木曜日の夜、7時20分の回をシネマカリテで観てきました。バレンタイン・デーの封切から既に半月以上。カリテでは当初から毎日一回の上映であったように思います。観に行こうと考えつつ、他の映画を優先していたら、カリテでの最終上映日が金曜日と発表され、慌てて都合の合う最終の日である木曜日に行ってきました。
小さなシアターですが、やたらに人がいて、8割程度は席が埋まっていたように思います。客層は、7割近く女性で、それも20代の女性が圧倒的多数派であるように感じました。一人客も二人連れも、女性客は多数いる中、男性は私も入れて非常に少なく、一人で来ているか、数少ないカップルの片方と言う感じでした。見た感じでは、シアター内で高齢から順位をつけたら、私はトップ5に入っていたように思います。
これほど、人気があるのに、終映かと思っていたら、しっかり、ご近所、ケイズシネマに上映が引き継がれていました。
この映画を観に行った理由は、最近観た映画の前にやっていたトレーラーでこの映画のコンセプトに関心が湧いたからです。トレーラーの中の主人公は、自分が「可愛い」と自覚していて、「可愛い」ことが万能の処世術であると信じている様子でした。職場の女性からどれだけ疎まれても、男性陣からの絶大な支持を得ることで成立している女子です。トレーラーでは、その必殺技が効かない男性が現れるところが描かれていて、「ほう、その先はどうなるのか…」と期待させられたのが、ほぼ唯一の観に行った動機です。
ところが、期待はあっさり裏切られました。まず、主人公キリコは「可愛い」ことを元々使いこなせていません。確かに職場などでもチヤホヤしてくれる男どもが数人いますが、飲み会のアイドル的存在になっているだけです。キリコの本命のカッコ良い男は、キリコが行きつけるバーのマスターで、懐かしのtrfのSAMを思い出すような男ですが、部屋に訪ねる関係になっているものの、どうも、セックスにまでは至っていない様子です(※)。詰まる所、相手にされていないのです。
続いて、何か小規模な広告代理店的な事務所でキリコは働いていますが、仕事を発注しようとした、多少売れつつあるデザイナーをキリコは篭絡しようとします。この男は、今時のイケメンに入るのであろう、単にどんな女性にも優しく振舞うことができる、草食系に見えるウジウジした感じの男です。キリコのシナはこの男からも見透かされ、全く相手にされていません。
つまり、キリコの構図は、自分がモーションをかけた(劇中でイケメンと言うことになっているのであろう)男二人には抱いてさえもらえず、劇中で辛うじてラブホに行った相手は、先述の職場の女性と誰でも寝たいと考えているチヤホヤ男の一人でしかありませんでした。これでは、全然、「可愛い」ことを武器として世渡りしていることになりません。最初から、イタイ人でしかないように見えます。
さらに、無理筋な話が二つあります。キリコのシナはわざとらしくて、遥か以前の“ぶりっ子”と呼ばれていた時代のデビュー後数年間の松田聖子でも、これよりはマシだったかなと言うぐらいです。そんなわざとらしい「可愛い」ことを、キリコ自身も無理して纏っていて、過食と拒食を繰り返す程に精神を病んでいます。これは二人の男に相手にされていない状態が明確になる以前から、その状態なのです。この設定はどうかと思いました。
「そう言うのが好きな男もいるんだと思うけどさ、俺は違うんだよね。(中略)無理しているキリコちゃんより、本音の性格悪いキリコちゃんのほうが、俺はいいと思うけどね。可愛いよ」などと、例の草食男にも言われ、あっさりと「可愛い」ことを捨てて本音勝負に打って出ます。そして、その自分に気づかせてくれた草食男にコクリに行くと、彼の部屋には本命の、分かりやすい“できたカノジョ”然とした女性が、まるで結婚でもしているかのように、台所で料理をぐつぐつとしているのでした。
『おんなのこきらい』と言うタイトルは、男の子が好きで、男からも持て囃され、結果的には、女からは疎まれまくる女…と言う意味かと思って期待していたのですが、蓋を開けてみると、ただの勘違いしたイタイ女の話でしかなく、がっかりしました。タイトルの『おんなのこきらい』は、「可愛い」だけではやっていけない、オンナと言う立場が嫌い…と言う意味だったようです。
もう一つの無理筋は、私の主観的なものですが、このキリコが、端的に言って、全く可愛らしく見えないのです。アングルや表情によっては不細工に見えます。それを狙ってこの配役にしたのなら、或る意味、賞賛に値しますが、キリコを演じる森川葵と言う役者は、ウィキに拠れば…、
