『ニンフォマニアックvol.2』

 封切から三日目。祝日の月曜日の夜9時過ぎの回を、新宿武蔵野館で観ることができました。vol.1の時には、一度新宿武蔵野館に赴いて混雑のため諦め、さらに、午前中とレイトショーの時間帯に上映がなくなってしまい、仕事の都合などが全く合わなくなって、致し方なく渋谷まで観に行きましたが、今回は、何とか行ける時間帯を都合することができました。

 それなりの期待があって観たvol.1は、はっきり言って駄作の範疇でした。おまけに、vol.1とvol.2共通のパンフレットを読んで、vol.2の展開も概ね知っているのですから、vol.2を観ないと言う選択肢もあるのですが、vol.1の冒頭のシーンに至るプロセスを、一応知っておく価値もあるかなどと考えたり、(マーケティング的観点からすると)手垢のついた常套句ですが、パンフでも記述されていないラストがあると言う話なので、一応観る価値があるのかななどと考えたりした結果、映画館に赴いた感じです。平たく言うと、毒を食らわば皿までというか、コンプリート感を求めての惰性の映画鑑賞です。

 後編では、“ニンフォマニアック”の訳語として、「色情狂」ではなく「色情症」がぴったりの習慣的物理的性器結合を繰り返す主人公に、色々と変化が起きます。まずは、前編のエンディングで膣が麻痺して突如全く感じなくなったとなっていた“症状”がさらに悪化し、発熱や主に足の痙攣が普段でも起きるようになります。足の痙攣の様子は激しいオーガズムで足がつったりしている状況に似ているようです。

 習慣的物理的性器結合を重ねて、一児まで設けた初セックスの男にも、まず、セックスをこれだけ求められると応じられないと引導を渡され、他の男とセックスをしてくるように言われます。今までにないセックスをすれば快感が戻るのかと、言葉が通じない黒人たちとの3Pに挑んだり、どこで情報を収集したのか分かりませんが、女を鞭打つのが趣味と言う変な男の奴隷になったりします。それにはまって幼い息子を蔑にし、初セックスの男に見捨てられます。

 男と別れると、また見知らぬ男とのセックスにどんどんのめり込み、とうとう、クリトリスなどから常時出血をするようになり、痛みが常時襲うようになります。おまけに、職場でも男漁りが噂になり、職を失うかセラピーに行って治療するかの選択を迫られます。セラピーでは、結果的に自分の“症状”を自分のものとして生きることを決意することとなり、セラピーでこれ見よがしの宣言をして、職もセラピーもすべて捨てることとなります。この映画は、「色情症」の女が、なぜそうなるのかも、どう生きるべきかも示唆も何も提示しないままに、求めるものは何も得られず、ただただ不幸になるだけだと言うことを延々描いているだけの作品なのです。

 男の本質を見抜くのがうまいからと言う、分かったような分からないような理由から、借金の取り立て屋として実績を上げるに至り、彼女の人生は好転したかに見えます。しかし、それも取り立て屋の胴元から「歳になってきたから、後継者を作るべきだ」と言われ、しぶしぶ若い女を育てたら、全くくだらない展開で裏切られ、またも捨てられる結果に至るのです。この束の間の満たされた期間を映画はあまり描きません。そして、この間は、性器の麻痺や炎症故に、自然に「色情症」もかなり緩和していたようなのです。つまり、後継者である少女の裏切りは、直接的には「色情症」とは何の関係もありません。「色情症」とは関係のない部分でさえ、どんどん悪い展開になっていくのは、色々な人生の分岐点で悪い方を選び続けることの問題であって、必ずしも、“「色情症」の女”イコール“不幸のどん底の女”と言うことはないはずです。

 詰まる所そういうことなのです。この映画全編を観ると、そこには、「色情症」の女性には不幸な道しかないと言う何かの偏見や思い込みのようなものが透かし見えてきます。これは、以前見た、『キャタピラー』が散々“戦争の悲惨さを訴える映画”だと喧伝されているのに、その実、“戦争の結果を描いたものではなく、ジコチュウな夫に対して憎しみを顕在化させた自己顕示欲の強い妻の、どのような原因によっても発生する物語”であったのと似た転倒です。

 物語のラスト、主人公の色情症の女は、自分を助けてくれた読書オタクのおっさんに、今までの話を全部し終えてすっきりしたので、これからは、自分の全力を賭して、「自分のセクシュアリティを排除しようと思う」のような決意を口にします。そして、おっさんに、「初めての友人だ。いろいろありがとう」と感謝するのです。その感謝を受け容れたこの童貞おっさんは、話を聞いていて悶々として来たのか、寝入っている主人公の布団をめくり、ぎこちなく挿入しようとします。目を覚ました主人公は、おっさんを拒絶し、持っていた銃でおっさんを殺害してその場を去るのでした。

 自分の後継者を裏切りに導き、彼女の人生の軌道を狂わせたと彼女が確信する、例の初セックス男にして元ダンナでさえ、撃ち殺す動機も憎しみも喪失しているのに、世話をしてくれてすっきりさせてくれたおっさんをいきなり撃ち殺す感覚。もともと、「悪だ、悪だ」と自分の所業を騒ぎ立てていた程度で、違法な取り立て業務の中でも銃を使うこともなく、人を殺害することもなかったのに、心の整理がついた後にも、すぐに逆上して本当の悪の道に転げ落ちることを選ぶ選択。全くどこまで愚劣なのかと呆れてしまいます。

 この主人公の人生を振り返ると、何度も人生をよい方向に転向させる分岐点があったはずです。夫が彼女の要求に応じられなくなったとき、何とか行為のペースを下げることもできたはずですし、家を捨てるのかと詰問された時に、出て行かない選択もできました。それ以前に、彼女に恋愛感情を抱き、彼女と人生を歩みたいと言った人間は複数いたはずです。取り立て屋になってからも、老いて来たとは言われても、そのまま続けて、「色情症」を忘れて暮らすこともできたはずです。

 一旦、悟ったようになった彼女は、「セクシュアリティを排除する」と宣言します。これも、典型的な欧米価値観の二元論的で、ばかばかしく稚拙です。「色情症」ではなく、「色情狂」として、自分のセックスへの執着を肯定しつつ、他人のためになる人生を歩めばよかっただけの話に見えます。助けてくれた男は意外にも俗物でした。しかし、それさえ、(例え失望したのであっても)一旦は受け容れて、その後、彼の元をただ去れば良かっただけに見えます。

 やはり、以前の『キャタピラー』の如く、この映画は「ジコチュウの低能女が、悲劇のヒロインぶって、どんどん疎まれて行く物語」であって、たまさか主人公が強めの“セックス依存症”も持ち合わせていた…と言う程度の話に落ち着いていました。

 オタクのおっさんが最後に俗物に転じるのは、「おお、やるねぇ」と思いました。画面を変な暗転にしてしまわず、彼の力づくのセックスが展開されるエンディングだったら、少しは痛快だったように思います。いずれにせよ、DVDは、引き取り料を付けてくれても要りませんが…。