『適切な距離』

 日曜日のレイトショーを新宿南口のミニシアターで見てきました。以前、『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』を見た映画館です。『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』は好評の様子で、今尚、一日四回もやっています。二週間限定の一日一回の上映しかない、この『適切な距離』とは大分状況が異なります。それでも、公開一週間を過ぎて、約20人少々は観客がいました。

 毎日の上映に監督が必ず立ち会っているとのことで、上映開始前に挨拶をして、「『この映画は笑っていいのかどうか迷う』というような声を聞くが、勿論、笑える所もあるので、是非笑って欲しい」と言うような主旨を述べていました。

 映画は(多分)大阪の母親が看護婦の母子家庭で育つ大学生の一人息子を中心に、彼の母と(離婚で)別に暮らす父との関わりなどを描くものです。彼には本来双子の弟が居たはずなのですが、死産だったため、仏壇に納まっています。母に拠れば父は暴力が酷く、離別に至ったと聞かされています。物語は、主人公に10年前の自分が書いた年賀状が或る年の元日に届き、それには「今でも日記をつけていますか」と書かれているというできごとから始まります。彼はいつかの時点から日記を止めており、その年賀状をきっかけに日記を再びつけ始めます。

 そして、普段、必要なことさえ話さない努力をしているとしか思えない程に会話が全くない母親が自分の日記を読んでいることに気づき怒ります。腹いせ半分に母の部屋に立ち入ると、母も日記をつけていることを発見します。この日記が殆ど著作の域に達していて、如何にもフィクション的なのですが、妄想の産物なのです。死産した息子の方が彼女の理想の息子に育ち、その息子との同居の毎日が(実在の息子との生活上の出来事をベースに)描かれているのです。さらに、やり過ぎ感が滲むのが、実在の息子の方の妄想の中での扱いです。なんと、実在の息子の方が仏壇に納まっているのです。そして、理想の息子の方は、自分の誕生日に供物を用意して仏壇に手を合わせたりして、妄想の中で母はそのようなできた息子に心打たれていたりするのです。

 二人は互いに互いの日記を読んでいるということを知りつつ日記をつけ続けます。この母の異常さは、実の息子が、自分が亡き者にされている自分の妄想日記を読んでいることを知っても尚、その妄想日記をつけ続けるところです。主人公はその設定にも激怒しますが、憎しみを募らせつつ、読み続けます。母が妄想の中で息子が高い棚の上から餅をとってくれて美味しく二人で食べたなどの記述を執拗にすることから、主人公が棚の上から餅をとって「言いたいことがあるなら、直接言え」などと悪態をつくシーンなどがあり、クロスした情報発信者と受信者の関係が間接的なコミュニケーションの形をとっていきます。

 それでも、母への憎しみから、主人公はずっと会ってこなかった父に会う決断をします。それを日記に綴り、とうとう家に父を招くことまで勝手に決めてしまいます。会ってみた父は、日々の生活への不満を息子にぶつけ、何かと言えば、別れた夫の暴力をしつこく論う母から聞かされていたのとは全く異なる温厚で寛容な人物で、決して母の悪口を言うことはありませんでした。母の今までの態度の身勝手さに気づき、さらに嫌悪を深めた主人公は結果的に映画の最後まで母と明確に和解することがありません。父が来た家の様子は母の妄想日記の方で描かれていますが、その妄想日記の息子は、いつものできた息子の姿はしていても、発言の中で現実の息子のように、彼女を詰って来る場面が発生しています。このように徐々にコミュニケーションは進んで行きますが、それが理解や共感、和解などに向かうことは基本的にありません。直球の映画タイトルであることが分かります。正直言って、私はこの映画の母の設定がどうも非現実的に感じられて、好感が湧かないままに映画を観終わりました。それでも、私はこの映画が一応好きです。

