『GATE』

2008年のドキュメンタリー映画ですが、昨今の反原発・反核のトレンドを受けてか、自主上映会が催されていた所で、見てきました。場所は都立大学駅近くのジャズバー。初めてのこのような上映イベントと言うようなことをバーの経営にあたっている人々は言っていて、イベントの運営も成程拙いと言わざるを得ないレベルでしたが、一日に3回も上映することとなっていました。

『ぴあ映画生活』の簡潔で十分なストーリー紹介を引用すると、「63年前に広島に投下された原子爆弾によって起きた火は60年もの間、燃え続けていた。日本の僧侶たちはこの火を原爆の生まれた米・トリニティーサイトへと戻し、そこで消すことで負の連鎖を断とうと考え、旅に出る」ということです。104分の全編を見れば、全くその通りでした。三人の僧侶の旅の姿は、感動的です、ロードムービーとしてみても、道程の人々との交流や、「米国の一般市民にでさえ、核兵器の負の連鎖を断ち切ると言うシンボリックな目的に、共感する人々が多数存在する」という単純な事実の発見だけでも、記録に残るべき素晴らしい行為であると感じさせられます。

しかし、どうも、この映画は被写体の行為の崇高な在り様とは全く関係ない部分で、非常に中途半端で頷けない所も多い作りになっています。

一点目には、三人の僧侶の旅がどのようなものかを映画がきちんと描いていないことが挙げられます。例えば、僧侶達は、映画で重点的に紹介される部分以外の場所、例えば、太平洋上や、日本国内をどのように進んだのかがよく分かりません。三人の僧侶と言う割には、彼らを送りだした(ように見えている)住職は、どうやって先回りしているのか、旅の要所々々に頻繁に登場します。また、実際にデス・バレーの灼熱地獄を踏破するシーンなどでも、人数は三人ではありません。この不明なままに進められる点の多さには、常に注意が削がれます。

二点目には、この旅の目的行動がよく分からないことも挙げられます。映画の冒頭に監督のマット・テイラーが流暢な日本語で、住職と「火を返還する」と言うことを話し合っている再現シーンがあります。これが映画で語られる旅の始まりの背景事実のすべてです。そこでは、広島・長崎に燃える火をその生まれた地、トリニティ・サイトに返し、開始点を帰結点と同じくする円の原理により、負の連鎖を収めると言うことが言われています。開始点と重なった帰結点において、永遠に火は消されるのだと言うようなことも言われていたように記憶します。しかし、劇中で帰結点のトリニティ・サイトでの火は消されますが、もともと、それを分け出した種火が消された事実は述べられていません。

道元の言葉であろうと思われる「一人発真帰源、十方虚空、発真帰源」らしき言葉の意味を住職が述べ、これに因と縁を円にして帰結させるものとして、住職が半紙に円を書いて見せます。これだけで、この行為は何のために、どのような作用を狙い、行なわれることであるのかを理解できる映画観賞者は少ないことでしょう。劇中ではきちんと文字でさえ説明されない「一人発真帰源、十方虚空、発真帰源」はパンフレットにも載っていず、何らの解説もありません。単に私も買ったTシャツの背に書かれているだけです。デザインの良さに購入を決めたTシャツの、文字の意味が分からないのでは落ち着かないので、ネットで検索してみて、初めて旅の主旨が少しはましに理解できるようにはなりました。

三点目は、このドキュメンタリーが、三人の僧侶とその旅に同行した人々の心理の変化などを殆ど描かないことです。同行した監督の日記が数回読み上げられていますが、それによれば、参加者の中にも不和があり、一部は脱落したなどと述べられています。また、途上、韓国人の禅僧侶が建立した、やたらに多様な人種の僧侶たちが集う寺に宿泊した場面があります。語り合うと、皆異なる意見を言い、歴史認識もずれていて、僧侶達が仏教の教えから逸脱してゆく場面があったとナレーションだけで述べられます。このような所を、全く描かないで済ませ、単に気象条件が厳しい長い道程を踏破するのは大変で、最終的に米軍のトリニティ・サイトのゲートが開けられなかったら、すべてが無駄に帰すリスクを孕んだ旅なので大変であると執拗に述べるのです。

さらに、四点目として劇中に、トルーマン大統領による原爆投下の発令の経緯などの歴史認識や、爆心地の地獄絵図を語る「歴史の証人」達の言葉が巧妙に混ぜ込まれていますが、これらは不要に思えてなりません。現実に、道程上の米軍基地門前で抗議を行なうべきだと主張したグループは、旅の目的に反戦反核を訴えることは含まれていないと言う判断から排除されていると、これまたナレーションでだけ伝えられています。それであれば、この映画自体も、現時点での核兵器がこれだけあり、広島・長崎の人々が数十万の単位で殺戮された誰もが知る事実に立脚するだけで、全く問題なくドキュメンタリーを構成することができた筈です。また、その方が、原爆投下に関して現在に至って謝罪をすることない米国に向かってこのような旅に出ることに反対していた僧が三人の中に選ばれてどのように考えを変えて行ったかなど、深く描くことができたのではないかと思われます。

さらに、パンフを読むと、歴史的な事実を殆ど知らされていない米国国民が上映された内容を疑っているのに対して、「映画の中に出てくる情報に偽りはありません」と制作者が述べたと書かれています。確かに、偽りはないものと思いますが、降伏交渉に臨もうとして居た日本に原爆を投下した米国に比べて、降伏交渉を始めようとして居たロシアを、意図的に美化して述べ、恰も米国をロシアと日本の共通の脅威であるかのように描いている部分もあるなど、本来の歴史認識とはかなり異なる印象を映画鑑賞者に植え付けようとしている風にも見えます。

※この映画の制作にあたっている基金の都合で、ロシアの立場を悪くできない様子であることが、パンフなどから透かし見えます。

私が育った北海道の留萌市の付近の沖合でポツダム宣言受諾5日後に樺太から避難している人々を乗せた船がロシア軍からの魚雷攻撃を受け2000人近い人々が祖国の地が見える海の中で死んで行きました。ポツダム宣言受諾後も戦闘を一方的に続け、樺太を占領したのもロシア軍ですし、満州で一般人に対する人間の所業とは思えないほどの殺戮や略奪を繰り返したのもロシア軍です。

さらに言うと、米軍も単に原爆投下に留まらない蛮行・非道を繰り返しています。太平洋戦争下、日本兵の頭蓋骨で作った装身具をプレゼントに使ったり、売ったりしていた米兵の記録が多数残っていたりしています。そのプレゼントを受け取っていた米国の銃後の人々。そして、この映画の前に私が見た『カウントダウン ZERO』では、モンタナ州にあるミニットマンミサイル地下発射管制センターの扉に「世界各地に30分でお届け。届かなかったら、もう一個ただ!」などと、ピザの広告を模した絵を描いてあると紹介されています。このようなことを平気でできる人々。そのような人々と交流して、ともに平和を願うことができるのか。先述の米国の非道に怒りを消せなかった僧が、仮にそのようなことを知って尚、怒りを抱かなくなり、平和への祈りの気持ちに至ることができるのか。興味深い僧達の葛藤などは殆ど掘り下げられないままに映画は終わります。

この映画の題材となっている僧達の活動は素晴らしいものであり、多くの米国民の心を動かしたのも間違いないことでしょう。しかし、実際の行動から切り離して考える時、あまりにも杜撰な作りが全く納得のいかない作品でした。DVD化されているのかどうか分かりませんが、勿論購入の必要はありません。