『愛のゆくえ(仮)』

ふとこの『脱兎見!東京キネマ』を見返して、どうもメジャーな作品が多過ぎるなと反省し、数カ月ぶりに映画.comを見て観ようと決めた映画です。久しぶりの東中野のミニシアターに出向いて観てきました。公開から既に10日少々。平日の夜9時からの回には20人近くの観客が居ましたが、そのうちの何割かは制作関係者やらその知人・友人と言う感じなのではないかと思えました。

上映20分前にロビーに入ってiPODを聞きながら周囲を眺めていると、「おッ」「どうも」などとやり取りしている人々がやたらに目につきます。その風体はやはり一般的なサラリーマンのそれとは思えない人々でした。さらに、ロビーの端で、「それで、『今日は…』とかって始めて、…で、そういうことをきちんと謝ってから…」などと、どうも舞台挨拶の仕込みをしているオジサンとおニイさんまで居ました。後者は上映開始前に挨拶に立った監督と分かり、パンフ(「フリーペーパーを是非お受け取りください」と退館時に配られたものですが…)から読みとれる人間関係から行くと、前者はどうもこの作品で初のプロデューサーを務めたという人物ではないかと推測されます。仕込みの中にあった「お詫び」は、本来主人公の二人の役者が上映前に挨拶する予定だったのが、仕事が忙しく予定が合わなくなり、上映終了後に挨拶に来ることになったと言うことについてのものでした。

この監督の挨拶は私には極めて特異な内容で、上映期間が延びて年末一杯、現状同様に上映されること、しかし、年末の最終二日間は一日一回だから注意を要すること。さらに、月の後半の上映後には現宗教団体ひかりの輪代表の上祐史浩と監督が対談を行なうトークイベントがあることなどを広報担当者の如く縷々語るのでした。地下鉄サリン事件以降、サラリーマン時代の職場で何かの議論の席で色々理屈を述べる場面があると、「上祐のような奴だ」と言われたことが何度もある私ですし、サリンで侵された千代田線の電車の二本前に載っていた私ですので、少々関心が湧きましたが、わざわざもう一度この映画の料金を払って観てまで上祐史浩を眺めたいとは思いません。

映画は、映画.comの説明によると「一連のオウム真理教事件に関与し、全国指名手配された平田信容疑者の17年間に及んだ逃亡生活と、その生活を支え続けた女性をモチーフに、いつか終わりが訪れることを予感しながら愛し合う男女の姿を描いたドラマ」と言うことですが、本当に「モチーフ」としてその設定が採用されているだけで、実際の出頭時期が昨年の大晦日であったのに対して、劇中では桜咲く時期となっていたりしています。また、平田容疑者にはその隠匿に関った女性が二人いると言う話ですが、劇中では単に男女一組で完結した世界が描かれています。

当然、二人は刑期を終えた後、再び共に暮らせるのか否かなどの議論も検討も為されていません。ただただ、世間に氏素性がばれない様に逃避行生活を繰り返す二人が、その未来を考えることなく、その生活に終止符を打つまでの約二日間を描いた話です。

転々としてネットの契約もできないであろうし、煙草の吸殻さえDNA鑑定を恐れて処分をしていると言うぐらいなのに、NHKの集金の可能性を危惧するのは当然で、テレビも見られないのは当たり前です。しかし、それでも、自分達の未来の展開を考えずにいられるほど、幼稚で場当たり的な人々として主人公達は描かれていません。しかし、過去の呪縛故に外に出ることができない男と彼を部屋に生かし続ける女の17年後の二日間を描いたと言う設定以外に何も明白な事実がある訳でもありません。

映画の紹介文ではその夜に出頭を決断する何かが起きるように書かれていますが、どうも観る限り、既に例えば数週間前から、そろそろ限界だと言う話が起きていて、覚悟の上でその日を迎えたように観た方が自然に思える部分もありました。そう言う観点で見ると、この映画は妙に現実感がありません。それもその筈、この映画はもともと同名の演劇の脚本として作られたものです。殆ど同時並行で映画版のシナリオがつくられたと言うことが先述のパンフにあります。

女の方が「洗濯をする」と言ってフルヌードになるシーンもあれば、劇中二度三度と台詞やモノローグで、「抱かれて眠るときだけ」熟睡でき、嘘に塗れた現実を忘れられるなどの女の心情が吐露されるのに、濡れ場どころかセックスの気配さえ描かれていません。実はこの脚本は劇中の女を演じている前川麻子と言う女優が書いていて、パンフによると、この女優の方から監督に濡れ場を入れてはどうかと提案が為されたらしいのですが、その案は採用されることがないままに完成を迎えたようです。

映画は全編モノクロで、普通の部屋や荻窪の街並み、さらに男が出頭前に彷徨う新宿の雑踏や、ほんの少々現れる女の職場などを描いていますが、(一応中高生の頃、演劇部に所属していた私にはそれなりに)どれもが芝居になったらこんな舞台装置になるのだろうかと想像ができそうな作りに感じられます。フリーペーパーと呼ばれるタブロイド新聞状のパンフにも『愛の通信(仮)』とタイトルがついていて、その内容を読んでも、どうも、小劇場の小劇団のノリを各所に感じてしまいます。二つの脚本はかなり異なると本人達は言っていますが、やはり演劇の延長にある映画である感じが否めなく、私はそれが何か映画であることの強みを生かせていないように思えてなりませんでした。

