『太秦ライムライト』番外編@厚木

木曜日の夕刻17時35分開始の回を、以前の『そこのみにて光輝く』を観に来た厚木の映画館に観に来ました。その際に見ていた予告で、是非見ようと決めていた一本。以前は、新宿のどこかの映画館でやっていたのは、トレーラーを見てなんとなく覚えているのですが、結局、行かず終いでした。その時には(トレーラーが短いバージョンだったような気もしないではありませんが、)なぜか、観たいとはあまり思えませんでしたが、以前のこの映画館のトレーラーは印象が違ったのです。

全国でもたった三館でしか上映していず、如何せん、上映期間はたった二週間。上映回数は一日二回。翌日の金曜日には上映が終了すると言う中で、仕事の都合がどうしても合わず、諦めかけていました。ところが、その日の仕事の予定が誤っていたことが発覚し、急遽、千葉から厚木までの移動をしたものの、頭の10分余りを見逃してしまいました。

劇場で観て、一部見逃してしまったのは、渋谷で『闇の子供たち』を観た際に、あまりの長さにトイレに途中で行かざるを得なくなって以来、初めてだと思います。この映画を選ばず、こちらもいけるとしたら最後のチャンスであった筈の『放送禁止 洗脳 邪悪なる鉄のイメージ』を、時間に余裕をもって観に行く選択肢もありました。(そちらに行こうかとゆるりと考えていた時間がなければ、最初の10分を見逃さずに済んだ可能性があります。)『放送禁止…』は今後DVD化される可能性が高いですが、封切から4ヶ月を経て、ほとんど常に全国で片手で余るほどの映画館でしか上映されてこなかった、この作品の方が、DVD化の可能性が低いものと思い、急遽、厚木への大移動を開始しました。

以前来た際に気づいた駅からの地下歩道を小走りに移動して、映画館に着きました。上映終了日前日。小さなシアターには、10人ほどの観客がいました。客層は男女半々ぐらい。30代以下はいない感じがしました。

チャップリンの名画『ライムライト』をモチーフにし、舞台を太秦に、主役を時代劇のプロの斬られ役に置換した作品です。味わいがあります。主演の斬られ役の引退間際の高齢の役者を、実際の“日本一の斬られ役”と言われ、「5万回斬られた男」と呼ばれる福本清三と言う男優が、人生で初の映画主演を務めています。やせ細り、上半身裸の場面では肋骨が浮き出るほどで、腕や足も鍛えられた必要最低限の筋肉がついているだけです。ただ、刀にせよ、木刀にせよ、場面によっては、田園の畔で持った木切れにせよ、手に持った瞬間に別人のような鋭い動きを見せます。鍛錬された技の見事さが堪能できます。

劇中、そんな主人公の技に見入られ、彼の直向な芸への姿勢に惚れ込み、彼に立ち回りの教えを請う若手の女優の卵が登場します。最初はエキストラ、それから主演女優のスタント、そして、とうとう主役を射止めるまでに至ります。そして、彼女がスターダムに伸上がった時、老齢の彼は既に刀を握る左手の握力も弱り引退していました。太秦撮影所の武道の道場も物置にされていました。もう武道を鍛錬する者が居なくなったからと言う理由です。

嘗て、主人公の斬られ役が、唐突な終了で仕事を失ったテレビ時代劇番組の映画化が決まり、彼女がその助演役になった時、主演の松方弘樹と彼女が二人とも、主人公を引退後の生活から再び銀幕の世界に引きずり戻します。そして、二人に斬られる形で彼の最後の名演技をフィルムに残すのでした。

最近書店で立ち読みしてみた『なぜ時代劇は滅びるのか』は、時代劇の衰退に関して、多面的な分析をしています。理由はシンプルではありません。ネットの内容紹介文章によれば…

「衰退の原因は「つまらなくなったから」に他ならない。「自然体」しか演じられない役者、「いい脇役・悪役」の不在、マンネリを打破できない監督、説明ばかりの脚本、朝ドラ化する大河……いずれもが、その“戦犯”である」とのことです。これらの要素のうちの多くが、この作品には誇張されて登場します。

視聴率稼ぎのための主役のチャラいアイドルの男が月代を知らず、織田信長なのに「俺に禿のかつらをかぶせるのかよ」と怒りだして、連獅子のようなかつらになって登場します。時代考証も何もあったものではありません。刀も刀身が危険なので、プラスチックのちゃっちいものを使って、CGで刀を描き込むと言っています。そのアイドルの頭の中には助演女優をモノにすることしかありません。そんなアイドルを煽てて図に乗らせては、話題性優先で作品を作ろうとする無知な若手監督も、やたらにエゴ丸出しで醜く描かれています。

時代劇の惨状がこれほどにおかしな人々によるものであるのかは、流石に首を傾げたくなりますが、劇中でも、時系列で描かれている立ち回り役者たちの居場所はどんどんなくなっていき、太秦撮影所のチャンバラショーぐらいしか仕事もなくなります。

