『ワンダフルワールドエンド』

 東京で立春が過ぎても雪が丸一日降った木曜日の午後3時20分からの新宿武蔵野館の回で観て来ました。昨年の10月に渋谷の映画館でプレミア先行上映されたと言う話ですが、少なくとも、新宿武蔵野館では、先月中旬の公開から約二週間、一日たった二回しか上映されていません。先月『マップ・トゥ・ザ・スターズ』を観た際に、既に封切していたこの映画の存在に気づき、いつまで上映しているか尋ねたら、「現時点では二月上旬までは上映します」との答えだったので、二月に入り、慌てて観に行きました。

 比較的小さなシアター内には30人以上の観客が居て、それなりの盛況でした。そのせいもあってか、公開予定は二月中旬過ぎまで延びていました。女性が男性よりも多く、男性は一人客ばかり、女性は二人連れも何組かいました。

 この映画は、劇中にも登場する大森靖子と言うミュージシャンの二つの曲のPVの中の物語を組み合わせ、少々補ってできた映画とのことです。パンフを読んでも私にはよく読み取れなかったのですが、主演の女優の二人、橋本愛と蒼波純はPVの段階で既に出演している様子です。作品タイトルも同名の曲から来ていますし、劇中でもライブのシーンもあれば、挿入曲や主人公が口ずさんでいる曲も、大森靖子の曲であるようです。(ライブのシーンは、実際のライブで、隠し撮りのように撮影されたとパンフに書かれています。その中で、橋本愛が曲のリクエストを大声でする場面があるのですが、それも一般のお客が普通にライブを観ている中で行なわれたのだそうです。)その意味で、この作品は、椎名林檎にも幾つかあるような、ミュージシャンのコンセプト・ビデオと思ってみた方が良いものと思います。

 何組かいた若い女性の二人連れは、最初、(劇場には普通の格好で来た)ゴスロリの趣味の人々で、主人公の二人のゴスロリ姿を見るために来た人々かと思っていましたが、どうも、そうではなく、大森靖子のファンの人々である可能性が高いものと、パンフを読んで分かりました。

 登場人物が全員非常に言葉少なであるのも、PVをベースにしていることを踏まえると納得できます。パンフには使われている曲数曲の歌詞が書かれていますが、それらを先に知っていて観たら、曲の世界観を体現している二人の少女の物語としてウンウンと頷けるのだろうと思います。ですので、その点から言うと、大森靖子の曲の世界観が分かっていないと、全くついていけない作品です。

 私がこの映画を観に行った理由は、勿論、橋本愛一点狙いです。このブログの『寄生獣』の所でも書いたように、『告白』、『桐島、部活やめるってよ』、『渇き。』の彼女は、私から見て等身大の“その年代の子”がやたら自然でやたらに印象深く演じられていると思っています。『寄生獣』の私が好きなキャラの村野の好演を見て、もっと橋本愛を観てみたいと思ったところ、『リトル・フォレスト』の連作とこの映画が選択肢にありました。自然派でもなく、食べ物にも関心が薄い私は『リトル・フォレスト』を観る気が湧かず、消去法的にこの作品を観ることにしたのでした。

 劇中のもしかすると半分近くがツイキャスで自撮りする橋本愛の映像ではないかと思うほど、ざらついた画面の橋本愛のアップが続きます。その意味では、『寄生獣』で観足りなかった橋本愛を堪能できたのは嘘ではありません。

 橋本愛はプロダクションに登録された、モデルというかアイドルというか、まだそれさえもはっきりしない段階の高校生です。授業をさぼってはトイレでツイキャスをし、「1000人単位で観てくれる人がいる」とプロダクションの社長に強がったり、ツイキャスの中では「全国100万人の詩織ファンのみなさ?ん」などと言っていたりします。そんな彼女が、彼女が“イベント”と呼んでいる、プロダクションの“売れるモデル”の撮影会の受付の仕事している場面にも現れる、追っかけの女子中学生が登場します。

