『タリウム少女の毒殺日記』

 木曜日の夜、白金台から上映時間ギリギリでタクシーで乗りつけたのは、映画情報サイトで渋谷と分類されるには、渋谷駅からちょっと遠すぎると思われる例のミニシアターです。封切は映画情報サイトでは7月初旬となっていますが、この映画館でいつから公開していたかを私は知りません。映画館のサイトでは、この週で上映を終了するとしていて、さらにこの最終週はその前の週までの一日四回程度の上映回数に比べて大幅に上映回数が減らされ、毎日夜九時からの一回になっていました。つまり、終映までのラスト二回目で見ることができたと言うことになります。それが信じられないぐらいに観客が入っていて、ミニシアターの半数以上の席を埋める20名ぐらいの観客をざっと見渡すと、30代ぐらいからの男女の一人客だったように思います。

 この映画は2005年に静岡県で発生した、女子高生が自分の母親にタリウムを盛り続け、毒殺しようとしたとされる事件をベースにしたフィクションです。

 映画は、主人公を同級生の女子数名からいじめにあっている母子家庭の少女として描いています。いじめの状況の描写に加えて母からの無関心が透けて見える彼女の日常を背景に、冒頭の蛙の生体解剖シーンや生物のホルマリン漬けのガラス瓶が並ぶ彼女の一般的とは言いにくい性向を順次描いていきます。この映画は相応に話題になっているようですが、その理由には、非常に特異な事件をベースにしたということの他に、この女子高生を分かりやすく説明したことに大きなポイントがあるように思います。

 主人公の女子高生は劇中ではタイトルにあるように「タリウム少女」とされています。タリウム少女は、多分、離人症、またはその一種であろうと思われる言動をしています。自分自身も含め、すべての生きているものについて、或る二点からのみ関わりを持っています。その二点とは、或る特定のプログラミングでできていて、それによって決められた役割を果たすよう(特段の思考や主義なく)行動するので、彼女はそれを観察理解するという立場をとるということ。そして、その延長線上として、彼女は、そのプログラミングの変更を試みる“進化の実験”をするということです。

 タリウムを盛られている母親は、シェイプアップや美顔など美容に執着があります。美容整形にも至ります。タリウム少女から見ると、母親が自ら顔を整形するのも、タリウム少女によってタリウムを盛られて正常な身体機能を失っていくのも、同等の「プログラム変更」でしかありません。そして、タリウム少女にとって、飼っているハムスターにアンチモンを溶かした水を飲ませ続け、神経が侵されていくのを観察するのも、母が皮膚炎を起こしたり、咳き込んだり、寝込むのも、すべて同等の観察対象となっている「プログラム変更」でしかありません。

 さらに映画は入念に何種類もの補足説明を織り込んでいます。タリウム少女がうっとりとネットで眺め見る透明な蛙や光る兎など、遺伝子操作の結果、医療研究用に作られたものを、その研究者本人が出てきて、インタビューに答えます。別にタリウム少女が取材に行くと言う設定ではなく、ぶっきらぼうにそのような場面が幾つか挿入されているのです。

 タリウム少女が書くブログにはアバターがあります。かなり主演女優の特徴を捉えた上で、かわいらしくデフォルメされている制服姿のアバターです。このアバターも「プログラムはこのようになっていて、コードのこの部分を書き換えると、こんな風に目の形が変わるんです」と説明されています。つまり、DNAで構成されている生けるものも、プログラムコードで構成されているアバターも、彼女から見て同等であり、そのように彼女がそれらをみてもおかしくないであろうと言うことを、念入りに説明しているのです。

 おまけに、「観察するぞ、観察するぞ、観察しつくして、傍観者になるぞ」とする主人公が、ナレーションでコメントを入れる監督(撮影者)に対して劇中で唐突に、「だって、あなただって私を観察しているんでしょ」と居直ってくるシーンまであります。まるで、遥か昔に見た藤山寛美の舞台で芝居に見入っていると、寛美だけのシーンになり、突如、「と言うことで、皆さん、本日は…」と舞台挨拶に切り替わるような展開です。タリウム少女が同級生の女の子たちからいじめに会うシーンは何度か登場しますが、多分その中の最後の場面では、同級生たちがいきなり押しのけられたが最後、まるで存在しないような展開になり、タリウム少女がカメラ目線で、明らかに観客に向けて、例の「観察するぞ…」を唱えるように言い出すシーンまであります。

