『JIMI:栄光への軌跡』

 封切から一週間経たない木曜日の夜9時の回を新宿武蔵野館で観てきました。本当は前日に行こうと一度思い立ったのですが、水曜日はレディース・デーで混雑が予想されると、館のサイトに表示されていたので、延期した結果です。行ってみると、確かにそこそこの混みようでした。老若男女入り乱れて30人以上は観客がいたように思います。

 ジミヘンがリンダ・キースに見いだされてからメジャーになるまでのほんの二年ほどの間を描いた映画です。ジミヘンのリアルタイムのファン世代は、私よりも僅かに上です。なので、観客にもそのような世代が多いのかと想像していたのですが、下手をすると日本の平均的な年齢分布以上に若い人がやや多いぐらいの構成でした。何がそのような人気につながっているのかわかりません。

 おまけに、デビューしていても、まだ米国では全くメジャーではない頃の話なので、ヒット曲の『フォクシー・レディー』や『パープル・ヘイズ』も出てきませんし、ギターを燃やしたりする(後にKISSなどによって過激に再現される)パフォーマンスも全く登場しません。もちろん、このようなことは観てから分かることなので、観客の入りにはあまり関係ないことかもしれません。

 私は、先述の通り、ジミヘンを全くと言っていいほど知りません。私が10代後半から20代前半だった頃、北海道の田舎であまりロック好きは見当たりませんでした。高校時代にロック好きのチョイ不良の連中は、KISSや解散したてのディープ・パープル、レッド・ツェペリンなどに凝っていました。既にビートルズは遠く昔になり、ディープ・パープル派かツェペリン派かというような分裂もありませんでした。

 私と言えば、テレビCMに出ていたことをきっかけに知ったスージー・クワトロに嵌っていたり、篠山紀信の写真集で知ったランナウェイズにド嵌りになったり、全然、メインストリームのロックファンではありませんでした。その後、今は実家の町の市役所に勤める同級生が、偶然、「これいいいよ」と勧めてくれたホワイトスネイクに心酔し、そこから、初めて、そのルーツや派生バンドである、ディープ・パープルやレインボウを好むようになります。

 18で就職して年上の人々と接触が増えると、確かに僅かに見つかるロックファンは、まさに、ジミヘンやクリーム、ローリング・ストーンズと言ったアーティストが大好きな人々で、「市川、ジミヘン知らないのに、ハードロックが好きとか言うなや」とか言っている人々でした。並行して読み込んでいた大好きな漫画作家の山本直樹の漫画にもジミヘンなどが僅かに登場します。

 そして、とうとう、オリジナルのファンからは激昂ものの、私のジミヘンへの関心が湧く場面が登場します。それは“王様”です。「オリジナルを本当に愛していたらあんなことはできない」、「冒涜だ」などの批判を私も聞かされることがよくありますが、“王様”の直訳ロックを私は素晴らしい芸術だと思っています。「米つまめ!豆食べろ!」などの翻訳を苦労して考えたとインタビューで答えていますが、天才的な表現だと私は確信しています。例えば、私が好きなロックバンドの英語の歌詞をうまいこと和訳して歌えと言われたら、TOEIC920点を遥か昔取ったことがあるはずの英語力でも、そしてどれほどの準備期間を経ても、全く歯が立ちません。カラオケでも深紫伝説を結構歌うほどに、私は王様の才能を敬愛しています。その王様の名曲『きつねっぽい女』を好きになり、この曲は誰の曲だろうと調べてみて、「げっ、これがジミヘンの曲だったのか」と初めて知りました。

 私は、今回、『きつねっぽい女』のオリジナルをうたっているアーティストのことを知ってもよいかと思って、映画館に行くことにしたのでした。もちろん、その背景には、ここのところの“観たい映画不作状態”があることは否めません。

 そのような中、観てみたこの映画は、結構関心が持てました。関心を持てた点の一つ目は、当時の(そして多分今でも或る程度共通の)米国と英国の音楽観の異なりです。より具体的に言うなら、米国では音楽をジャンル分けしてとらえる傾向があり、R&Bやロックなど、そのジャンルごとの音楽の評価軸がバラバラにあって、音楽は音楽だというジミヘンのジャンルを超えたパフォーマンスが受け容れられにくく、結局、その真逆の音楽観を持つ英国でメジャーデビューを果たすという点でした。米国の一般的な“分かりやすいものを好む傾向”がここでもまた見つかるのです。

(自由の国という割には米国の価値観はそれが道徳観や宗教観にせよ、かなり自由度が低く感じられます。)

 もう一つ面白かったのは、ジミヘンが英国の黒人達の人種差別に対するリーダーに祭り上げられそうになる場面です。ジミヘンは音楽を楽しませる客は客で、人種は関係ないとなんらの躊躇も逡巡もなく、その申し出を断るのでした。歯でギターを弾いた、背中にギターを載せて弾いた、などと劇中でも派手で独自のパフォーマンスが話題となる傾向のあるジミヘンですが、彼の音楽観や人種観が既に、当時の彼の周囲のものとは一線を画したものであったことが分かります。

 もう20年以上前のこととはいえ、二年半米国の片田舎に暮らした私は、何となく米国の人種差別のあり方を想像できます。それとは微妙に異なる50年近く昔の英国の人種差別の実態が垣間見えるのもこの映画の面白いところです。

 そして、もう一点、興味深い事実が描かれています。それは、リンダ・キースに米国で見いだされた際に、ジミヘンは低所得の社会の底辺の人間であることに、非常に意識的で、リンダから差し出された機会をまともに理解することもできず、当然、それに向き合い、人生のチャンスをまともに活かそうとすることすら当初できなかったことです。リンダ・キースが何を言おうとも、「あんたとは、世界が違う」と自分の頭の中の檻に囚われているジミヘンの姿は、とても印象的でした。その当時から、ジミヘンは自分のギターの実力についてかなり自覚的であったように見えます。それでも、その実力が自分に何をもたらすかの道筋が提示されてさえ認識できなかったという事実が観る者にいろいろなことを考えさせるように思えてなりません。

 この時代の音楽をよく知っていれば、これほど、ノスタルジックで、かつリアルな物語はないと思われます。パンフに書かれた多数の熱狂の言葉がそれを物語っています。しかし、そのような時代背景も、その時代の今以上に生々しく熱く人々に伝わっていた音楽も知らない私でさえ、観るべきものが多々見つかる作品です。DVDは買いだと思います。

追記:
 この映画のオープニングにもエンド・ロールでも登場する制作会社名で、「ダーコ・エンタテインメント」と言うものがあります。このロゴマークが、悪魔チックな兎の絵で、どこかで見かけたと思っていたら、映画『ドニー・ダーコ』に登場する兎でした。映画作品名を冠する制作会社と言うのは何か非常に珍しいように思います。