新宿武蔵野館の平日の午前中の回で観てきました。7月後半の封切から既に20日間ほど公開されています。夏休み期間中とはいえ、やはり、名作としての評価があるからの混雑具合という感じでした。一日に五回も上映されているのにもかかわらず、40人ぐらいは観客がいたように思います。
私もかなり早い段階からこの映画を観たいと思っていたのですが、武蔵野館の「上映期間:9月上旬まで」の表示を信じて、他の映画を優先していました。そして、夏休み系の大作で観たい映画がどどっと目白押しになる前に、比較的マイナーな映画をきっちり押さえておこうと考えての一連の“知名度イマイチ”シリーズの最終作です。
この映画を見に行くことに至った経緯には、色々なことがあります。まず武蔵野館にここ最近何回か通う中で、タイトルと何となくのストーリー把握ができてきたことは大きいのですが、タイトルの意味が「紙少年?」という感じで、非常に引っかかっていました。基本的には新聞社に勤める人々を日本語で「ブンヤ」と呼ぶようなニュアンスと、さらに、雑用係的な(つまり丁稚的な)意味の「ボーイ」が何となく重なっている言葉づかいなのだと分かりました。
そのペーパーボーイである主人公は大学中退の童貞少年で、一夏の中で或る事件を経て一気に大人への階段を駆け上がってしまうと言うストーリーで、一見、遥か昔の『課外授業』などの年上の女性に恋焦がれてしまった少年をその女性があしらうプロセスを描いた映画のように見えます。勿論、そのような部分も多々あります。しかし、この映画の魅力はそのような少年の通過儀礼の話に、幾つかの層が折り重なっています。
まず、最も厚く圧し掛かっているのは、1950?60年代にかけての南部アメリカの人種差別の構造です。その社会では、黒人差別が表向き禁忌となっていましたが、色濃く如実に残っており、その不安定なバランス感覚がストーリーのベースになっています。その南部の田舎町で起きた黒人いじめの保安官が殺害された事件を、町の出身でありながら、長く外に居たマシュー・マコノヒーが黒人の記事構成ライターと共にほじくり返しに現れると、町は口を閉ざし、あからさまな抵抗を始めるのです。この辺の構造は、名画『ミシシッピ・バーニング』に酷似しています。
しかし、対立構図は『ミシシッピ・バーニング』ほど明確ではありませんし、一応のハッピーエンディングが『ミシシッピ・バーニング』のように訪れる訳でもありません。対立構図がぐずぐずになってしまっているのは、白黒はっきりした人間がいないからです。マシュー・マコノヒーの父親は町の(多分唯一の)新聞社の経営者であり、有力者なのですが、過去の価値観に縛られたままの人間で、自分の愛人を会社に入社させては編集長にしたりするなど、全く好い加減な横柄なオヤジであったりします。しかし、それに匹敵するぐらいに、登場人物が皆、脛に傷を持つなり、後ろ暗い秘密を隠し持っている人間なのです。
保安官殺しの犯人は観客の予想を裏切って白人のジョン・キューザックで、限りなく粗野で下劣で愚昧な人間を嬉々として演じています。冤罪を叫んでいますが、彼の声は裁判でも全く取り上げられることなく結審し、死刑が確定しています。映画の中盤で彼は彼が軽蔑し差別し止まない黒人の一人であるライターが書いた記事がメジャー紙に載ることによって、州知事恩赦で釈放されます。しかし、その彼の冤罪の主張の真偽もかなり疑わしいことが後で分かりますし、大体にして、映画終盤で躊躇い無く残虐に殺人を犯しています。
