『戦争と一人の女』

 改悪されたポイント制が、今度は終了しますと立てられた大きな案内板に蹴躓きそうになりながら、『プラチナデータ』のシアターを後にして、ネットで調べた事前情報では、たった10分後の『戦争と一人の女』の開始時刻に向けて、まさに脱兎の如く、テアトル新宿に向けて靖国通りを走りました。

 シアターに滑り込んだのは、開始2分前。つい先週『桜並木の満開の下に』を観た場所です。その際には宮台真司がトーク・イベントに来ていて、その後はロビーでサイン会まで開いていましたが、この映画はその後も連日、トーク・イベントを売りにして上映を重ねている様子でした。

 しかし、この映画を私が観に行きたいと思い立った理由は、やはり、江口のりこです。江口のりこの色白ののっぺりした華の無い顔と特にスタイルが妙にいい訳でもない風体から繰り出される、よく言えば何もかも達観したような言動、悪く言えば、人を食ったような態度やせりふが私はとても好きです。遥か昔の若い頃に、似たような顔・体型、そして言動の女性が好きになったことがあるのが、多分最大の理由だと思いますが、(本当の江口のりこはどのような人物なのか全く知りませんが)彼女の務める多くの役柄において、その放射される妖しさが突き刺さってくるように思います。

 実は私が観に行った日の翌日のトーク・イベントには江口のりこが登壇の予定でしたが、当日行ってからその事実に気付いた上に、スケジュールが全く合わなかったので、江口のりこが本当はどのような人物なのかを私は全く知りません。翌日のトーク・イベントは『「野田とちがいます 女優が見せるもうひとつの顔」』と言うタイトルで、彼女が最近主演を張って大受けであるらしいワンセグドラマ『野田と申します。』の本人との違いなどを語るとのことでした。しかし、画面で見る江口のりこで十分で、別に追っかけのファンになりたい訳でもないので、まあ、良いかと言う感じでもあります。

 追っかけのファンではありませんが、私はゆっくりと江口のりこに注目するようになったように思います。一番最初に前述のような魅力のある女優としての彼女に気付いたのは『非女子図鑑』での主役作品です。そして、映画館で逃して後にDVDで観た『ユリ子のアロマ』での堂々の演技です。怪優と言っていいと思いますが、思いのほか、主演作が少ないのが難点でした。ウィキで見ると、『ジョゼと虎と魚たち』、『スウィングガールズ』、『気球クラブ、その後』、『観察 永遠に君を見つめて』、『赤い文化住宅の初子』など数々の私が大好きな作品群に出ている筈なのですが、殆ど記憶に残らないような役柄です。さらに、『イキガミ』や『ヘルタースケルター』などにさえ出ていると言われると、DVDを山のように借りて、ウォーリー君の如く江口のりこを探しまくってみたくなります。

 その江口のりこの顔が大写しになったポスターが劇場内のあちこちにべたべたに貼られている状態は、私には興奮ものでした。喜び勇んで観に行ったこの作品はかなりのヒット作でした。以前、『ヒミズ』を観て、私は思い詰めた目線を投げる女性が好きと気付いたと書きましたが、もう一つの類型があることに気付かされました。それは、包容力に似た或る種の達観を備えた気だるい言動を重ねる女性です。例えば、『美代子阿佐ヶ谷気分』の美代子も一応それですし、『人のセックスを笑うな』の主人公も結構そうです。しかし、映画であまり描かれていないタイプの女性であると思います。その意味では、今回の『戦争と一人の女』のこの「女」と言う役どころは、直球ど真ん中の最高の作品です。

 例えば、戦争が終わって、坂口安吾本人がモデルの野村と言う物書きと(もともと戦争中だけ一緒に暮らすという約束だったので)別れが迫った時の会話があります。

「僕は(君を)可愛がったことなぞないよ。いわば、ただ、色餓鬼だね。ただあさましい姿だよ。君を侮辱し、むさぼっただけじゃないか。君にそれが分らぬ筈はないじゃないか」と言う言葉に対して、いきなり、「女」は

