『ダイバージェント』

 明治通り沿いの角川の映画館で観て来ました。木曜日の午前中、10時過ぎからの上映です。既に封切からまる一ヶ月。以前はバルト9でもやっていたので、新宿で二館体制の上映でしたが、今では角川だけになり、それも一日一回の上映になっていました。角川でも来週一杯のようですが、それでも、ざっと見る限り、特段、気合の入ったプロモーション活動もなく、よくぞここまで持たせられたものだと思います。

 ネットで映画関連の話題として、ロビン・ウィリアムズの鬱によるらしい首吊自殺のニュースが駆け巡ったこの日。50席余りの小さなシアターで半分程度は埋まっていたと思います。この上映タイミング、この上映時間、このプロモーション状態などを考えるとき、かなり上出来な入りではないかと思われます。

 この映画を観に行きたくなった理由は、ちょうど読んでいた書籍でキャリア設計に関するものがあり、構造主義的な発想で、わざとらしいビジョンだのキャリア・ゴール的な発想を否定した「計画的偶発性理論」についてものです。スタンフォード大学のクランボルツ教授によるものですが、私が以前から考えていたキャリア観にかなり符合する所があります。

 この映画のキャッチフレーズは、「人生はたった一回の適性試験で決まる」と言うもので、なかなか興味が湧きます。自分の意向も何も関係なく、適性試験で幾つかに分かれた職業群のどれに属するかが決められる社会の話であると言うことでした。職業群はかなりアバウトで、警察・軍隊などの機能を担う「勇敢」、司法を担う「高潔」、世の中全般の商業・農業などを担う「平和」、政治を担う「無欲」、学術研究を行なう「博学」といった感じです。

 舞台は近未来のシカゴで、都市国家のようになっているシカゴの中で居住区域まで別れて、子供たちは成人らしき年齢になると、職業グループの判定がなされて、親からも離れて指定の職業群の人々と生活を共にして人生を過ごすと言う設定です。文明の度合いは、現代に比して必ずしも進んでいる感じではありません。

 劇中では、何となく、5つのグループが均等に分かれていますが、一見して分かることに、機械文明がヘタをすると今よりも退行している感じですので、「平和」には膨大な人力が要されます。つまり、まともな文明環境を維持しようとしたら、「平和」が8割がたを占めるような構造になるのではないかと思えます。

 その辺の非合理性が気になりましたが、観ているうちにもっと失望を生む展開になります。私がキャッチフレーズから想像していたのとは異なり、職業「群」選択はテストでだけ決まるのではなかったのです。テストを行なうと、ほとんど100%、一つの職業「群」が指定されますが、本人は成人の儀式までに、その結果を参考にしつつ、自分で決めると言うことになっているのです。

 一応、言い訳のように、大抵の新成人は、テスト結果に従う…と言うような説明が為されていますが、テスト結果を親にさえ言わないような慣習のようで、テスト結果に従っているか否かは、“管理側”にしか分からないようですし、かなり自由度があるように見えます。その自由度に対する制限として、人生のその一度の機会においてのみ、職業群を自由に選択できるということで、それ以降、変更は一切認められないとされています。

 渡辺和子の『置かれた場所で咲きなさい』などにもあるように、私はキャリアや社会での位置づけは、本人の意思とは全く関係なく、何かによって勝手に決まっていて良いものと思っています。その与えられた場所で、一定の成果を上げた者が、その場所を去る権利を得るようなキャリア観が、私は、人生を送る上で最も現実のありように合致して、合理性があるものではないかと思っています。

 その観点では、「努力しても合わない職業があれば、躊躇なくその仕事を捨てるべし」とするクランボルツ説でさえ、実現困難なキャリア・プランニングを推奨する向きよりは好感が持てるものの、私には無責任で放逸なものに感じられます。

 キャッチコピーで私が期待していた様な内容は、ほとんど見ることができないままにこの映画は終わりました。この映画での社会設定も、職業群選択がテストの結果によってのみ行われたのち、そこで高い評価を得た者だけが、他の職業群に挑戦する権利を得ると言う構造だったら、よかったものと思います。

