『ヒミズ』を観た翌日の平日夕刻。再びバルト9に足を運び見てきました。『ヒミズ』と同じ公開日から約一ヶ月。『ロボジー』も一日三回の上映になっていましたが、夕方からのその日の三回目は、『ヒミズ』の最終回よりも小さいシアターでの上映で、かなり人が入っていました。
シロモノ家電を作る専門だった地方の会社が、社長命令で二足歩行型のロボットを作ることになり、怪しげな作品が展示会での発表に間に合わなくなり、中に人を入れた着ぐるみでやり過ごすことにした結果、どんどんおかしな方向に話が進んでしまうと言うお話です。この物語で特徴的であるのは、金属製の着ぐるみの中に入るのが、70過ぎの老人と言う点です。
監督の矢口史靖(ウィキで見て初めて「やぐちしのぶ」と読むことを知りました)の作品では、私は『スイングガールズ』がかなり好きです。他にはDVDで見た、『ハッピーフライト』や『アドレナリンドライブ』も嫌いではありません。『アドレナリンドライブ』は中途半端に現実的・暴力的に感じられ、クエンティン・タランティーノやオリバー・ストーンの洋モノや園子温の和モノなどにはなりきれず、主演の石田ひかりが目当てで見ましたが、どうもしっくりしない感じがしました。
私は男の裸を観るのが好きではないので観ていませんが、ヒット作の『ウォーターボーイズ』から所謂「ほのぼのコメディモノ」の路線が始まり、その後、私の好きな『スイングガールズ』や『ハッピーフライト』などへの系譜となっているものと思われます。そして、そのほのぼのコメディモノの路線上に間違いなく今回の『ロボジー』も存在します。
『スイングガールズ』のジャズの名曲にのって軽快に進むストーリーは見る者を飽きさせず、上野樹里らが演じる田舎の少女達のゼロからのサクセスストーリーは爽快・愉快です。音楽演奏の経験が殆どない私には気にならずに済ませられた無理な展開が、多分『スイングガールズ』にも多々あって、いきなり全くずぶの素人集団がそれなりのビッグバンドを組みあげて行くなどと言うのは、かなり夢物語であったのかもしれません。(劇中の、壁のテッィシュペーパーを息で吹いて落とさないようにする肺活量増大特訓は、私もやってみましたが、全くできそうな気配を感じませんでした。)
その無理さ加減が、毎週飛行機で札幌東京間を移動している私から見て『ハッピーフライト』には無視できないほどに含まれているように感じられて、知人が「なぜANAがこの映画の後援をしているのか全く分からない」と言うのに頷ける私は、『スイングガールズ』ほどに楽しめませんでした。
映画開始後早速、『ロボジー』は、地方都市のシロモノ家電会社木村電器のロボット開発室の様子を描きます。そこではどう見てもうだつの上がらない三人のロボット開発とは縁遠いように見える社員が、よだれを垂らしたまま機械に向かいに寝込んでいたりしています。そこの部屋はもともと倉庫で、どうもロボットの部品もそこに氾濫する家電製品のお古でしかないように見えます。三人の知識や技術のレベル。そこにある材料と装置。これらを観るだけで、先述の「無理さ加減」がかなり気になってきます。元電話交換機保全技術者としては、今更になって「技術屋をなめてる映画だよなぁ」という感想が湧き起こります。「そうか、この映画に科学的裏打ちを求めてはいけないのか」と思いこむことに努力を要しました。
ただ、この映画は、この無理さ加減を或る程度払拭することに成功しています。最大の理由は、技術の問題から老人の社会的孤立や老後の生活の一般的な在り方に潜む課題などに視点を早々に移し、その主人公の老人をミッキー・カーチスが粋に演じていることです。
映画のオープニングでもエンディングでも、ミッキー・カーチスと言う名前は登場せず、パンフを読んで、五十嵐信次郎と言う名前は、ミッキー・カーチスが子供の頃から憧れていた漢字の名前を70を過ぎて初めて芸名として使ったものと分かりました。
