『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』

三日間の駆け足の香港旅行から帰国の翌日。土曜日の夕方の回を観てきました。封切からまる二週間。新宿南口の小さな映画館の人の入りはまだまだそれなりにあり、全席の3分の一程度は埋まっていたように記憶します。

二泊三日の香港旅行のうち、初日は深夜に香港に入り、三日目は朝早めの便で帰国したのですが、デルタ航空の機内オンデマンド映画上映のシステムに、色々と驚かされました。往復で見られるから二回のチャンスがある筈と、一度目は初めての経験なので、ハズレでも良いように『トランスフォーマー』シリーズ第三作を観ました。日本語を選択すると、日本語吹替版が始まり、機内に響く飛行音の中でも問題なく楽しめました。帰路ではいよいよ本命を狙おうと、満を持して「日本よ。これが本当の映画だ」のキャッチコピーの告知で煽りに煽って、劇場で公開三日目の『アベンジャーズ』を選択しました。

すると、台風の直撃を受けた翌日の香港からの帰路は飛行音がやたらに大きく、日本語を選んでも音声は英語版で、おまけに字幕はなぜかアラビア語(のように見えましたが、実際にはタイ語やヘブライ語であったのかもしれません)で、全く切替も修正も利かず、封切直後の人気作上映の付け焼刃ぶりでした。さらに、劇中ではハルクの科学者とアイアンマンの男が英語で延々科学談義をしたり、神話の世界の悪玉は古めかしい英語で話すので、非常に聞き取り率が落ち、機械を通すと英語のヒアリング力が極端に落ちる私には、大きな飛行音環境と相俟って、とても楽しめるという状態ではありませんでした。

劇場で今一度観るべきか、DVDを待つべきか、悩みつつカレンダーを見ると、今月も半ばを過ぎて『脱兎見!』のエントリーが一つもなく、「ええい。ままよ」と言う感じで見に行くことにしたのが、この作品です。見た動機は何かと尋ねられたら、取り敢えず一本観ようと決めた中で、上映時間に都合が合い、上映館も自分のいるマンションに(ポルノ上映館を除いて)二番目に近い徒歩15分圏であること、それに加えて、中身的にハズレと言うことはなさそう、と言う三点だけです。以前、どこかで写真展を見たことがあるような記憶が微かにあるだけで、描かれる写真家に何らの思い入れがある訳でもありません。

それでも、私が好きだったテレビ番組『映像の世紀』のタイトルが示すように、今世紀からの歴史は常に映像が伴うものになり、それが(例えばマラソン中継などに代表されるように)撮影時には期待せざる情報を写し込んだり、物理的にも人間関係的にも近接して撮影することによって、結果的に大枠の歴史認識と異なるマクロレベルの事実を暴き出すことになっていることに、私はそれなりに関心を持っています。そして、『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』と言うタイトルから得られる情報だけで、このドキュメンタリー映画がハズレである訳がないということは認識していました。本当によくできたタイトルです。90歳と言う年齢から逆算して、自身が戦争経験者の筈ですから、軍国主義の現実を見知っている最後の世代が描く至近距離で見た昭和史がどのようなものになるのか、そしてどのような内容がそこに盛り込まれるのか。殆どすべて想像し切れてしまいます。

作品は、その予想を全く裏切る所がありません。寧ろ忠実過ぎて、驚きが少な過ぎるぐらいです。この映画を観る切り口は三つあるように思いました。一つは言わずもがなの90歳のプロ報道写真家の生きざまを観るというものです。日常生活の細かな場面で日々老いを自覚し、「鍋をかき混ぜる手の動きの緩慢さに老いを自覚する」などと言う一方で、原付で街を疾走し、補聴器調整に颯爽と出かけるシーンもあります。

単純至極に括ってしまえば「反体制」の活動の中で、暴漢に襲われ、家まで放火で焼き尽くされる有様で、一度は家族を解散し、無人島での自給自足の生活を始めるまでの極端な人生を突き進む姿に、主義思想を体現する求道を観ずには居られません。ただ、家族を解散した直後の無人島生活には、東京で知り合ったという、後に「内妻」と位置付けられている若い女性がすぐに移り住んできますし、ウーマンリブ活動の撮影で全裸で野原を徘徊する女性達を撮影した作品を観て「いい女が沢山いた」と回想している言葉にも、やたらの艶めかしさを感じます。ポートレートに観る若い頃の容貌は、今どきのイケメンなど消し飛ぶぐらいの端整さです。戦争時代は軍国青年を自負していた事実からも、「無頼」の翳を感じます。