 この映画の映画サイトなどでの評価は、マイナー作品にしては、かなりいい出来ながら、あちこちに既視感がある。と言ったもので、頻繁に比較される作品としては、『ハンガーゲーム』が挙げられ、次いで、『マトリックス』、『トータル・リコール』といった感じです。確かに絵面的にはそのような既視感が湧く場面が存在します。しかし、このような既視感は、別に他の作品群でも山ほどあります。『ハンガーゲーム』のような中世ヨーロッパ的支配者も、『マトリックス』のような広大に広がるVRの世界も、『トータル・リコール』のような記憶の塗り消しによる人間操作も、全くこの映画に存在しません。つまり、構造的には、この映画は、映画サイトにあるような映画との類似性がほとんどありません。

 職業グループ間では一応立場的に対等であるのに、頭のいい「博学」が欲を出して、「無欲」を排除して社会支配に乗り出そうとする“事件”を舞台とする物語です。支配者に対する被支配者の革命活動のような構図はここにはありません。『アイランド』のような、人権を与えられていない人々の逃走劇でもありません。そのようにして観ると、一応、非常に特異な社会構造設定であることが分かります。

 残念なのは、その特異な点を十分に活かし切れていないことではないかと思います。適性試験の結果、複数の適性が発見され、分類不能となる人間のことを表題の“ダイバージェント(異端者)”と呼び、分類を前提としたシステムに嵌らない危険分子として、事実上殺害されることが決まっていると言います。主人公の少女も、“ダイバージェント”であることが判明し、それを隠しながら生きようとして失敗し、狩られる危機が迫り、逃亡劇に入るついでに先述の「博学」のクーデターを(少なくとも今回は偶発的に)阻止すると言う物語なのですが、この少女は本来、このような過激な逃走劇を演じる必要があったようにはあまり見えないのです。

“ダイバージェント”は危険だと言われて、分類不能だと言われていますが、分類されたのちに、トラブルなどを起こすなどの何らかの原因で、職業群グループから放逐された人々が劇中にかなりの数登場し、あまり恵まれていない環境とは言え集団で暮らしていることが明確に分かります。それも、都市国家の領域内に間違いなく居住の場を持っているのです。これらの人は、分類は可能だったにもかかわらず、実質的に、分類結果を実現することができなかった、逆に言えば、分類を無視したまま、社会に生きている人々と言うことになります。

 これらの人々と“ダイバージェント”は発生の経緯が違いますが、システムの枠に収まらない結果になっていると言う点では同質です。ならば、少女も始めからそうすればよかっただけのことです。そうすれば、彼女の逃走を助けて、両親が二人とも犠牲となって命を捨てるようなことは起きなくて済んだのではないかと思えます。

 映画のラストで少女は、シカゴのループの延長なのか、貨物列車の鉄道路線の成れの果てなのかの“電車に乗って”都市国家の外を目指しています。そこに、この職業群による管理運営システムを持った都市国家に合わない人間が暮らせる場所があるなら、判定試験で自動的に合わない者や不明者を、その土地に放逐すればよいだけのことのように思えます。

 このように見ると、この映画の最大のウリの筈であった、社会設定が判然とせず、そこでの出来事も、当然、あちこちで納得がイマイチ湧かない、いびつな構造を持って現れるので、それが気になって、全体の価値が落ちているように思えます。

 役者がもっと見せる人々だったらまた違ったのかもしれませんが、有名な役者はケイト・ウィンスレットぐらいで、かなりきつかったようです。チャレンジとしては非常に評価できる映画なのに残念です。DVDは不要です。

追記:
「そういえば、数学のベクトル解析で“ダイバージェンス”って習ったよな」と思いだし、30年前の教科書などを見てみたら、自分が書いたノートでさえ、不明点が多数散在していたので、老後の時間つぶしには、数学の復習が良いかと、ちょっとだけ思いました。職業選択など全然意味をなさなくなった年齢なら、異端の意味が分かっても良いように思います。数学の方では“発散”ですが。