8月に『GODZILLA ゴジラ』を観に行った際に、本当は二本ハシゴして観る予定で、先に観に行ってみたら、この映画に関する変なお祭り騒ぎ的イベントを連日開催していて、観ることができなかった作品です。その後、この映画のサイトをブックマークしておき、動向を探っていたところ、渋谷の西のはずれの映画館での再映情報を得ることができました。
この映画館の上映予定期間は二週間。第一週の木曜日の夜の8時40分からの回です。小さなシアターで、10人余りの観客で席のほぼ半分が埋まっていました。男女混じった客層ですが、40代以上の層は少なかったように思います。カウンターで、パンフレットとポスターと、深海魚のリュウグウノツカイの小さな縫いぐるみも売っていましたが、少なくとも縫いぐるみに関しては誰も買っているように見えませんでした。『リュウグウノツカイ』の劇中で、象徴的な位置づけにしようとしている意図は見えるのですが、現実には、それほど全体を象徴しているようにも思えません。
何か、花言葉のように、シンボリックな意味があると言うことも考えにくいほどに、非日常的な対象(深海魚)ですし、元々ローカルな伝説ベースの意味合いがあるかと言えば、一応あるにはあるのですが、「災いの予兆」とも「豊漁」とも取れると言う話で、どちらかにしてもらわないと、如何とも判断できない内容です。
映画では、「災い」として見て取れるのは、海岸の開発による漁業の断絶と、それが理由となった町の中の対立ぐらいです。「災い」と言えば「災い」ですが、あくまでも人災の域で、本来、人間がコントロールできない類の「災い」ではありません。「豊漁」の方は、特段、豊漁が期待されるどころか、漁民は廃業し、海水汚染まで観察されるようになっていますので、全くあり得ません。まさにテーマとなっている女子高生の集団妊娠が、人類の種としての「豊穣」であることは間違いありませんが、たかだか10人の女子の話で、妊娠前に結局一人転校して抜け落ちますので、9人の女子の話です。伝説的な豊漁の兆候の象徴が、わざわざ深海から命を擲ってきたにしてはずいぶん小規模な豊穣です。
無鉄砲で大人の常識が通じない、ちょっと昔で言うコギャル、今ならJKが、集団妊娠に至る背景を、微妙な距離感からソフト・フォーカスして描いたような、興味深さと珍しさは間違いなく感じられる作品だと思います。狙って観に行った価値は間違いなくありました。しかし、思ったほど、テーマが明確に描かれていなかったのが、少々肩透かし的に感じられます。
この映画のモチーフとなった事件は、もっと生々しい現実感が、報道が制限された中の限られたネット情報でも読み取れる事件です。2008年、米国のマサチューセッツ州の寂れた漁村グロースター(パンフレットではグロスターと表記されていますが、発音上は長音表記が適切のように思えます。)で起きた女子高生集団妊娠事件は、18人の女子高生が互いに妊娠協定を結び、実際に妊娠に至り、子供を共同で育てようとしたと言う実話です。公的な調査で確認できた範囲では15名であるとか、協定はなかったと言う説もあり、色々な認識やら解釈がネット情報では錯綜しています。
ただ、元々、少女らが通う高校には託児施設が完備されていたことから、既に或る程度は、若年層の妊娠が一般化していたことが分かります。また、セックスの相手は色々なのですが、若いホームレスまで含まれていて、少女の多くが彼とのセックスによって妊娠したと言う情報が記載されている記事もあります。
娯楽も少ない寂れた町で、特に家に親がいない少女たちが、夜2時3時まで家に帰らずに居たなかでの事象として、親の教育の不行き届きを糾弾する考えもある一方で、ブリットニー・スピアーズの妹など、有名人が10代で妊娠するなどの社会的影響に答えを求める向きもあります。さらに、ピアスなどと同じで、彼女たちが普通に皆やっていることの延長線上の行為と言う解釈もされています。
マサチューセッツ州では16歳以下の者とのセックスは違法と言うことらしく、これらの女子高生が該当するために、セックスの相手は全員違法行為をしたこととして、追及を受ける展開になった様子ではありますが、仔細は明らかではありません。同級生の男子が相手であったケースもあり、この場合は、この16歳以下の男子とセックスしたことで、女子の方も違法と言うことになるのかもしれません。
