『狂った野獣』

『鉄砲玉の美学』に続いて池袋の映画館で観て来ました。こちらの作品は一日四回の上映です。1976年の映画です。5時からの上映になって、観客の一部は入れ替わりましたが、客層はほとんど変わらず、多少混雑度が増した感じです。

 携帯電話のスイッチを切るなどの定番のアナウンスも全部口頭で行なわれるのですが、さらに、そのアナウンスに続き、近くのネパール料理店から取り寄せられる自慢のサンドイッチが如何に素晴らしいかをパン生地の様子にまで言及して説明して聞かせるのにはかなり驚かされました。この執拗な棒読みアナウンスは、上映開始の機械音声の案内に遮られるまで、そのまま続いたのでした。驚くべきローテクです。

 因みに、自慢のサンドイッチは、その時点では在庫がなく、次の上映終了時にはできている予定なので、今のうちに予約しておけと言う主旨のアナウンスなのです。完全入替制の映画館に慣れている客には、驚きの連続です。

『祝 80歳&監督生活50周年 遊撃の美学 映画監督 中島貞夫映画祭』のチラシにある「エロチシズム・バイオレンス・アナーキズム 混沌の中にすべては存在する!」のうち、エロが大分鳴りを潜め、ややスラップスティックなギャグが増しています。アナーキズムの方も反体制と言うよりも、教師の不倫だったり、普通の人々の偽善などを暴き出す、どちらかと言うとシニシズム的なテイストに置換されています。ただ、ここでも、“混沌”感が濃厚に漂っているのは間違いありません。

 場当たり的な銀行強盗未遂犯の二人が、バスジャックをするのですが、それに先行して起きていた宝石店強盗の渡瀬恒彦がそこに乗っていて、バスの中の人々の様々な人生模様を描きつつ、さらに、警察組織の混乱や無能を並行して描きつつ、まとめあげて行く物語です。

 観ようによってはロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』の群像劇や、『パルプ・フィクション』のような絡み合う人々の生き様を描いた作品と見ることもできます。その生き様が、人間の欲や打算を抉り出す仕組みになっています。母親と不倫帰りの教師。警察の捜査の行き詰まりとドタバタ。心臓に疾患があり、本来乗務させてはいけない運転手をバスに乗せていたバス会社。最後には転倒したバスの中に散らばった宝石類を懐に入れて知らぬ存ぜぬを決め込む巻き込まれた乗客。その中では、一番、それなりにはまともなのは、最も格好がおかしなちんどん屋の夫婦でした。

 アクションの方は、『鉄砲玉の美学』よりもかなり大がかりです。チラシには渡瀬恒彦が転倒するバスのシーンもスタントなしで行なったと書かれていますが、疾駆するバスの重量感はそれなりに見ごたえがありますし、それを追うパトカーと白バイの群れも、何か今どきのスピード勝負のこじんまり見せ場を並べたカーチェイスの動画とは粗さが異なります。

 疾駆するバスをみると『スピード』が思い出されます。激しい銃撃を受けるところが本作とは異なりますが、『ガントレット』や『ラスト・スタンド』にも類似のバスを使った派手なアクションがあります。しかし、粗削りのパワー感では、この作品に軍配が上がるような気がします。それなりの乗り物パニック映画的な場面もあります。ラストは結果的に失敗しますが、『遊びの時間は終わらない』の逃避行劇の失敗版を見るようです。

 結局、銀行強盗に失敗して、ただバスの中で刃物を振り回すだけだったチンピラたちは銃殺され、乗り合わせた宝石強奪犯は上手くやり遂せて(大分当初より宝石の量が減っている筈ですが)相応の収穫とともに逃走に成功します。変な大団円に終わらせない結末は好感が持てました。

 しかし、それよりも、この映画を『鉄砲玉の美学』との並べてみるとき、もう一つ面白いところがあります。『鉄砲玉の美学』では虚勢を張って女を抱くことに拘っていた渡瀬恒彦は、回想シーンの中で、職場の料亭らしき店のトイレの壁に、下手くそなセックスの絵を描いては、それを見てマスターベーションまでしています。本作では、目を患ってテスト・レーサーの仕事を失った後に、その職場を辞めて彼を追ってきた女性を拒み、抱きもしないハードボイルド・テイストに一転しているのが、興味深く思えました。この二本で渡瀬恒彦の、或る意味、演じられる役柄の幅が見えます。

 楽しめます。『鉄砲玉の美学』より、様々な人間模様のアクションの隙間にうまく埋め込んだつくりに、かなり好感が持てました。けれども、今一つ、DVDを買いたいと思うほどの面白さではありませんでした。

追記:
 また、この作品も内容とタイトルの齟齬が感じられてなりません。どうも、“野獣”だった人物は物語中に見当たらなく、まして、そのような人物が狂った場面も見出せませんでした。