『夢で逢えたら』 (特集上映『のんきな(七里)圭さん』)

平日の夕方遅く、以前からチェックしていた『のぼうの城』が二時間半近くの大作であることに臆しつつ、新宿のピカデリーの6時過ぎの回の空席状況を見に行ったら、封切二週間経ても満席間近の混雑状態でした。諦めて何を見ようかと考え、新宿の映画館の上映作品を調べてみたら、南口・東口中間地点のような場所にあるケイズシネマで、七里圭の特集上映が行なわれているのを発見しました。

11月10日土曜日からたった一週間、一日4セットの各種作品の上映会です。午後7時からの回は短編三作品で一時間弱の枠におさまっているというものでした。私にとっての七里圭監督は、何と言っても、このブログの初期の頃に短い記録を残している『眠り姫』を作りだした人です。

私が多分一番大好きな漫画家山本直樹原作で、台詞から場面イメージまで忠実に再現して『眠り姫』を映画化しているにも拘らず、この映画には(ほんの一瞬の画像を除いて)ほぼ完全に人物が登場しないのです。音と、光と影で彩られたフィルムの粗さが感じられる柔らかな、どこにでもありそうな風景の積み重ねで、『眠り姫』の世界を確実に映像作品として完成させている、異常なまでに凝った作品です。七里圭監督は、山本直樹原作の作品では『のんきな姉さん』と『眠り姫』の二本を作っています。2004年に発表された『のんきな姉さん』はDVD化されて私も持っていますが、2007年発表された『眠り姫』は今尚DVD化されることなく、あちこちの映画館で執拗にアンコール上映が繰り返されています。

当日私が入手したチラシによると、17日土曜日には渋谷のアップリンクで『闇の中の眠り姫』と言う伝説のイベントが再開催されるとされています。この『闇の中の眠り姫』は、映像なしの大音響で『眠り姫』を聞くと言うイベントです。この映画の根強い多数のファンの存在が、この話だけで十分に理解できます。

さて、この『夢で逢えたら』もタイトルだけで言うと、山本直樹の作品に存在するのですが、全く関係のない作品のようです。(特集上映のパンフレットがなく)見開きのチラシによると、2004年に一旦『のんきな姉さん』の撮影を開始しますが、それが頓挫し、それまでに撮影が済んでいた画像をつなぎ合わせて、全く別の作品としたのがこの作品と言うことでした。

この作品は、『眠り姫』や『のんきな姉さん』の原型とも見えるような七里圭監督のスタイルや取り組みがみられます。35ミリフィルムで撮影されていることもその一つですが、それよりも際立っているのが、見開きチラシによると、現場環境の悪さ故に同時録音ができなかったからという理由らしいのですが、全く登場人物二人の声が音声に含まれていないことです。川のせせらぎの音や、ものを食べる際の食器のぶつかる音などは、後から取ってつけたようにやたらに大きく聞こえますが、登場人物達の声は全く聞こえません。登場人物達は言葉少なですが、間違いなく何かを話しています。読唇術でもできれば、或る程度、流れを解読できるのかもしれませんが、基本は若い男女一組の何らかの物語がそこにあるだけです。

『のんきな姉さん』は近親相姦の姉弟の物語ですが、結果的に完成した方の『のんきな姉さん』とは配役も違いますし、少なくとも私が見る限り姉弟にも見えません。バスに乗っていて転寝をして起きたら記憶をなくしていた男が、多分付き合っていた女と再び会い、もともと住んでいた所に戻ってくる(ように見えます。)そして、今となっては見ず知らずの女になってしまった相手と躊躇いつつ同衾する暗転で、たった一回だけ、男は「これ、僕?」と言い、女は明るく「そうだよ」と答える声が入ります。いきなり翌朝らしきシーンになり、男は多分記憶を取り戻すために再びバスに乗って旅立ち、女は途中までバスに同乗するものの、寝入る男をバスに置いて、途中のバス停で降り、振り返らずに去っていくのでした(と言う風に私には見えました)。

映画と異なり、小説は読む者に場面を想像する自由を残しています。この映画は他の映画と異なり、観る者に言葉と物語を想像する自由を残している、非常に奇妙な構成です。35ミリフィルムのざらざらしていながら何か粘りのある質感の映像とこの奇妙な特徴故に、20分の上映時間が大きな音響を伴う風景画を連続でも観ているような気分になっているうちに、あっさり過ぎ去ります。

DVDになることはないものと思いますが、なれば勿論買いです。