 追っかけJCの純粋な想いをその子のブログで読むうちに、自分を色々と顧みるようになり、橋本愛の売れないモデルは、お笑いだのエロ系の路線を模索して紆余曲折を経た上で、同棲している演劇青年の男とも別れ、学校もやめ、プロダクション登録もやめ、実家のある田舎の高校に入り直す道を選ぶのでした。引退直前の最後のツイキャスとブログの文章が登場しますが、「向いてなかった…っていうかなぁ」などと、心中を絞り出すような言葉は、そこまで積み重ねられてきた橋本愛の演技力による等身大女子の姿があるがゆえに、結構、引きずり込まれます。

 悪意なく所属タレントと言葉を交わし、傷つけることなく、淡々と仕事としてことを進めるプロダクション社長の態度そのものが、橋本愛に現実を突きつけるたびに、デッドエンド感がどんどん増していきます。大森靖子のファンがこの映画に観るものとはかなり異なると思いますが、私には、タレントやらモデルやらを夢見て夢破れる多くの少女や女性たちの姿がリアルに感じられて、意義のある作品だと思えます。

 実際、タレントやアイドル、AV女優など、同棲者がいたり、ヘビースモーカーだったり、結婚していたり、子供がいたり、などと言うことは、実は日常茶飯事であろうと思います。私の仕事の中で見聞きした範囲でも、そうでした。誕生日も星座も性格も好きな食べ物も、みんな“そんなイメージがいいかな”ぐらいのノリで決められたことに過ぎません。

 売れるなり、評価が高まる中でなら、仮に心を磨り減らす想いをしていたとしても、別人格を維持することは何とかできることでしょう。劇中の橋本愛のように、どこにも行きつかない中で、同棲相手の存在も隠しつつ、自分で決めたキャラを演じつつ、モニタの向こう側から湧いてくる「パンツ脱いで」や「●●の方がもっとカワイイ」などのコメントに向き合い続けるのは、苦痛が嵩じて不思議ないものと思います。承認が欲しいと結論付けるのは簡単です。問題は承認がどうやったら得られるかが朧気にしか分からないことです。

 PVがベースなのですから、当たり前かもしれませんが、劇中に登場する人物は皆、言葉が少なく、詰り合い、罵り合うようなコミュニケーションや、それを乗り越えた人間関係づくりを必死に回避しているように見えてなりません。それは、同棲相手と橋本愛との関係も、春休みに同棲相手と二人きりで部屋にこもっている追っかけJCと橋本愛の関係も、そのJCと彼女を連れて帰ったその母親との関係も、皆、本音を押し殺して、「自分が足りなかった」、「自分ができていなかった」、「だったら、もういい」など、何かを言いかけては自分を責めるような結論に逃げて終わります。

 おまけに、橋本愛のキャラクターも、同棲相手の演劇青年も、追っかけJCも、自分が何をしたいのかがよく分っていません。自分を認めてほめてくれる人物を当て込むこともできず、そのために何をすればよいかも思いつかず、ただただ彷徨するばかりです。言葉にならない想い。癒しようのない渇き。そんなものが、観る者に苛立つ猶予も与えず、みるみる堆積していきます。

 PVベースだからかもしれませんが、映画はファンタジー調の、ゴスロリの姿で橋本愛と追っかけJCの蒼波純が草原をかけていくシーンに収束して終わります。観る者の度肝を抜くのは、草原の二人は「純ちゃ?ん」「愛ちゃ?ん」と呼び合っていることです。劇中でいきなり役名や役の設定が解除されてしまう作品は初めて見たかもしれません。

 ツイキャス、ライン、多用されるネット・アイテム越しに、言葉にならない想いや癒しようのない渇きが、重たく描かれている名作に思えました。最近、クライアント企業の各所で話題になる若手社員の動機づけなどにもとても参考になる内容でした。DVDは出るなら買いです。

追記:
『美代子阿佐ヶ谷気分』の美代子を演じた町田マリーを久しぶりに見ました。追っかけJCの“思いつめた母親”役です。良かったです。