『アメイジング・スパイダーマン2』

 GW明けの平日の夜、バルト9で観てきました。封切から一週間半。まだまだ関東圏でもあちこちで上映されていますが、バルト9では早くも3Dのバージョンの上映回数が減ってきました。定かではありませんが、2D、3D共に一日三回ずつの上映だったと思います。出されると何となく「観に行かなくては」と言う切迫感の湧くマーベルものです。

 上映開始が午後10時過ぎ。152分もの映画なので、水断ちで臨んで何とかトイレに行かず最後まで逃げ切りました。終了は終電過ぎなので、観客数はさすがに少なく20名いませんでした。20代から30代の男性メインの客層です。

 今回観ても、やはり私はテイストとしてサム・ライミ監督の『スパイダーマン』シリーズの方が好きだと自覚しました。けれども、『アメイジング・スパイダーマン』の第一作同様に、等身大のちょっとチャラ目の若者青春劇としてこの作品を観たら、それなりに成立していると思います。前作同様に、ふざけたシーンは散見されます。プルトニウム輸送車からこぼれおちるカプセルを、「あらよっと」のような台詞をぶつぶつ言いながら、ジャグラーの芸当のようにあしらいます。覚醒した直後のエレクトロが街を破壊し始めた時に、ウェブ・シューターが電撃で片方破壊されたことから、直接対決を避け、消防隊を呼んで来て、放水によって放電を起こさせ倒すのですが、その際もわざわざ消防隊のヘルメットを被り、消防隊のチームに交じって事を為すようなギャグ的展開になっています。

 確かに、アメコミの原作の世界観ではスパイダーマンは、或る面チャラいキャラであったと思いますので、原作に忠実なのだと観ることはできるでしょう。私の知る元々のスパイダーマンのイメージは、ほんの数冊(ネットもない時代に)洋書売り場で買うことができたアメコミの翻訳本と、大好きで全巻何度も読み返した池上遼一原作のコミック『スパイダーマン』と、子供くさくて直ぐ見るのを止めた巨大ロボまで出てくるテレビ番組の『スパイダーマン』でした。

 その私にとって、悪役も含め、原作の世界観をきっちりと作り込んだ『スパイダーマン』が登場したのは、やはり、サム・ライミの『スパイダーマン』です。しかし、サム・ライミ版でさえ、今改めて『アメイジング・スパイダーマン』二作を見ると、原作をベースにサム・ライミ流の質の高いエンタテインメントに仕上げた作品だったことが分かります。その意味では第二作で私は“原作に忠実な青春劇”と言う観点で『アメイジング・スパイダーマン』シリーズを相応に高く評価できるようになりました。DVDは入手決定です。

 特に、今回、注目したのは、唐突にグウェンを死なせてしまったストーリー展開です。ウィキでも書かれている通り、それまでのアメコミ・ヒーローの世界は、どうしても予定調和的です。必ず正義を貫く者に、完璧な勝利が訪れると言うような展開ばかりだったと、幾つか読んでみたアメコミの世界観を知って、私も子供の頃に思っていました。迷い悩む若者ヒーローと言う位置付けをスパイダーマンが作ったと言われていますが、それは、間違いなく、ヒーローがみすみす眼前で自分の恋人を死なせると言う展開からだと思います。

 第一作で描かれていた、能力をうまく使いこなせないスパイダーマンならいざ知らず、フルに使い回しが利いて、さらに、ライノのミサイルは咄嗟に糸で引き外したマンホールのふたで防ぎ、エレクトロの電撃が流れた手すりに触りそうになっている群集を瞬く間に片手しかウェブ・シューターが利かない状態で工夫して救うなど、能力の最大値が引き出せている状態です。そんな中で、みすみす、その直前で自分が人生をかけて一緒に過ごすと決めた彼女を死なせてしまうのです。(日本人なら、「慢心すると落とし穴が待っているから、きっちり反省してさらなる精進をするように」となりそうな展開ですが、そうならないのがあちらさんの世界観です。)

 もちろん、グウェンは前作に引き続き、姉さん女房的な位置付けで、彼女なしにはエレクトロが引き起こした大規模な事件は収束に向かいませんでした。前作以上の関与度と言えます。そして、そこに危険が待ち受けていることも、全部承知の上で行動を起こしていますし、それに反対して主人公ピーターも何度もそれを止めています。なるほど、ここまで忠実に原作を再現したかった作品だったのだなと納得させられます。

 細かく見ると、原作では初代のグリーン・ゴブリンとの戦いでグウェンは死んだ筈で、『スパイダーマン』シリーズではきちんと二代に分かれて出てくるグリーン・ゴブリンがこちらのシリーズでは一人だけですので、いきなり出てきた息子バージョンが今回の事件を起こす設定も致し方ないものとは思います。

 この映画で、少々難点に感じたことが二つほどあります。一つはプロモーション方法です。ポスター上でもチラシのアオリでも、原作にも登場する悪役三体は、どうも一斉に攻めてくるように見えます。それは、『スパイダーマン3』に登場するサンドマンとヴェノムのような感じだと想像させられます。しかし、実際には五月雨式に登場します。ライノに至っては、グウェンの死から四ヶ月ほどスパイダーマンになることを止めてしまったピーターが、市民の熱望を受けて、再度立ち上がるきっかけの事件を映画のラスト10分ほどで作ったに過ぎません。実質的な戦闘シーンは殆どないのです。内容がまあ評価できる映画だけに、宣伝の方が失望を生むような構造ではどうかと思えます。

 宣伝に関して言うと、エンドロールの後などに、今後のマーベル作品につながる予告を入れるのはもう十分想定済みなのですが、今のところ、全く接点のないXメンの新作予告を挿入するのはやり過ぎなのではないかと思えました。それもエンドロールの最中に唐突に入れる形式です。やり過ぎ感がかなりあります。(DVD化された時にはどうなるのだろうかと変な関心が湧きます。)

 もう一つ、気になることは、オズボーン家の遺伝的な病気の設定です。それを治すことができず、父ノーマン・オズボーンは亡くなり、その研究の後継が息子のハリーに託されるのですが、結果的にハリーは、以前からあった、グリーン・ゴブリンになる戦闘スーツの治癒機能によって生きながらえると言うことのようです。しかし、考えてみると、ノーマン・オズボーンが開発したスーツなのですから、父の方もこれで救われた筈なのではないかと考えざるを得ません。また、映画の終盤、収容所に囚われたハリーは、スーツは勿論外した状態で、特段の治療をしないまま生きながらえているようにみえます。よく分からない病気とはそういうものかもしれませんが、他の部分で結構作り込んでくれている作品なので、しっくりこない部分が際立つのは確かです。

追記:
 エレクトロの能力がよく分からないとネット上でも書かれています。私は後半でエレクトロが来ているスーツはどこから出てきたのかとか、エレクトロが電気自体になってコンセントから移動できる(ジョジョでのレッド・ホット・チリ・ペッパーと同じ状態)になったのは分かるのですが、なぜスーツなど自分の体以外のものまで同様に電気化できるのかよく分からないと思いました。しかしながら、前述のハリーの病気とは異なり、人間描写にはあまり関係のない所なので、まあ、SFの悪役だし、『空想科学読本』チックなことを言い出したらきりがないものと思います。(それを言ったら、スパイダーマンだって手足が露出しないで壁にくっつけないと思いますし、糸は本来肛門付近から射出することになるのではないかと思います。)