いずれにせよ、事件と呼ぶには実効上の被害者が存在する訳でもなく、協定があって強制されたのであれば、法的には強姦が成立するものの、協定の存在を語った女子もたった一人で、それも単なる口約束レベルや遊び感覚でのことと言う話であるらしく、違法性の確認が非常に困難だと言うことのようです。
ただ、ネット上の情報の幾つかに共通する、彼女らの根本的動機が、妙に切なく胸に残ります。それは「生まれた子供は自分を無条件に愛してくれる」と言うものです。幼児虐待の話などを見聞きして、なぜ幼児は逃げないのかという疑問に対し、「子供は親に対して無条件に愛を求めて、親の行為を受け容れるしかないから」という答えがよく提示されます。そのような自分を愛してくれる絶対的な対象として子供を作る。そして、自分達で協力して育てると言う決断には、周囲に彼女たちを誰一人愛してくれる者はいず、彼女らに誰一人手を差し伸べることがない社会環境が透けて見えてくるように思えます。
これは、ブリットニーの親族がどうのとか、映画『ジュノ』の影響だとか、ピアスと妊娠は同一線上の女子高生の体験だなどという次元とはかなり異なっているように思います。幸いなのは、この重要なエッセンスの部分を『リュウグウノツカイ』もがっちり取り込んでいることです。そして、町の欲得尽くの大人の諍いや、無責任な罵り合い、そして、彼女たちの父親の一人が死に至る社会環境。彼女たちの遊んだ海が来年には埋め立てによって消えてしまう大人のご都合。そして、それらを感じる彼女らの感性がまるでないかの如く続けられる無機質な学校教育。
そこに、東京から三カ月ぶりに転校して戻ってきた女子高生の東京での妊娠が発覚し、さらに、その子と交流した中心人物の子が、実は既に町の漁師見習いのような若者とのセックスで妊娠している事実を告白することで、冒頭で描かれる妊娠検査薬の結果照合のパワフルな映像に、がちっと組み合うように物語が進み始めます。
そこから、中心人物の子が呟く映画の主題を端的に表した言葉「つくろうよ、私たちの国」がぽつんと提示されます。しかし、その破壊力は超弩級です。あまりにもうまく物語全体をまとめ上げていて、正直言ってこの台詞があれば、リュウグウノツカイなどをシンボルに祭り上げる必要は全くないように私には思えます。
ただ、この映画のパワフルさは、あくまでもこの台詞で完結するのです。まるで打ち上げ花火のような見事さですが、逆に、シンプルなメッセージ性がどんと来てしまうので、たった60分の上映時間がまだるっこく感じられるのです。残っている時間は、彼女たちがどれほど非常識で、元気溢れていて、シンプルな発想の行動に突き進んでいくかが、日常的な姿の中で、大した展開と言う展開もなく描かれていくだけです。これほど、彼女らを普通の、或る意味“典型的低能JK”的に描く必要があったのかどうか、私は疑わしく思います。
パンフレットでは、何人かの評に共通して、「ファンタジー映画である」と書かれています。私はファンタジーと言うより、少女たちのピンポイントのニーズを純化、ないしは記号化した動画に見えてなりません。
この映画には、現実には物語に色々絡み付くように存在している筈の、澱や危険が全く描かれていません。例えば、セックスのシーンは一切登場せず、海岸のサーファー男性数人に駆け寄って行って、「私この人!」などと言っている場面や、男子同級生を無理矢理女子数人でラブホテルに引きずり込んでいるシーン。さらには、ホームレスのダンボ―ルハウスに「こんにちは?」ともぐりこんでいく姿の遠景、そして、珍しく事後に、漁船の中から出てきた女子高生が、ニッカポッカを引きずり上げる漁師のオヤジに「オジサン、ありがとう!」などと言っている場面です。
日本の港町では大抵、それ以外の同規模の街に比べて性産業が発達していますので、このようなことがあれば、小さな港町ではすぐに噂になると思います。噂になれば、幾ら町の諍いに忙しい親でも、自分の娘とセックスした同僚や町の男たちに対して何らかの報復やいざこざが起きても不思議ではありません。さらには、(どこぞの街角に立ちんぼが立っているだけでも、それを皆で交代交代にモニターするスレが立つような世の中ですから)周辺地域から憧れのJKとの無償セックスを求めて、ワンサカ男たちが集まり来ることでしょう。その状況になれば、親が学校に押し寄せるとか、そういう社会制度的な諍いよりも、より生物的な、または動物的な諍いが生じても不思議なさそうです。