実際の撮影の場面では、普段の老人特有の緩慢な動きが、早撃ちの技の如く、カメラを構え、絞りを合わせ、シャッターを切る一連の瞬時の動作に突如変わります。当然ですが、構図のために、道路に座り込みもすれば、放射能に侵され廃墟のような福島の酪舎で横になって撮影もします。その躊躇も組み立てもない反射的な動きは驚くべきものです。撮影は大抵被写体にやたらに近く、被写体が撮影されていることを明確に認識していることが分かります。撮影の結果、怒り出す者は勿論、殴りかかってくる者もいる筈でしょう。それを厭わぬ撮影の積み重ねが今の彼を作っていることに否応なく気づかされます。

多くの場合に、自らも被写体の人々と行動を共にし、被写体の人々への弾圧者からは「一味」と看做されるような距離を保っているが故に、自分も精神を病んで三か月入院したことがあるほどです。「中立な報道などない」と断言するその姿勢だからこその力のある作品群であることが分かります。このブログにある『オバアは喜劇の女王 仲田幸子 沖縄芝居に生きる』の仲田幸子も、『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』の代々木忠も、敢えて言うなら、『美代子阿佐ヶ谷気分』の安部愼一も、その創作にかける想いの強さ故に狂気に走り、精神を病んでしまうことを避けられない、ないしは厭わないことに思い至ります。

二番目の切り口は、教科書では数行の当たり障りない表記に収まっている戦後史の数々の出来事の現実を知るというものです。前述のようにタイトルを全く裏切ることなく、「そのキャリアは敗戦後、ヒロシマでの撮影に始まり66年になる。ピカドン、三里塚闘争、安保、東大安田講堂、水俣、ウーマンリブ、祝島…」の原発反対運動と、ムービー・ウォーカーの映画紹介欄にも書かれている通りです。さらに、一旦カメラを置き、写真展を開きつつ引退状態になった後に、福島の原発事故が起きるとその記録をしに、自ら汚染地帯に乗り込んでいます。

私の好きな邦画の『海と毒薬』は日本軍による米軍捕虜の生体解剖を描いた作品でしたが、それと比較するには余りにも組織的で大規模な、米軍による広島被爆者に対する強制的な調査や遺体解剖の実態など、私も全く知らなかった歴史の裏に埋め込まれて消え行きそうな事実が数々紹介されます。また、私がコミック『ぼくの村の話』でよく読んでいた三里塚闘争も、多数の目に焼き付いて離れないような映像で示される場面があります。間違いなく裏の戦後史とでも言うべき記録が映画全編を通して構成されています。

そして、三番目の切り口は、やはり、彼の主張を表現した作品であることが勿論あります。「問題自体が法を犯したものであれば、カメラマンは法を犯しても構わないわけです」とパンフレットの表2にでかでかと書かれた彼の言葉そのままに、憲法を無視して存続・拡大し続けている自衛隊の撮影を敢行する話などが、次々と紹介されます。

私は、この三点目が共感できない部分として残っています。私は右翼でも何でもありませんが、軍隊としての自衛隊の意義を否定した場合、どのような外交オプションや経済効果維持などが残るのかを十分に検討せずに為される、「人を殺すのはよくない」議論には、基本的に賛同したくありません。劇中に“強制連行されてきた”韓国人女性が補助を求めても役場に相手にされなかったなどの話も登場しますが、その信憑性はどの程度検証された上での報道であるのか、正直言って疑問が湧くところも多々あります。

映画館の待合で販売される彼の三部作にもなっている厚い書籍の一つには、彼の戦争時代の知人が南京で婦女子に対する強姦・殺人を当たり前にしていたという証言が縷々述べられています。南京での大虐殺の数字の年を追うごとの増加の破綻具合はかなり知られていることと認識していますし、彼の知人などでは婦女子強姦殺人が当たり前であったとしても、軍全体がそのようなことをしていたかの検証は勿論必要でしょう。また、比較論や相対論で語ることではないからこそのミクロ視点での歴史評価ではあると思いますが、それでは、他国は軍はどうであったのかの検証や評価も合わせてどこかで為されて欲しいと思ってしまいます。

勿論、90歳の福島氏の活動の価値を貶める気は全くなく、そのような視点で歴史の隠された部分を暴く“機能”に人生をかけている姿は、彼の長女が劇中で「素晴らしい」と惚れ込んでいる言葉を待つまでもなく素晴らしいものだと思います。ただ、彼の主張することが、あまりにも分かりやすい「正義感」などに結びつきやすいのも確かだと思えるのです。

三点目に共感できない部分を差し引いても尚、この映画は一見の価値を間違いなく持っています。そして、出るならDVDも買いです。ただ、三点目の、以前読んだ斎藤貴男著の『国家に隷従せず』にも共通する後味の悪さ故に、独立当初によく読んだレバタリアニズムの入門書などを読み返して、国や体制との付き合い方について今一度考えなおしてみたくなったのも本当です。