『のぼうの城』

公開後4週間近く。公開後に人気が出てきて、動員が異例の伸びを示しているという話を聞いて、何度か二度ほど映画館に足を運んではその混雑度合いに諦めていました。混雑度合いが非常に気になる理由は、通路側の端の席をとりたかったからです。この映画は2時間25分もあり、予告編その他をいれると2時間35分の上映時間が設定されています。トイレが近い方の私は、途中でトイレに行くことになっても、人に迷惑がかからず、通路に簡単に出られる場所を確保したかったという訳です。

新宿ではバルト9とピカデリーの二館でやっていて、現在一日四回の上映を行なうバルト9の平日の夜8時半からの回で観てきました。バルト9の中では小さい方のシアターでしたが、席は半分弱埋まっていて、まあまあの入りでした。異例の人気の理由が何であるのか、特に調べてもいませんが、観客層の幅広さから、どうもやたらに数の多いメジャーな俳優陣がその原因かと思えます。

『陰陽師』二作を含めて、数少ない映画出演である野村萬斎は元より、佐藤浩市やぐっさん。私も『イキガミ』や『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』、『乱暴と待機』などで最近まあまあ好きな山田孝之、さらにまだまだと多彩な男優陣に、時代劇初出演と言う榮倉奈々に加えてダメ押しに芦田愛菜とくれば、かなり幅広い層に受けるのも不思議はないかと思えます。『テルマエ・ロマエ』で風呂好きなローマ帝国皇帝が、今度は豊臣秀吉になってまた風呂に入っている場面があるのには笑ってしまいました。

因みに、いつも書いている通り、私にとっての山田孝之は、まだまだ細身だった頃の『ちゅらさん』の主人公の弟役が一番印象に残っていて、さらにその後の『ドラゴンヘッド』の印象が強く残っています。『イキガミ』で観た彼のマッチョ体型への変貌には驚きましたが、その後、観る映画ごとに自然に役をこなしている安心感がある男優です。これから観ようかと思っている『悪の教典』にも『その夜の侍』にも出演していて、さらに、観ようか迷っているうちに上映が終わってしまった『闇金ウシジマくん』でも主人公と言うことで、最近本当によく出てくると言った印象です。

この映画の魅力は、その内容が胸の空く戦闘物語の王道、「小の正義が大の理不尽に打ち勝つ」ものであることです。現在の埼玉県行田市の場所にあると言う忍(おし)城に籠城する500人の侍が、天下人豊臣秀吉配下、石田三成率いる2万の軍勢を退けるという、或る程度史実に基づいた話です。この500人対2万人と言う構図は、『300』の300対100万に比べると、僅かに勝算がある戦いであるようには思えます。しかし、『300』と異なり籠城戦で、おまけに場内には非戦闘員である村人が多数いて、さらに、石田三成の仕掛けた水攻めで城の大半が水没し、生き延びた農民ら全員を本丸に囲い込んでの戦いです。不利が重なっていますので、籠城戦の鉄則の長引かせないうちに講和や援軍の到来などで有利に終結させると言う展開にならないとハッピーエンドとは言えなくなってしまいます。

この映画では、籠城戦が終わりかけ、一気に敵が攻め込む所で、本城である小田原城の後北条氏が敗れ、その22(だったと思いますが)の支城の中で唯一この忍城が落城しないままに終戦を迎えることができたと言うことでした。この結果、石田三成と有利に講和を進め戦闘を終結できたという流れです。非戦闘員を多数巻き込んだ戦いで、悲惨な結果にならない内に、有利に至った戦いを描いたと言う意味では寧ろ、先述の『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』の方が、構造的に似ています。