「2010年、ファッション雑誌『Seventeen』の専属モデルオーディション「ミスセブンティーン」に応募者5,575人の中から阿部菜渚美、西野実見、三吉彩花、北山詩織と共にグランプリに選ばれた」。
とのことですので、世の中的には、美人で人気のモデルの子と言うことなのだと思います。しかし、特に髪を切ってからは、ふて腐れたカリメロのような感じになってしまいます。不細工過ぎて耐え難い状態なのに、どこがイケメンなのかよく分からない草食男に公園の砂場でのたうちながら泣いて縋る場面などは、醜悪です。
これが一般的な恋愛ドラマなら、感動的で、胸に刺さる場面になるはずですが、一応、「可愛い」ことが強力な処世術になっている人間の物語を期待して観に来た人間からすると、かなり我慢して不細工に見える主人公を「可愛い!可愛い!世の中的には可愛い…らしい!」と自己暗示を掛けながら見ているのに、わざわざ公園の砂場でのた打ち回るのかよと、ウンザリきました。私が草食男の立場なら、砂に埋めてきたかもしれません。(その時点で、草食的な態度ではありませんが…)
「恋の終わりはいつもいつも、立ち去るものだけが美しい。残されて戸惑う者たちは、追いかけて焦がれて泣き狂う」と言う中島みゆきの『わかれうた』の歌詞を思い出しました。全くそのままですが、どうせ観るなら、もっと演技が上手い女優で観たかったです。
周囲を見渡すと、「可愛い」を炸裂させて、仕事を得て、喰って行っている女性営業担当者や女性起業家は、それなりに見当ります。それも、この映画の主人公のように(タヌキ顔好きの私には全くそう見えませんが)世の中的な可愛い子ではなく、誰の目にもパーツを総合して見て可愛くは見えないような女性であっても、それが実現しているのです。それは、この主人公のように、全方位に向かって同質の、敢えて言うなら、定番の可愛さをバカの一つ覚えで放射しているのではありません。対象の好みに合わせた可愛さをその都度緻密に再計算して、自分の言動で体現して見せることによって成立しているように私には思えます。
マクラ営業でさえ、特におかしいと思っていない私には、このような“ライフスタイル”とも言うべき価値観や人生観に裏打ちされた処世術が、寧ろ素晴らしい“芸道”に見えます。
私が敬愛する新宿のバーのママに拠れば、美人の定義は「自分が美人だと分かっていて、そのように振舞う女性」であるといいます。容姿も年齢もあまり問題ではありません。であれば、キリコも、自己催眠でも掛けて、過食や拒食を我慢することなく、心底、「可愛い」女になりきれば、話が全く違ったのではないかと思われてなりません。
そう言うバージョンの可愛さを持ち合わせた若い子が、どんどん伸上がって行く映画を期待していたので、全くお話にならない物語でした。
各種のミュージシャンが参加して話題になっていると言う、音楽×映画の実験室「MOOSIC LAB」で公開されて以降、上映のたびに好評で、とうとう劇場公開されるようになった話題の作品と言うことで、ふぇのたすと言うアーティストが劇中にも喫茶店か何かの店員三人の役で登場し、要所々々で映画のテーマと重なる自分達の曲を披露してくれます。面白い取組みだと思いますし、目指した“読み解かれるべき物語”は分からんではないのですが、如何せん、無理が多過ぎて辛い作品になっているように私には思えます。
多数いた若い女性客の感想は何であったのか、とても関心が湧きますが、映画サイトなどでも、レビューがほとんど見当りません。「やっぱ、イタイ女にはつける薬がないよなぁ」とか、「これ、全然可愛くないじゃん」とかから、「やっぱ、女ってムズイよなぁ」とか、「すっごい、泣ける。もう激共感!」なのかもしれませんし、よく分かりません。
当然ですが、私は、仮にDVDを誰かがくれると言っても、微塵の躊躇なく固辞します。
※この映画では、肉体関係の男女が複数組登場しますが、かなりストーリー展開上重要なポイントであるはずのセックスでも、明確にしたことが描かれないのが、ストーリーを分かりにくくしています。横になって抱き合った描写があってもセックスしていないらしいキリコや、部屋でダーツを手取り足取り指導してもらっている場面のあるバーのバイトの若い子は例のSAMもどきとセックスを重ねているらしいとか、どうも話が見えません。せめて、ジアタマのよくない私のような観客のためにキスぐらいはバッチリしているシーンなどを記号として塗していただけたらと思います。
追記:
劇中に登場するふぇのたすの男性メンバーの一人が、2015年5月3日に急性心不全で亡くなったとネットで知らせが流れていました。年齢の情報はネットのぱっと見では見つかりませんが、劇中の外観からして、かなり若いものと思います。ご冥福を祈ります。