年明けの月曜日の夜に、以前、『クロニクル』を観に行った、事実上、新宿駅に隣接している映画館で観ました。封切は12月初旬。丁度観に行った日でまるまる封切から一ヶ月です。封切時点ではどうだったのか分かりませんが、既に全国で上映館はたった五館。関東ではたった一館の上映です。この館では一日三回上映されています。インディペンデント系の映画とは言え、アカデミー賞にもゴールデン・グローブ賞にもノミネートされた作品で、それなりの名優が出ている割には、扱われ方が小さいように思います。それぐらい、何かの価値観の下に、この映画の内容が低く評価されているのかもしれません。
あの私には駄作に思える『クロニクル』でさえ、満員で見るのを一日延ばさざるを得なかったので、今回も恐る恐るチケットカウンターに上映3時間前から赴いて、チケットを購入しておこうとしました。三時間前の段階で、なんと観客はゼロで、私が唯一の購入者でした。上映時に来てみると、さすがにシアターには私一人だけではありませんでしたが、それでも観客数は一桁に収まる程度でした。
話題作だと思います。そして、観に行って良かったと思える一本です。DVDも出れば間違いなく買いです。
なぜ話題作かと言えば、この映画は二つの社会的タブーと考えられるものに、軽妙なタッチにごまかしつつ、敢然と踏み入っているからだと思います。一つは、セックス・サロゲートを介するセックス・セラピーです。何かの精神的理由や身体的理由でセックスどころか異性との物理的接触にも心理的な抵抗を感じるなどのケースをセラピストが扱い、その際に言わば練習台となるのがセックス・サロゲートという職業の人々なのだそうです。surrogate という単語を辞書で引くと、「代理人」となっていますが、「教会裁判所判事代理」などのケースもあるものの、「代理母」などもあります。そして、この映画のケースでは、(本来セックスをするべき(多分に)将来の)セックス・パートナーの代わりとなって、セックスを含む異性との肉体的な接触のあり方を学ぶ対象者となる仕事と言った感じのようです。
さすが、西欧の合理主義。さもありなん、ぐらいに思っていたら、どうも、このようなセックス・セラピーのあり方は、実質、売春と何も変わらないとの批判が多数あるのが現実とのことらしく、このセラピー自体が完全に合法とは言えないと言うことなのだそうです。ただ、これを売春といきなり同列に扱おうと考える所に私は違和感が湧きます。
コミックの『はまりんこ』などにある地方の筆おろし文化や夜這い文化は、男性にセックスの仕方やマナーのようなものを教える場として貴重なものであったという考え方に私は賛同します。それが遊郭などに引き継がれても、単なるセックスという行為を金銭の対象にする売春とは、明確に異なるように私には思えます。お茶の飲み方まで、「道」に仕立て上げる日本文化の発想かもしれませんが、セックスも間違いなく「道」としての部分があるように思います。よくAVなどのタイトルにさえ「性の奥義」などと書かれているのは、その発露でしょう。ですので、医療の対象として、性の未熟さや困難さを扱うと言う発想ではなく、一つの「道」の道程の中で、導いて貰わねばならない段階にあると言う発想の方が、馴染むように思えるのです。
もう一つのタブーらしきものは、障害者の実態を描くことです。この作品は、6歳の時の小児麻痺で体の自由を失った詩人でジャーナリストのマーク・オブライエンの実話に基づくものです。主人公の名前から見るに、どうも、登場人物たちも実名がそのまま使われている様子です。その障害者の普通の欲望であり、考えを描くこと自体が、何か憚られるように感じられる中、この映画は当たり前のものとして真っ向、セックスを描くのです。
この点に迫った映画で名作が存在します。『おそいひと』です。この作品には、『おそいひと』と全く同じ構図の、主人公がヘルパーの女性に恋してしまう場面があります。単なる場面ではなく、ストーリーの中核を成すポイントです。この作品では、そのヘルパーは、主人公との交際には至らないまでも、明らかに恋愛感情を意識しています。それに対して『おそいひと』では女子大生が主人公からの「一発やらせてください」とだけ書かれたファクスを受け取って、主人公から離れて行きます。『セッションズ』の主人公は高学歴で、自由度の少ない重度の障害を持っていた様な人物ですので、ヘルパーの女性に求婚する形になっています。それに対して、趣味で大量に持っているAVを見てその形を求めたのが『おそいひと』の主人公です。『おそいひと』の主人公はヘルパーの女性と会話している状態を見て嫉妬し、前ヘルパーの男性を殺害します。一応普通に暮らすことができ、殺人まで犯せる自分に過剰な自信を持ち始めます。そして、連続殺人鬼に変貌していくのです。セラピーを受けて、童貞を捨て、自分に自信を持とうとする男と、包丁を振り回して無差別に殺人を犯すことで、自信を得ようとした男。障害の重度の違いはあるものの、二人の軌跡を分けた条件を考えてみるのは関心深く思えます。