私は先述のような役者陣に特に(映画館に足を運びたくなる動機が湧くほど)好きな人物がいる訳でもありません。この映画を観に行きたいと思った最大の理由はこのランチェスターで言う所の「弱者の戦略」の事例を知ると言うことでした。『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』よりは多少マシですが、『300』などよりも、「弱者の戦略」が全開と言った場面は少なく、少々物足りなさが残ります。それでも、畦道の隘路を戦場に選び多勢の進軍を阻む場面や、『七人の侍』ばりに敵を導き入れては集団で火攻めにしたりなど、「弱者の戦略」の勝利の要諦である「武器効率を上げる」、「戦闘局面を絞る」の二要件を満たした戦いの場面が幾つか登場します。さらに奇襲攻撃や心理戦も加わって、きちんと「弱者の戦略」を実現して見せてくれます。

一般的には、潔くなく、快勝に至ることの少ない「弱者の戦略」を確実に実行する時には、大抵無理解な職業軍人が反対したりする構図が『硫黄島からの手紙』などでも見られますが、『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』でもこの映画でも、非戦闘員がそのようなことに異論を唱える余地は少なく、理想に近い作戦が展開されていると言うことと読みとれます。

パンフや映画評には、この映画が、領民からでさえ木偶の坊の意味で「のぼう様」と呼ばれた、野村萬斎演じる殿様が、「のぼう」の状態から危機におけるリーダーに成長する姿を描く人間ドラマであると書かれています。リーダーと言うのは資質の問題にはあまり拠らず、状況によって発生した役割を引き受けることによって半自動的に生じるものであろうと私は思っていますので、その意味では「成長の物語」とする説明には一応同意できます。

ただ、少々、この点が私には額面通りに受け止められない要因が二つあります。まず大きな理由は、野村萬斎の演技が何か妙に臭いのです。他の役者が普通に時代劇を演じている中で、どうも独り、いつものままの狂言師を演じているように見えてなりません。そこが浮き立って見えてしまい、とても違和感があるのです。

さらに、この違和感によって、映画を見ている最中(さなか)に、「このような人物が本当に史実としていたのだろうか」とか、「どこまでが史実なのだろうか」との疑問が、余計に湧き易くなります。果たして、パンフレットの歴史家の説明によれば、主人公はこのような性格の人ではなかったということが分かります。狙ってそのような戦略を採用した軍才である様子です。ただ、城に多数の百姓を匿ったことは本当で、それだけ領民から慕われていたと言うことも事実のようです。

怒鳴ることもなければ指示することもない、今流行りの動機づけによって領民を鼓舞し、その数々の働きによって戦闘を有利に展開すると言うのは、現在組織論で言われる理想のリーダー像であるように見えます。その意味では、ボトムアップ型の日本的組織経営を体現したような組織が、トップダウン型の従来型経営の組織を打ち破り本質的な勝利を収めると言う物語とも見られます。これはこれで美しくはありますし、まとまりも良いでしょうが、狂言師野村萬斎が演じると作りもの感がいや増すのです。

劇中でも、戦に参加したいと言い出すのは領民側ですが、それを鼓舞したのは野村萬斎で、それ以降、領民達を戦術の中に当て込み、機動的に要所要所で活かしたのは幹部であり、その幹部達は戦術に異を唱えさせることを許さず、怒号や恫喝を持って指揮していた事実は重要です。

中途半端に史実を意識させずにはいられない、わざとらしさが玉に瑕ではありますが、面白い歴史ドラマだと思います。苫小牧で巨大なセットを作って撮影したと言う水攻めで水没する村の場面なども圧巻です。登場人物も多く、NHKの大河ドラマの総集編のように感じます。

エンドロールでは、現在の行田市が映り、平穏に過ごす現代の人々のその街での生活風景が描かれます。石田三成が築いた土手が残り、城址跡も高台になって残っている様子です。そこに見事に咲く桜が多分劇中の昔からあったのかもしれないとつい想像を巡らせてしまいます。行田市がもう少々東京に近ければ多分現地に見に行ってしまうぐらいの魅力のあるエンドロール画像です。

DVDは出れば買いです。