 一つは日記が媒体として採用されていますが、他人が読むことを前提とした日記付けというのは、今のSNS各種では、当たり前に誰もがやっていることであることによると思います。それを嫌悪しあう家庭内の二人の人間関係に持ち込んでデフォルメして見せたという意味で見ると、何か社会学的実験結果の説明のようにも感じられます。映画の結末でこの形のコミュニケーションの空しさを悟ったのか、主人公は新たにつけ始めた日記を総て破り捨てて、燃やしてしまいます。描かれていませんが母の方は日記を維持したままなのでしょう。私は誰が読むともしれないネット上の場に、日記を公開する意義が全く理解できない人間なので、経営コラムと映画評の切り口だけを、主に自分がどこでも見ることができ、検索も自由自在の備忘録の位置づけでアップしています。勿論、クライアントを含む人々にも読まれることを前提としていますし、仕事上の情報アーカイブとしてそれを活用し、特定記事を読むように相手に勧めることもあります。それでも、純粋な日記の形を採っていないので、書く内容に何らかの配慮が必要なことはあまりありません。

 また、クライアントの動向を知るために、彼らが(何が楽しいのかわかりませんが)フェイスブックにアップしている日記的情報をチェックする目的で、フェイスブック上に妄想人格のアカウントを持つことに強い関心があります。不特定多数に公開こそされていないものの、この母の妄想日記を息子に読ませる辺りは、或る意味、私の考えることの先駆的モデルと看做せなくはありません。主人公にはセックスすることのできる学生仲間がいます。しかし、彼の本命は片思い対象の安東と言う女子大生で、日記にはセックス相手のセックスの癖まで書く一方、声を掛けても相手さえしてくれない安東の態度も描かれています。母はその日記を読み、安東と妄想上の息子が交際をしている設定の日記をつけています。安東は家に来て料理まで彼女(母)と甲斐甲斐しく一緒にしています。安東の人物設定など、母はかなりの精度で行なっている訳で、読解による情報収集とキャラ設定における、常人離れした能力をいきなり発揮しています。架空人格設定における秀逸な先行事例です。

 劇中、息子の描く現実世界と母の妄想世界が同じ場面設定で何度も錯綜します。この安東の存在が二つの世界を見分けるもっとも簡便なマーカーとして機能しています。安東役の女優がどこかで見たとずっと思っていて調べたくなったのが、帰り際にパンフを買った最大の動機です。検索してみると佐々木麻由子と言うキャリアの長いポルノ女優と全く同姓同名で難儀しました。この女優は、最近、仕事の都合でよく見るAVの一作に出ていたAV女優、遥めぐみと年齢も一緒で顔も非常に似ています。が、勿論、赤の他人であるようです。

 二点目の妄想キャラ設定能力に次いでさらに、この映画には、私にとって幾つかの見入ってしまう描写が登場します。母子家庭への社会からの差別的対応、主人公が専攻する演劇のレッスン風景、最後まで和解することのない家族などです。主人公と時代も境遇も大分異なるものの、私も母子家庭の一人っ子で、洋裁師の母に育てられました。中学から高校までの間で断続的に演劇を部活で学びました。妻の両親は私達の結婚を犯罪行為に手を染めてでも妨害しようとして、その経緯は後々まで尾を引き、先方が謝罪しても尚、和解に至らせる心情は湧きませんでした。そんな私には、頷ける場面が多々あります。

 終映後30分ほど行われたトークイベントで、監督はSNSで有り触れた「読まれる前提の日記」に言及していて、私が映画を見ながら考えたことを再確認できました。監督の母校でロケされているらしい学生生活は、妙に生々しく、当を得ない学生たちの日常会話も、日本で大学生活を送った経験が皆無の私にはまあまあ新鮮です。面白い映画と言えるか微妙なところですが、構造的には興味深く、共感ポイントも多いので、DVDは買いです。終演後、ロビーにいた監督にパンフ表紙へのサインをしてもらって帰りました。

追記:
 本作品とは全く関係ありませんが、この映画を見に行って非常に良かったと思うことがありました。それはこのブログの初期の頃に書かれている作品『眠り姫』が再びこの映画館で上映になるとのトレーラーを見ることができたことです。大好きで殆どの作品を持っている山本直樹の原作に非常に忠実なストーリー展開と、登場人物の姿が映らないままに進行する独特の描写を持つ、素晴らしい作品です。いつまで経ってもDVD化されないので、再び見に行ってしまうかもしれません。