この五十嵐信次郎演じる老人は、如何にもな老人会の演劇にも馴染めず、働こうにも仕事が見つからず、子供夫婦とは反りが合わず、孫二人は勉強やらゲームやらに没頭する今時の子供で別居している老人に特段の親愛を表現してきません。そんな中、木村電器の三人組が苦肉の策でロボットになりきって貰う人を着ぐるみショーの役者と偽って募集し、体のサイズがぴったりであったことから、主人公の老人が着ぐるみロボット『ニュー潮風』を演じることになります。
偶然、見学に来ていた吉高由里子演じるロボットオタク女子大生をブース支柱の倒壊事故から救う所から、ニュー潮風は時代の寵児となります。子供たちから口々に凄いと褒められ、握手を求められ、さらにダメ社員三人からは悲壮な覚悟で協力を求められているうちに、周囲から頑固で偏屈と受け止められていた老人は久しく感じることのなかった「当てにされる喜び」に溺れて行って、結果的にロボット役者を続けることにするのでした。一旦は全部ばらしてやると、記事の載った新聞を手に、「このロボットの中には俺が入ってたんだ」とあちこちに言いふらして回りますが、誰も彼のことを信用せず、ストレートにボケを疑われたりします。このような老人の置かれた立場と心情の機微をミッキー・カーチスは絶妙に表現しています。
また、先述の科学的裏打ちの部分は、映画中盤でやや回復されます。ダメ社員が招かれた大学の教室で吉高由里子を始めとする学生達はロボットの構造に非常に詳しく、制御や駆動などの面でのロボットに関する議論が為される場面があります。さらに、劇中に国内の有名ロボットが各種登場する場面があり、さながら、現実のロボットのサンプル画像集にもなっています。
『ヒミズ』にもチョイ役で登場していて二日連続でスクリーンで見ることになった吉高由里子の女子大生役は、目に尋常ではないクマを作ってニュー潮風の疑惑を暴こうと奔走したりするなど、かなりドタバタコメディエンヌの呈を成しています。『スイングガールズ』でも資金稼ぎのために、主人公達が山に椎茸採りに入り、イノシシに襲われる場面がありますが、突如ストップモーションが入るなど、演出面でもストーリー面でも、全体からの逸脱が行き過ぎているように感じられ、私は好感が持てません。『スイングガールズ』ではそのような行き過ぎが幾つかの場面に集約されていますが、『ロボジー』の吉高由里子のコメディエンヌぶりは薄く広く全体テーマから逸脱しているようで、どうも素直に楽しめませんでした。
副島隆彦氏のような長い著作を書くことも読むことも必要なく、単に「本当にできるなら何でその後何度もやらないのか」と言う疑問だけによって、私は人類の月面着陸は、当時最高レベルのSF映画であった可能性がかなり高いものと思っています。そうであっても不思議ないと思えるほどに、世の中に大人の都合やら組織の都合がかなり幅を利かせているであろうことは知っています。なので、『ロボジー』の主軸となっているテーマには、疑問や社会的問題性などを全く感じません。ただ、それが気にならなくても、映画の終盤に至って、ミッキー・カーチスの演技が光るほのぼのコメディで、以前、私の親にプレゼントしたついでに見たDVD『ぷりてぃ・ウーマン』の演劇否定バージョンと捉える程度の作品かと思っていました。しかし、エンディングのクレジットのバックにかかる音楽を聞いて突如この映画の評価がぐんと増しました。
なんと、ミッキー・カーチスが謳うスティクスの往年のヒット曲『ミスター・ロボット』なのです。最高に格好いい曲の仕上がりでした。このセンスの良さを感じつつ、映画を振り返ると、やはり老人の持つ可能性や老人の持つ社会的役割、老人ならではの価値観の洗練など、もっと味わうべきものがあったように思われるのが不思議です。
『スイングガールズ』のようにiPODに動画を取り込みたいと思うほどの気に入り度合いではありません。しかし、DVDそしてサントラCDの両方を買う価値があるように思えます。