 西洋哲学の、最初は神ばかりを信じていたのが、実存主義の辺りから神は死に、さらに当てになるかと思われた個人の理性なるものも、結果的に従前からある枠組みによって規定されたものでしかないと言う構造主義にいたる流れが思い出されます。タリウム少女が理想とする傍観者が見つめる者は、構造主義の産物としての生き物であって、それを人間の意志で替えていく営みが、遺伝子組み換えであり、整形であり、ピアーシングであり、毒物投与であり、生体へのチップ埋め込みであると言う、非常に分かりやすい構造を映画は提示しています。

 面白い映画です。パンフレットの冒頭のページには「インターネット世代に絶大な支持を得る」と書かれ、宮台真司による解説には「色っぽすぎる」と書かれている倉持由香と言う女優(「グラビアアイドル」とされています)は、私の好みの外観ではなく、おまけに無機質な言動の演技も今一に感じます。タリウムに侵されていく母親の役は、『トルソ』などで私も気になっている渡辺真起子で、安心してみていられます。役者陣に関してはまあまあの評価ですが、変わった価値観から見える世界を描いた映画としてみるとき、際立った面白さを持っている映画です。DVDが出るなら買いです。劇中に登場し、エンディング・ロールでは、集団で現れてテーマ曲に合わせてヘッドバンギングまでしてくれるアバターの可愛らしさだけでも入手の価値があります。

 ただ、この映画の周辺には、もっと興味深い事柄が散在していることに、映画を見終わってからネットを少々調べてみて気付きました。まず、実際のタリウム少女ですが、日記が転載されたもののようですが今でもネット上で内容を見ることができます。その内容には、映画のような分かりやすい展開が無く、映画のストーリーと幾つかの点で決定的に異なっています。一つは、映画のように少女が母親の毒を盛る行為をやめることがありません。映画では自分にもチップを埋めることに“実験”を切り替え、タリウム少女は自分のプログラム変更を自分の意思で選び取るカタルシスを迎えます。しかし、本物の方は、検挙されるまで、ずっと離人的態度のままです。

 そして、本物のタリウム少女はどうもいじめに会ってもいないようですし、母子家庭でもないようです。映画とは異なり、大都会の真ん中で起きている話でもありません。本物のタリウム少女には、映画で分かりやすくまとめられた構図とは全く異なる何か描写されにくい物語があったのではないかと思えてなりません。一旦、その未知の物語の魅惑に気付いてしまうと、そのブログ内容だとされる文章中の

■今日は図書館に行って本を借りてきました。「死体を語ろう」や「日本列島毒殺事件簿」、
 「薬物乱用の科学」、「有機科学入門」等を借りました。

■今日は体育の補修で500mを泳ぎました。カフェ錠を飲んでいたので、
 比較的楽しく泳ぐ事ができました。

■(入院中の母の容態に)特に変化なし、今日も昨日と同じように写真を撮って帰った。
 長男に目つきが怖いと言われた。寒気がするって、
 僕は毎日この顔を洗面台の前で見ているんだぜ。

と書かれる“僕っ娘”の日常が興味深く感じられます。それに気付いてしまうと、衝撃的といわれ、問題作と騒がれる映画のほうが、妙に作りこんだ結果の薄っぺらい作品に感じられてくるのです。

 また、さらに、劇中ではアイドルと言われる演技力発展途上の女の子にしか見えない倉持由香も、ウィキで調べると、特技は「モビルスーツの形態模写」であったり、「山手線で自分に痴漢を働いた男を得意の空手で捕まえ、警察に突き出した」したことまであり、その空手のために体を鍛えようと「両手両足に合計10kgの重りを装着して通学」したり、もともとガンダムが好きになったのも、「「エルメスのバッグ」を欲しがっていたところ、兄から「エルメス」の「ガンプラ」をプレゼントされた事から…」であったりしますし、アスペルガーと診断されているなどと興味深い事柄だらけです。

 さらに…、
「「グラビアアイドル」と言われるが、デビュー以降、雑誌のグラビアをほとんどしておらず、「もし、話が来たときは、水着でジョジョポーズをしてみたい」と語ったことがある」。

 なども、十分に楽しいネタです。映画のパンフレットの最後にその手の評論家の色々な感想が書かれているページがあり、そこの中心に書かれたキャッチは、「この違和感、この嫌悪感の中に「若者の真実」がある!」です。

 しかし、「若者の真実」なるものは、わざとらしくおっさんやおばさんの価値観でフィルタリングされたこの映画を見なくても、倉持由香の実態を見つめる方が、よほど簡単に見つかるように思えるのです。そのように考えると、おっさんやおばさんの若者理解をちょっと構造的に且つ芸術的にやってみた映画と本作を位置付けることもでき、それを問題作として大騒ぎするのが不自然にも思えてきます。しかし、それなりの若者像に迫ろうとした“意気や好し”とできる快作であるとは思っています。