVDも不要な状態でしたが、この完結編の方は、最高のできです。幸いにして、完結編の冒頭には前作のまとめのような部分がありますので、完結編のみDVDは買いで決まりです。