このタブーへの軽やかな挑戦の事実のみならず、この映画は色々なことを考えさせてくれます。サロゲート役のヘレン・ハントがカルテにセッションの様子を記録していますが、その中でセックスでは同時に男女がオーガズムに達するのが当たり前という幻想に言及します。セックスについての知識や経験がほとんどない若い男性が、AVを見て顔射でセックスを終えるのが当たり前だと思うような、セックスの非常識はどのように求められ、どのように発達し、どのように伝えられているのかというポイントも興味深く感じます。
また、サロゲートという聞き慣れない職業にも関心が湧きます。劇中ではサロゲートは売春婦とは異なると説明されていますが、何が違うかと言えば、会う回数が制限され全6回のセラピーなどと決められていると言うことです。劇中ではこれを「固定客は作らない」と説明されています。しかし、疑似恋愛を催させることは当然織り込み済みの感情労働であることが分かります。そして、お約束のように、ヘレン・ハントも主人公に惹かれる想いが募るが故に、当初6回と予定していたセッションをセックスに成功した4回目を最後に終えるのです。
これは別の色々なことをさらに考えさせます。詰まるところ「セックスから始まる恋愛感情もある」という風にもこの映画の主張の一つを捉えられます。これは『抱きたいカンケイ』などにも共通するよくあるテーマです。逆に「短い職業的な“研修指導”のプロセスであっても、セックスには相手に対する愛情が必要である」という教訓も読み取れます。この点は『セックスの向こう側 AV男優という生き方』の中に出てくるAV男優の女優を見る目を想起させます。
その他にも、セラピストを介した医療行為ではないものと思いますが、日本でも「セックス・ボランティア」という仕事は間違いなく存在します。障害者などを対象としているもので、健常者とのセックスをすることはないのであろうと思われます。しかし、その「健常者」であっても35歳男性の四人に一人が童貞などという数字もありますので、セックスに億劫になっていて、関心を示さないようになった男性は、サロゲートによるセックス・シミュレーションを受けるような存在であるのか否かは、かなり面白い問題です。やはりむしろ、定番のAVネタにもあるような、「AV女優○○が、ファンの方の部屋にお邪魔します」などの企画作品のような展開の方が、セラピーを受けると言うよりも、現在の日本にはしっくりくるような気もします。レンタル・フレンドなる商売もあり、届出制化されたデリヘルもある訳ですから、『紀子の食卓』にあるようなセックスも前提とした恋人や交際相手のレンタルも、所謂「契約された愛人関係」などに普通に存在してしまっているのが日本社会だと思います。ですので、この医療行為としてのセックス指導というビジネスモデルがどこまで日本であり得るのかは、商売柄、考えるネタには最適です。
この映画の中には、ビールを飲み童貞喪失を祝おうとする神父も登場しますし、ナマっぽい人物像の掘り下げによる面白さが、ヘレン・ハントの熱演のみならず、あちこちに輝いています。R規制を入れたことに対する疑問がネットでは呈されています。この清々しいぐらいの軽やかさで障害者にとってのセックス・セラピーを扱うこの作品に関してなら、私もR規制への疑問を抱かざるを得ません。
一つ、残念なポイントは、童貞ではなくなった主人公が、死ぬまでの五年間に本当に交際した女性が登場します。病院で知り合ったボランティアの女性ですが、ロビン・ワイガート演じるこの女性のとの関係性を、映画は殆ど描くことなく終了してしまいます。このロビン・ワイガートという女優はあまりメジャー作品に出演していませんが、かなり実力派と思いますし、役どころでも、胸キュン的な展開を容易に数多入れ込めるような存在でした。顔つきや体型などもかなり私の好みです。もっとこの女優の出番を作って欲しかったと思います。
追記:
主人公が部屋で飼っている猫が登場しますが、ネット情報によれば、エンディングロールには猫の名前もクレジットされているのだそうです。気付きませんでした。