観に行こうかと思っていたら、娘も観に行きたいと言うので、札幌駅に直結した映画館の土曜日の午後の2Dの回に出向きました。本数を増やしたJRによって結ばれた半径約150km圏からの買い物客で、札幌駅周辺は駅を含む大型の商業施設が完成してから、それまでの商業中心である大通公園周辺以上にいつもごった返しています。その混雑を避けて、いつもは自宅から反対方向に位置する小樽市の映画館に行くのですが、今回は仕方なくの札幌駅での映画鑑賞です。なぜかと言うと、この映画をやっているのが、北海道全土でここ一館しかないからです。2Dと3Dを合わせて一日3、4回の上映を行なっているのが、本州の約四割の面積の土地に住む約550万人の道民に対して一館だけです。人口比で行くと、東京都では三館ぐらいで上映すれば十分と言うことになります。驚きの数字です。
封切からたった一週間目で、既に2Dは一日一回の上映で、混雑を想定して事前に予約をしていましたが、席は半分も埋まっていなかったように思います。若い層もそれなりにいましたが、往年の009ファンのような年代層もかなり見受けられました。仮面ライダーやウルトラマンシリーズのような二世代連れの観客もそこそこいるように思います。
私は石ノ森章太郎(私の時代ですと石森章太郎ですが)の作品はコミックよりもどちらかと言うとTV実写で観ていました。「仮面ライダー」シリーズ、「キカイダー」シリーズ、「イナズマン」シリーズや細かくは「ロボット刑事K」など数々ありますが、コミックでは後に好きになってシリーズを集めた「009ノ1」と幾つかの作品しか馴染みがありません。この点では、アニメよりもどちらかと言うとコミックで作品に親しんでいる、石森章太郎の弟子筋の永井豪作品の方が、より多く知っている気がします。
009はそんな石ノ森章太郎作品の中で、全く見ていない作品で、9人のキャラクターが辛うじて何となく分かる程度で、009が島村ジョーと言う名前であることも知りませんでした。この映画を観に行くことにした動機は、自分の中で漏れている有名作品を知っておこうと言うのが一番ですが、『攻殻機動隊 S.A.C.』の神山健治が監督であると言うのもかなり大きな点です。
原作の世界観を豪華なパンフを読んで初めて知ったのですが、本作は未完の原作で神(人間の造物主)との戦いの設定を引き継いでいる様子です。不善を為し、間違いを犯し続ける人間を、人間の造物主が作り直しに現れた時に、それは人間が家畜の品種改良を行なうのと同じであろうと考え、敵として造物主に抗い闘うことの意義が問われる作品がある様子です。これは、リメイクされた方の(このブログにもある)『地球が静止する日』でも、ウルトラセブンなどの物語でも、私が好きな安部公房の『人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち』でも共通しているテーマです。
その壮大な設定が遺憾なく活かされている凄い作品であると思いました。この点だけでももうこの作品のDVDは買いです。神が存在は不問となったままで、各地に存在する「天使の化石」を目にした人々、若しくは何らかの同種のメッセージを受けた人々が全世界で破壊的行為を繰り広げる設定は、まさに『攻殻機動隊 S.A.C.』のスタンド・アローン・コンプレックスそのものです。
さらに、これらの何かの組織の陰謀などに操られているのではない人々がその行為に至るプロセスは、人間が個々の脳内に神を作り上げた結果として劇中で説明されています。これは宗教です。エンディングでは地球を宇宙空間から俯瞰する画像が続き、最後には月の裏側がアップになります。その月の裏側にはやはり、天使の化石があるのです。これは例の造物主が宇宙生物であると言うことの提示と捉えることもできますし、人々をルナティックにする月の暗示とも取れます。
神を人々は個々に作らざるを得なかったのであって、その宗教と言う結晶化した思いが過去から現在に至るまで、神の名において人々を殺戮し続けていることは紛れもない事実です。個々の神々や正義を振り翳すことの過ちを徹底的に抉り出す構造の物語にもなっています。この映画が海外の一神教原理主義の人々に見られた場合の評価にとても関心が湧きます。
キャラを見ると、リーダーの009が高校生を30年近くに渡り、味方によって3年単位で洗脳のようなことをされ続けて、反復している状態が続いたせいか、オリジナルの設定よりも少年っぽく無口で意見を明確に表現することが少ないようです。それに対して、紅一点の003は、そんな009の監視と洗脳を続ける傍ら、009への恋愛感情を募らせている設定になっています。洗脳のタイミングごとに立場を共通にしてきたため、今回も洗脳明けのシーンで、「また三歳私が年上になってしまった」と下着姿で009にしな垂れかかります。3年に一度しか表出させられない恋の設定が、彼女を非常にエロティックな存在にしています。
原作に較べてやたらに垢抜けしているキャラクター達は、まるで『攻殻機動隊 S.A.C.』シリーズのキャラクターのようにスタイリッシュな言動を重ねていきます。しかし、どうも新技術と言われるCG作画技術がうまくこなれていないのか、普通の歩行のシーンなどが人形劇の人形のような、ぎこちない歩き方に見える気がします。戦闘場面などカットが多く速いシーンでは気にならないこのぎこちなさが、ゆったりとした会話や歩行のシーンでは妙に目立っているのが少々難点です。
パンフレットでも全く言及のない神々しい少女のキャラクターは何であるのかとか、所謂「夢オチ」かと思うようなハッピーエンドのあり方に多少の疑問の余地は残りました。前者は、彼の声(英語で言うなら大文字のHis voiceで、結局神の声と言うことでしょうが)を聞けないままに、その存在に気付いた者の前に現れるメッセンジャーのような存在なのであろうと、とりあえず納得することにしました。
後者の方は、考えてみると、例えば筒井康隆の『七瀬ふたたび』で死んでしまった主人公七瀬が第三作の『エディプスの恋人』で、彼女が初めて恋に落ち処女喪失した大いなる存在によって自分が生かされていることに気づく展開に酷似しています。石ノ森章太郎の元もとの意志(遺志であることでしょう)も多分こうであったと想定すると、遥か以前に完成されていたセカイ系を再発見する思いです。考えてみると永井豪の『バイオレンスジャック』や『手天童子』などにもこの手の「世界の瞬時の変貌」は頻出していました。
たった107分の短い尺に、原作当時の世界史観や宗教観などをてんこ盛りにして、2013年の世界都市と政情を舞台に、大人のエンターテインメントを成立させた素晴らしいアニメ作品だと思いました。