『東京公園』

新宿のバルト9で長らくやっていたのですが、他に優先順位の高い見たい映画があったのと、上映時間に都合が合わなかった関係で、見に行くことができませんでした。ふと、上映中の映画をネットで見ていた所、今でもやっていることに気づき、吉祥寺の街外れの映画館まで足を運びました。以前、『アンヴィル…』を見た場所です。

この映画館で再映が決まった理由が映画館のサイトによれば、第64回ロカルノ国際映画祭という場で金豹賞(グランプリ)審査員特別賞を受賞したので、「凱旋公演」ということだったらしいです。その凱旋公演のレイトショーもあと三日で終わりという日に、見てきました。100席ほどの館内に観客は30人弱。レディースデイの対象作品であるのか分かりませんが、女性客はかなり多かったように見えます。

この映画館は、スタッフも見える範囲では全員女性で、特段の制服がある訳でもなく、カジュアルな格好で働いています。ロビーの映画ポスターを見つつ、上演時間が来るのを待っている私が足元にゴキブリが動いているのを見つけて、それを凝視して居たら、女性スタッフが、私の視線を辿り、「ゴキブリですね」と深刻そうに頷くと、やにわにスプレータイプの殺虫剤をかけながら追いまわし、手際良く処理していたのが印象的でした。

この映画を見に行きたいと思った最大の理由は、名前に「東京」を冠していることです。タイトル通り、東京の公園が多数出てくるらしく、その風景の中の物語という前評判通りの展開を期待して見に行きました。劇中に雨天はなく、舞台は島嶼部を含めてすべて東京都内に収まっています。全編を通して、まばゆい東京の自然の写真集のようでもあります。

この映画の構造的な魅力は二つあります。一つは、「忍ぶ愛」に気付く物語であることです。主人公のカメラマン志望の大学生は、早くに写真家の母を亡くしました。父子家庭の父が再婚相手に選んだのは、主人公の9つ上の娘を持つ母子家庭の母でした。その結果、彼には血のつながらない姉ができます。

既に社会人の姉と大学に入った主人公を残して、両親が東京の伊豆諸島らしき島に移り住んだ後、主人公は友人の男性と同居していますが、その同居人は主人公の幼馴染のちゃきちゃきした女の子と交際を始め、突然何かの理由で死亡してしまいます。残された女の子は、心の整理がつかないままに、主人公と交流する状態になります。

主人公は、公園での写真撮影が日課です。そこへ、幼い娘を連れてあちこちの公園に日替わりで散歩に出かける妻の行動を疑う歯科医が、自分の妻を尾行して行く先々の公園で写真を撮るように依頼してきます。後に奇妙な公園巡りが実は夫への愛の証と分かる、この妻は、主人公の部屋に大きなセルフポートレートが掲げられた亡き母に、瓜二つです。(当然、井川遥が二役をやっています)主人公は尾行の後ろめたさも忘れて、この女性の写真を撮り続けることに没頭していきます。

こうして、母への想いから、自然に似ている女性に心惹かれる主人公に、微かに嫉妬する血のつながらい姉が、弟としてではなく男性として惹かれていることに自覚的になって行きます。一方、幼馴染の女の子も、亡くなった元カレとの関係も結局は主人公を含めた仲間内での成り行きであり、残った主人公こそが自分の愛の対象であることに自覚的になって行きます。

しかし、実母に似た女性の写真を撮り続ける弟の姿に臆し、両親からも「社会人になっている姉なのだから、大学生の弟の面倒を見てやってくれ」と言われる役割意識も重くのしかかり、姉は秘めた思いを表に出そうとしません。ただただ、「例の幼馴染の子と付き合う気はないのか」と尋ねるばかりです。その幼馴染は、忍ぶ恋を同じ対象に対して持つ身として、その姉の存在を意識し、主人公に姉が主人公を恋愛対象として認識していることを教えてしまい、自分を彼らのよき理解者・協力者のポジションにおいてしまいます。さらに、歯科医は妻が気になってしょうがなく、浮気を疑い居ても立っても居られず、簡単に医院を休診にしてしまうほどですが、それを妻に言い出したり迫ったりすることができないままに居ます。

この「内に秘めた想い」が、東京の公園風景を舞台に徐々に浮き出して来るのがこの映画の魅力の第一です。第二の魅力はこの浮き出してきた想いの結末です。パンフレットを買うと、原作者のコメントに「何も起こらない物語」を書こうと意図して作った作品と言う説明があります。正にその通りで、主人公は、これらの女性を誰一人押し倒すことがありませんし、ベッドシーン一つありません。

歯科医の夫は酒を飲んで自暴自棄になり、主人公に勧められて妻に向き合うことにします。幼馴染の女の子は、結局、映画終盤で元カレの部屋に転がり込んで来て、結局主人公と同じ屋根の下には住むことになり、自分の気持ちを吐露する場面もありますが、主人公がわっと彼女を抱きしめるようなことはなく、単純な同居人の位置に収まったままです。

唯一、姉は、幼馴染の女の子の勧めで、自分を愛しているという姉との関係性に「ケジメ」をつけようと、自室を訪れた弟をソファで抱きしめ、口づけに至るシーンがあります。セリフは概ね短く少なく、抑制の効いた映画全編を通して、際立って印象深いシーンです。姉として食事を用意し、弟の主人公を気遣う会話をしている状態から、主人公にカメラを向けられる中で、徐々に恋する女性の表情に変わって行く小西真奈美の演技は息をのむばかりです。あまり私が見る映画に登場することが少なく、見ることがあまりありませんが、小西真奈美のつかこうへいの舞台で鍛えられた芸達者さは好感が持てます。ただ、映画は全ての忍ぶ愛をセックスにも至らせなければ、痛恨に至らせることもなく、ふっと終わってしまいます。

パンフレットの中にも、「続きが気になる映画」や「これからの予感の中で心地よい終わり方の映画」との表現がありますが、全くその通りで、起承転結の多分承の入口ぐらいで物語がフェードアウトした感じがあります。或る種の群像劇ですが、ロバート・アルトマンの幾つかの群像劇でももう少々、踏み込んだ結果が用意されていたように記憶します。それが第一の魅力の「忍ぶ愛」同様に、抑制の効いた演出となって、この映画の魅力を構成し、だからこそ、小西真奈美の一気に放たれる秘められた想いが強烈に光るのでしょう。元フィルム屋の経験からも、ファインダーには、見えない感情を露わにする力があるように思えます。

映画の冒頭、主人公の同居人は普通に登場しますが、実はそれが元カノにも見えず、主人公のみが見えて話をすることもできる、同居人の幽霊であることが途中で判明します。その他にも、主人公が指で空中に描いた線が形に残るなど、微妙にファンタジーの要素が組み込まれています。それがこの物語の魅力であるとは分かっていても、誰一人として誰かを独占しようと激しく感情のままに動くことのないこの映画は、その意味でもファンタジーで、どうも、ファンタジーが苦手な私は、色々な魅力を認めても尚、DVD購入には至らないように思いました。

追記:
 幼馴染の女の子が映画好きという設定なので、『瞼の母』、『リップスティック』などなど、懐かしい映画の名前を口にします。さらに、見える幽霊が現世に居場所が残されていないことを悟って行く物語としては、『四月怪談』や『ふたり』を思い出します。撮影を重ねるうちに、男女の本心が浮き彫りになる点では、スガシカオの「19才」のPVを思い出します。なにやら、色々な意味で、色々な映画・映像を思い出させる作品でした。