『アウトレイジ ビヨンド』

改悪されたポイント制度で、いつまで経ってもタダで映画を見せて貰えない新宿ピカデリーの平日の夜の回で、観てきました。封切後三週間弱、終了時間が終電時間間際の回では、まあまあ広めのシアターが空き席だらけでした。3割は埋まっていない状況だと思います。ロビーでは、ほぼ同時刻に始まる『エクスペンダブルズ2』や『ボーン・レガシー』、『踊る大捜査線 THE FINAL』などの観客でごった返していましたが、エスカレータを上がって自分の行くシアター二番では、その程度の込み具合でした。この映画の方が、他の開場作品よりも若いカップル客が多かったように思います。

前作『アウトレイジ』はDVDで観ました。劇場で見ようか見まいか迷っているうちに、終わってしまったというのが本当の所です。それを思い起こして観ることにしたのは、行きつけの飲み屋のバイトのお姉ちゃんが、私の着ている『美代子阿佐ヶ谷気分』のTシャツを観て、「良いですよねぇ」とか言うぐらいの(少々偏向気味の)映画好きなのですが、その子が何度も「観るべきですよ」と言っていたのと、封切後少々経ってから、私がまあまあ好きな渡辺奈緒子が濡れ場を演じていると知ったことに拠ります。

その『アウトレイジ』をDVDで観て、私はそこそこ気に入りました。北野武監督の暴力系映画は、私はあまり好きではありません。『ソナチネ』や『その男、凶暴につき』など、幾つかの作品を観ていますが、妙に画像が明るく、そこに不釣り合いな暴力を捻じ込んで、不自然にその不条理さのようなものを表現する画像が、どうも好きになれませんでした。止むに止まれぬ理由も特段ないようなのに銃をただバンバン撃つような他の作品と異なり、公開当時色々と物議を醸した『血と骨』の方が、情念に支配された暴力性の表現をしていて、(少なくともその点では)私は好感が持てるように思っています。

『アウトレイジ』が、そのような北野武監督の暴力映画に比して好感が持てる理由は、やくざ映画の体をなしていることが大きいように思います。ヤクザの集団が一応一定の筋を通すという行動様式やその世界のルールに従って行動している中での、形式に則った暴力であることが、何かの安心感を観ている者に与えるように思えます。

本来、やくざの抗争であっても、ミクロ的に見れば、組員同士の集団での乱闘のような場面は発生してしかるべきものと思いますが、殆どそのような場面はありません。まるで、波が岸辺のあらゆるものを飲みこんで行くように、殺す側が一方的に相手の集団の構成員を順に殺していく場面が描かれます。殺されている方の組織は、基本敵方の殺戮が終わるまでなされるがままです。

本当のヤクザも、怒鳴り合い、罵倒し合うことで、何の得にもならない殺し合いを回避しているのだと何かで読んだことがありますが、劇中でも、「何だと、コノヤロー」、「寝ぼんけんじゃねーぞ、バカやロー」が連発され、怒号が飛び交っている間は死者が出ることがありません。怒号が止んだ時が先程の一方向にのみ向かう暴力による連続的な死者の発生の始まりになっています。これは或る種の様式美です。現実のヤクザの抗争がこうではない筈と思えても尚、分かりやすい物語として見続けることができます。そして、映画体験がどのような者でも、簡単に予期できる死亡フラッグを全く裏切ることなく、死すべき人々はどんどん死んでいきます。

その前作の『アウトレイジ』よりも、この第二作目の方が私はさらに好きです。渡辺奈緒子は前作で椎名桔平と激し目のセックスをした数分後に惨殺されますが、第二作ではそのような濡れ場を演じる女性がまったく登場しません。(一人、背中全面に施した刺青を見せるセミヌードの女性が登場はします。)警察以外の組織では、ヤクザ系が三集団と在日組織が一つの合計四つの勢力しか登場せず、さらに前作に比べて裏切りがあまり発生しないので、かなりシンプルに見えます。さらに第一作では先述のような殺戮の波が一方向に流れた後、反転して逆方向に一方的な殺戮の流れになるですが、今回は一方向に流れておしまいです。

お色気サービスカットもなく、ストーリーもシンプルになってしまうと、自ずと登場人物達の人物描写と一方向に流れることで徹底して見える殺戮シーンが、否応なく際立ってきます。この際立つ部分には、前作に比べて演技派の役者陣を配置することと、その豊富な俳優陣を贅沢に使うことで対処したと言う主旨が、パンフレットに書かれています。その通りだと思います。

前作で生き残った配役の人々も北野武以外に、三浦友和や小日向文世などがいますし、第二作から登場したヤクザ陣にも、中尾彬、名高達男、三石研、神山繁に加え、西田敏行が嬉々として幹部を演じています。これだけ数が揃っているので、まるで有名ギタリストを3~4人集めてしまったロックバンドのように、メンバーにソロパートや目立つ演奏の場が殆ど与えられません。『特命係長 只野仁』のイメージがこびり付いて離れない高橋克典などはヒットマン役でかなり執拗に画面に登場しますが、まるで全く無名の役者の如く、遠景からの撮影だったり、運転中の横顔だったりなどで、正面から表情をきちんと映した絵が殆どありません。大体にして、無言でターゲットを淡々と殺していくので、台詞が一切ありません。

新たなヤクザ勢力は関西ヤクザなので、関西弁の罵倒や怒号も加わって、飽きが来ないうちにどんどんストーリーと殺戮は進んで行きます。このシンプルなストーリーに耐え得る体制を練って用意してある所が、第二作が面白く安心して見られる作品になっている要因に思えます。DVDは勿論買いです。

前作ではかなりの広告費が投じられて『全員悪人』と言うキャッチがメディア上のあちこちに溢れました。今回もこのキャッチは一応使われていますが、私には全員悪人には見えません。この映画に登場する人々は善悪の物差しを当てても判然としない人々ばかりです。しかし、『律儀に義理を果たし欲に駆られない人々』とその対極に位置する人々の物差しなら登場人物のポジショニングを明確に表現できそうです。前者が死ぬ時には概ね時間が止まったような死相が、後者が死ぬ時には惨めで残酷な死相が用意されています。そして、前者の頂点に立つ人間が、北野武演じるヤクザの元幹部の大友である訳です。

善悪がない以上、勧善懲悪の構図はあり得ません。しかし、この映画の小気味良さや面白さは、北野武演じるヤクザの元幹部が律儀に筋を通し、欲に溺れることなく生きて行こうとしていることに対して、(前作と異なり)それなりに報いていることだと思い直しました。