その冤罪を証明しようと獄外で動くのが、写真の交換と手紙のやり取りだけで彼と婚約したエキセントリックな(波動で彼とはつながっているなどと言い出すスピ系の行っちゃっている人でもあるのですが…)女性で、これまた、ニコール・キッドマンが嬉々として演じています。自分の立場や目的をよく分かっている人間で、冤罪記事を書かせるために黒人ライターとセックスはしますし、ペーパーボーイの焦がれるような恋心を最初往なしつつ、一度だけと体を許します。結局、ペーパーボーイからの求めを拒み、殆ど見ず知らずだったジョン・キューザックとの極貧白人の、町と隔絶された沼地のど真ん中の原始生活のような暮らしを一旦選び後悔します。後悔が嵩じて、ペーパーボーイと連絡を取ったら、ジョン・キューザックの怒りに触れて、あっさり撲殺されてしまいます。
町の外から黒人ライターを連れて、黒人差別の真っただ中に、町が忘れようとしている事件を蒸し返しに戻ってくるマシュー・マコノヒーは、最初は弟のペーパーボーイの憧れで、知性もあり、都会の仕事もこなし、その上、傲慢な父とも対等に渡り合える存在として登場します。しかし、話が進むとともに、じわじわとおかしな面が露呈してきます。彼は同性愛者である事実を隠していたのでした。同性愛者でさらに、相手は黒人のみでフェラチオをさせることが止められない人間でした。
黒人があからさまな差別を受けていた時代の終わり、黒人のライターは、マシュー・マコノヒーの寵愛となり、「ロンドン出身だ」と周囲に身分を偽ることで、成り上がる機会を虎視眈々と窺っていたのでした。国の政治をも揺るがすほどの冤罪ネタをでっちあげ、ニューヨークに転職が決まると、あっさりとマシュー・マコノヒーを捨てます。
傲慢で権威主義者の父は、女を何人も取り換えた後、明かに才能も無さ気な中年女と再婚をすると言い出し、家で我が物顔で振る舞わせるのみならず、会社でも編集長の座に彼女をつけます。尊敬する兄は、同僚であったらしい人間に簡単に裏切られ、おまけに黒人相手の同性愛者であることが露呈し、黒人パートナーがさった後に、田舎町のバーで黒人をナンパしてリンチに遭い、半殺しにされます。ペーパーボーイからすると、単なる一夏の恋愛劇を通した成長どころではなく、このような現実と向き合わせられる酷い経験です。
さらにファム・ファタールたるニコール・キッドマンは南部の田舎のビッチ感満点で、刑務所の面接で初めてあったジョン・キューザックと見つめあって互いにオナニーを始めますし、海でクラゲに刺されて皮膚が焼けただれたようになったペーパーボーイに、「他の女たちには絶対に任せられないわ。私のじゃないと」と小便を掛けまくり、応急処置をします。さらに目的のためには黒人とも寝ますし、おまけに、一度寝てしまって離れられなくなったペーパーボーイを捨てて獣のような男と沼地で住むことを選び、後に彼に手紙を書き送ってきたので、助けに行くと、既に殺害された後でした。
尊敬がガタガタに崩れた後の兄も、ニコール・キッドマンを迎えに行った弟について行き、ジョン・キューザックに襲われた彼を救おうとしてあっさり殺害されます。酷い一夏の経験です。保安官の殺人から始まり、どこにもアメリカ人が大好きな真理だの正義だのが見当たりません。皆、無学で偏見に満ちた価値観で物を言い合い、何も噛み合っているように感じられません。
しかし、英語の理解力が当初少なかったことも理由の一つですが、少なくとも、私の留学先の大学から一歩出た田舎町は1990年近くのオレゴンでさえ、大同小異だったように感じます。訳の分からない理不尽な言説や迷信のような話を、互いによく分からないままに議論のネタにしていた場面が色々と思いだされます。沼地はありませんでしたが、ベトナム帰還兵などを中心に極貧に喘いで山林に住んでいる白人も多数いました。
アメリカの理想たる「Land of Opportunity」や「It’s a free country」を真剣に信じている人が年齢が上になればなるほど減って行きます。その極端な圧縮バージョンの通過儀礼を南部の目がくらむほどの日差しの下に引きずり出した名作だと思いました。極端な圧縮が起きても尚、空中分解せずに映画が成り立っているのは、名優達の安定した名演技ゆえのことでしょう。DVDは買いです。