劇中には、過去への贖罪に男が言及することなく、二人で身ぎれいになった後、共に暮らそうと誓う場面もありません。その日が来たが最後、別れることが前提の二人のように映画は只管彼らを描きます。構図としては過去に何かの因縁があってヒモ生活を送らざるを得ない男と、その男が恋しくて止まないが故に行動を共にし、17年を名前も過去も偽りの日々を維持し続ける、古女房のようにふるまう女がいます。

男は「いつかお前が仕事に出掛けたっきり、戻って来なくなり、腹を空かしながら自分が捨てられたと気付く」不安に苛まれると言い、女は「或る日、仕事から戻ってきたら、部屋にあなたが居なくなっている日が来るのかもと思うのが耐えられない」と吐露しています。その引きあう根拠は分からなくても、間違いなく求め合い続けた17年を過ごした男女の姿がそこにあります。

この前提で映画を観た時、一つ私はどうしても疑問に思うことがあります。

それは、なぜ男は出頭を選んだのかと言うことです。男は女に偽りの生活を強いる結果になっていることで自分を責め、部屋から一歩も出られない自分の世話を女にさせ続ける自分自身に厭になった様子です。そして、これはどうも現実の平田容疑者もそうだった様子ですが、東日本大震災で世間が色々な意味で力を合わせている時に、(決して、咎人として逃げ続けている自分の卑怯ではなく)ただそれを傍観している自分が耐えらえなくなったと言うような設定も為されています。

しかし、女の方は、好きな男と暮らせる毎日がすべてなのであり、それを負担に感じている節が全くありませんし、本人もそれを明言しています。勿論、その隠匿生活を楽しんでいる訳でもありませんが、淡々とそう言うものとして暮らしています。彼が婚姻届を持ってきて籍を入れようと夢見るが、それが叶わないことも知っている。そして、いつかこう言う日々を終わらせたいと男が心の奥底で思っていることも知っている。それでも、その男に抱かれて眠りたいと女は言います。

私は自分の経営について書く筈のメールマガジンに、こともあろうか、高校時代の進路指導担当の教師に、お前の将来の夢は何だと尋ねられて「ヒモ」と答えた事実を書き綴って公にした人間です。子供時代に法定伝染病を二つもやって、隔離されたり寝たきりの日々を永遠に感じられるほどに送ってきました。さらになぜかやたらと事故などによって骨折などもしました。ただただ微熱や疼痛に耐えながら部屋の同じ風景を眺めつつ、大量の薬を飲み続け、頭が冴え渡るようなこともなければ、気分が爽快になることもない中、本ばかり読んでいました。早くに離婚して、洋裁師だった母は再婚することもなく、寝ている私の近くでミシンを踏んで仕事をしていました。

行きつけのバーのママは、「人間、大病をすると、死生観が変わるだろ。それをあんたはずっと変わったまま今に至ったと言うことだろ」と言います。不謹慎は重々承知乍ら、私は今の人生がDVDに収録された特典映像の中の別エンディングのように常に感じています。私の本質をよく知る編集者時代の先輩からは、「お前の好きな言葉を当ててやろう。『不倫』だろ」と言われたことがあります。非常に惜しい答えで、正解は『背徳』です。生身の人間にはやろうと思ってもできないことも、守ろうと思っても守れない約束も、山ほどあって、耐えて足掻いて努めつつ、過去に対する後悔や今の無様を引き受けるしかないものと思っています。そんな中、例え徳に背いてでもやり遂げなくてはならないことが出現することは、途方もない幸せなことではないかと私は思います。

出頭していない男が世間と隔絶されて、女の人生の犠牲の上に成り立つ不自由だらけの人生を送ることは、少なくとも劇中で観る限り(被害者の心情を考慮するという視点が存在しない演劇的展開ですから)、十分彼にとっての罰が下されているものと思えます。仮に出頭した所で、世間と隔絶された懲役の世界で、世間様の「血税」でただ生き延びさせられるだけになるのですから、構図的には全く変わりません。出頭しても出頭しなくても構図が変わらないなら、なぜ自分を選んでくれた女性と共に生き、籍を入れることができない現実を変えることはできなくても、その日常を維持することを選択し、せめて女に報い、女に安寧を供する行為を選ばなかったのか、私には理解しかねます。

薬師丸ひろ子のアイドル映画の筈だった『セーラー服と機関銃』にさえ、忘我の男女の営みがあるほどに、人間の業を描くのが映画の世界であるなら、このテーマにして、単なる男女の会話劇に収まった展開には少々がっかりしました。しかし、それでも尚、男女の関りや日常の重みについて色々と考えさせてくれる作品です。DVDが出ることがあるなら、買いです。