名画だと思います。

マーケティング的に考えても、人々を啓蒙して、お客に育て上げていく“創客”と言うプロセスがなくては、一定の世界観を伴う価値を軸とする商品やサービスは必ず廃れてしまいます。特に時代劇のみならず、地域の伝統芸能や民俗行事なども同じだと思います。海外ではオペラやバレエの存続を危ぶむ話が多々あると聴きますが、日本でも多種多様に存在する伝統芸能の多くは、存続が決して安泰ではない状況ではないかと思います。劇中でも、「時代の流れとともに…」と言った諦めの言葉が多くの登場人物の口から吐き出されますが、もし、本当にそのようなことを残念に思うなら、“創客”の作業を粛々と始めるべきであろうと、私には思えてなりません。

主人公を演じる福本清三は、パンフレットのインタビューによると、主人公と全く仕事に臨む姿勢が変わりません。その主人公は、「一生懸命やっていれば、どこかで誰かが見ていてくれる」と言い、結果的にその姿が時代劇を支えたいと言う若手女優の後継者を育てるところに行き着きます。70過ぎた主人公に対して、恋愛感情まで持って「一緒にいたい。結婚したい」とまで言っています。そんな彼女にも稽古の時以外は、言葉少なに敬語を使い、常に謙虚で、怒ることがなく、ただただ芸の精進に時間を投じています。

福本清三もまさにそのように考えているようで、インタビューでは…

「映画の通り、チャンバラを未来につなげてほしいです。これまでの枠にとらわれず、いろんな時代劇があっていい。でも、僕は時代劇いうのはなくならんと思います」。

「今回の映画は、55年間の集大成ですわ。斬られ役冥利につきます。こんなんあっていいのかな。恵まれ過ぎてると思て逆に怖いですわ。また元に戻ります。仕出し(エキストラ)が原点です。またこつこつ一生懸命やらせてもらいます」。

よく内田樹の書籍の中に“雪かき仕事”という、社会のためになる仕事であるのに、人々から称賛されることのない仕事を示す表現が現れ、それに従事する人々のことを“アンサング・ヒーロー”と呼んでいることもあります。気取る訳でもありませんし、斜に構えた姿勢でもないのですが、私も“経営コンサルタント”と呼ばれるのも、“先生”と呼ばれるのも大嫌いです。

立派な“先生”と呼ぶことさえ勿体無いような素晴らしい経営コンサルタントには、余りにほど遠く、何を為すのかさえよく分からない自称“コンサルタント”とは明らかにビジネス・モデルが異なるからです。私は、中小企業の萬引受けや中小企業の企画下請け事業者であれば十分だと思っています。

インタビューの冒頭で“先生”と呼ばれると、「何が先生や、やめなはれ(笑)」と応じ、「また元に戻ります」とあっさりと応える、福本清三の含羞に私はとても共感できます。『ラストサムライ』に出演して世界的にも注目されたと言い、プロフィールを見ると、多分、私が観たことのある映画の出演数が最多の役者であろうと思います。

その素晴らしい“芸”が分かったが故に、彼の「チャンバラを未来につなげてほしいです」は、あまりに弁え過ぎているように思えるのです。自分の磨いた“芸”を選ぶ人や求める人が存在する。それに対して、いつか自分が老いて終わりの日を迎える時に、自身の“芸”をさらに磨いてくれる誰かを用意すること。映画では、それが辛うじて(少なくとも瞬間風速的には)達成されますが、福本清三その人のインタビューの中には、そのようなことが感じられません。

『ラーメンより大切なもの 東池袋 大勝軒 50年の秘密』で観た、人々から求められる技をただ繰り出し続けた人生の最後が思い出されます。そして、その技は結果的に誰にも継がれることが無く、ただ消え行ったのでした。私は価値ある技を自分だけが保持できる状態で、自分の引退や死と共にそれらを消失させ、求める人々を置き去りにするのは、或る面からは傲慢と考えてよいのではないかとさえ思っています。

時代劇の練られた世界の一端に関して、色々と考えさせ、さらに、“職人人生”について考えさせる名画です。DVDはかなり出難い感じですが、出れば勿論買いです。

前回行った際同様に、映画館でも、(今回は帰りに寄った)一階のセガフレード・ザネッティ・エスプレッソでも、どこか素人っぽいのに非常に丁寧なホスピタリティが、映画の内容と相俟って、頭10分欠けた映画を観るための二時間の大移動が、全く気にならなくなる体験でした。

 

追記:
2021年1月5日。この作品の主人公である福本清三氏が肺癌で元旦に逝去したとのニュースが流れました。ネット上の小さなニュースでした。「謙虚な姿勢が人々をひきつけた。『五万回斬られた男』は中学生の道徳副読本に掲載された」とありました。彼の含羞や謙虚がまだまだ時代によって高く評価されていることをとても嬉しく感じます。