しかし、この点に関しても、この映画はかなり牧歌的な問題描写のシーンしかありません。彼らの多くが在籍するクラスの中年男性教師が、PTAらしき筋の圧力で、自分が担任する女子を呼び集めて、「お前らのやっていることは違法だぞ」などと法的根拠も乏しく説教をし始めます。ところが、この教師自身が、既に10人のうちの1人とセックス済みなのです。それも、「せ~んせ」とノーパンの子にスカートをたくし上げて見せられたら簡単にセックスしてしまう教師です。あっさりと、口達者なJK達から、「違法?なんでセックスしたいからセックスしたのに違法なの。あ?、先生、もしかして●●子とやっちゃって、お金取られたの?」などと逆襲されておしまいになってしまう有様です。
10人の女子たちは、妊娠するために、一日に何人もの男性とセックスを重ねることとしていたようで、なかなか妊娠に至らなかった子は、仲間に対して、セックスの状況の報告を迫られ、さらに、「ノルマが行ってないから、目標一日五人ね」などと言い渡されています。「一日五回」ではなく「一日五人」です。重複を除いてフェルミ推定しても、簡単に小さな町の男性の多くが対象になってしまうような規模です。
(彼女らの一クラスの男子生徒の数でさえ、10人以下のように見えます。これであれば、一人の子が二日で“消費”してしまう数です。)
さらに、性病の感染拡大やら、暴力的なセックスの被害なども出てきて不思議ではありませんが、全く登場しません。逆に性の悦楽に目覚めるような子も全く登場しません。大体にしてセックスという行為について語る場面さえ皆無なのです。その意味で、非常に無機的で、全く生き物の匂いがしない、加工済みの記号だけを突き付けてくる不思議な映画で、だからこそ、彼女たちのきゃぴきゃぴした言動を徒に強調して見せる演出が無用に見えるのです。
オリジナルの米国の「事件と呼びにくい事件」を映画化した作品が、本作とは別に『17 Girls』と言うタイトルでフランスで作られています。(会話も全部フランス語ですが、タイトルだけは本当に英語のままのようです。)ネット上のトレーラーで見る限り、本作よりはドキュメンタリー・タッチに見え、イメージだけなら『ヴァージン・スーサイズ』を想起させます。
一方『The Gloucester 18』と言うドキュメンタリー映画も米国で作られています。これはトレーラーを見る限り、報道などの映像を組み合わせた、モノホンのドキュメンタリー映画のようです。これらの作品の想定されるコンセプトのポジショニングをすると、少々、本作は中途半端な位置づけに感じられます。単純にポジションの中途半端さについて、設定がやや歪んだ対称の領域にある作品と比較するなら、『先生を流産させる会』の方が、私には総重量で勝負するようなインパクトある作品に思えます。
この映画を観て、「発生学的には、男性は女性の遺伝子の単なるメッセンジャーとして作られたできそこないの生物である」と言う、哲学的観点などからも、かなり大きな問題がありそうな事実を、練り込まれた文章展開であからさまにする書籍『できそこないの男たち』が、頭に浮かんでなかなか消えませんでした。
自分を絶対的に愛する存在を自分の意思で作ることができる女性。そして、その手段としてしか看做されていない男性。その構図は劇中では、10人の女子に常に砂浜に埋められたり、波打ち際に投げ入れられたりしている一人の男子生徒の姿に集約され、社会制度やくだらない政治的利害に振り回され続ける大人の姿に投影されています。私にはそれが、『できそこないの男たち』に描かれる男性の存在を映像にした姿に見えるのです。ついでに『オニババ化する女たち』も合わせ読んだら、叫び出したくなるような人間社会の構図が見えて来そうな気がしてなりません。
自主制作作品とのことで、なかなかDVD化されないのかもしれませんが、出れば、間違いなく買いです。そして、その際には、『17 Girls』と『The Gloucester 18』も何とか手に入れてみたいように思えます。