「でも、人間は、それだけのものよ。それだけで、いいのよ」などと、恐ろしく底なしに深い洞察を述べます。

 一方で、野村の些細な一言に、落ち込んでめそめそと泣き、女郎から年季明けした過去から、セックスをまるで食事の如く繰り返し、達することがないことを野村に詫びて泣きます。そして、自分をよく遇すること無い社会に対する怨嗟は時々表出して、東京大空襲のさなかに防空壕に避難することなく、燃え盛り人が焼ける様を見て「燃えろ。もっと、燃えろ」とディープ・パープルの名曲『Burn』の主人公のように呪詛の言葉を繰り返します。このブログに書きとめるようになってから観た映画では、このような女性像は殆ど登場していないことに気付かされます。コミックでなら幾つも見つかります。最高峰はやはり大好きな山本直樹の最も好きな作品『あさってDANCE』の日々野綾です。

 ここまで忠実に原作の坂口安吾の『戦争と一人の女』・『続戦争と一人の女』の世界観を再現しているのに、監督は、私には全く信じられないような原作からの乖離を施します。終演後のトーク・ショーによれば、「予算がなく戦争シーンを描けない中で、戦争の悲惨さを描き、戦争被害者を酷く描きたかったから」と言う理由で、片腕を名誉の負傷で失った復員兵が、強姦殺害を繰り返す様を並行して描くのです。全く原作にはない設定で、映画を見ていて違和感が湧きます。

 ずっと達することのなかった「女」が終戦後にも犯行を繰り返す復員兵の数少ない生還した被害者となる過程で、初めて絶頂に達する。つまり、「女」の生と性に基づいた達観と全てを飲み込むような包容が、戦争のゆがみや傷さえも中和してしまうようなプロセスと言うことなのだろうと、ギリギリ思われます。

 この復員兵は結果的に逮捕され、映画は、これまた、坂口安吾の素晴らしい原作にない、警察での尋問劇を繰り広げていきますが、その過程で、戦争で非戦闘員もどんどん略奪し強姦し殺したのが天皇の命令であり、それを行なうように訓練されたので、それを国内で行なったのも戦争の責任であろうと吐露したりするのです。根拠の乏しい左翼論説で読まされるようなベタ打ち原稿の反戦論をただ棒読みしているような安っぽいシーンです。

 さらに、終了後のトーク・ショーでは『「戦争の犬たちVS戦争と一人の女 超個性派俳優、強姦トーク」』と題されて、監督と端役出演者である、飯島洋一と瀬田直の二人が登場してダラダラと方向性や落とし所も不明瞭な雑談を続けていました。特に瀬田と言う男優は普段は外科医をやっていて、もうすぐ50の年齢なのに、男優になったのは数年前とのことでした。設定として無用としか思えない存在の復員兵を逮捕する刑事役で登場するのですが、その刑事役を得たのも、この映画の制作に出資を多額にしたからだと言うような話でした。他の二人の演劇や映画の文化に対する造詣を全く踏まえていないような、流れを読まない発言を重ねていました。主役の永瀬正敏が四日間本当に飲まず食わずで京都の撮影所の近隣を歩き回り、げっそりやせることで役作りを行なったなどの、聞く価値のあるネタも含まれてはいましたが、あまりに馬鹿げた先の男優の発言に途中で劇場を出ました。

 反戦映画としてみるとき、日本軍のしたことはそこまで酷かったのかきちんと検証されているのか否か、また、仮にそうであったとして、それが他国の軍と比べて特にひどかったことなのかなどが全く検証されていないような、単なる「第二次大戦は侵略戦争」と言う子供じみた単純な構図にはゲンナリきます。しかしながら、その意味では『キャタピラー』の幼稚な構図よりはかなりマシの映画です。それは、やはり、どこまでも冷徹な坂口安吾の当時の社会に対する洞察があるからであり、それが「女」と言う素晴らしいキャラクターに集約されたことによるものだと思えてなりません。

 蛇足のような設定の数々(原作では野村は死に至らず、二人の別離後の生活も描かれてはいません)は、非常に不本意ではありますが、それでも江口のりこ演じるこの上ない魅力的なキャラクターを得たいがために、DVDは絶対入手だと思います。