『メタルヘッド』

渋谷の南側にある映画館の日曜日の午前の回で見てきました。予告編を見て以来、是非見に行きたいと思いつつ、少々延びていました。

タイトルの「メタルヘッド」と言うのは、メタル好きの人間の総称の一つです。そして、この映画の原題「ヘッシャー」と言うのも、メタル好きの人間の総称ですが、この映画の主人公の名前でもあります。

交通事故で突如母を失った少年(とその父)が塞ぎ込み、世の中すべてから隠れるように生きている所に、そのヘッシャーが現れ、少年とその父、そのさらに母(少年の祖母)の三人暮らしの如何にもアメリカ風の荒んだ家に、突如、居候を始めることから始まる物語です。

ヘッシャーは元の意味通り、メタル好きで、セックスが好きで、四文字言葉を躊躇なく口にします。ドスドスと音を立てて何らの配慮もなく歩き、居候する家のテレビのチャンネルが少ないと気付くと、(洗濯中だったのでパンツ一丁で)すぐさま電柱に道具一つ持ってよじ登り、チャンネルを増やしてポルノチャンネルを平然と見ます。上半身ぐらいは頻繁に裸になり、胸にも背中にも落書きのような入れ墨をしています。所構わず煙草を吸い、色々なものに火を放ったり、発狂したかのような運転を突如始めたりしますし、常人の予想を越えた人間として描かれています。

しかし、ヘッシャーは少年に、一緒に散歩に行こうと言う老いた祖母の頼みは聞くように諭しますし、少年が仄かな恋愛感情を抱くスーパーのレジの女性が交通事故を起こした際に、それを救ったりします。四文字言葉が多いものの発言の主旨自体はかなりまともです。

この映画を見ると、今から20年以上前に留学で行っていた、オレゴンの田舎町の社会を思い出します。見えない枠の中で生きて行くように、息の詰まるような保守的な田舎町の生活。

宗教によっては、結婚前のセックスさえ極めて後ろめたいものであり、煙草を吸うのはまともな人間のすることではなく、酒を飲んでもはめを外せず、異性に対してエロい冗談一つ満足に言えないような緊張感。風俗街はなく、ギャンブルは遠くリノかラスベガスに行かねばありません。レンタルビデオ店で、AVビデオは申告すればタイトル一覧のファイルを渡されるだけで、こっそり貸し出されるものであり、ラブホテル一つなく、コンビニにエロ雑誌はあっても、立ち読みをしているような人間はなかなか見当たらず、手に取るだけでも周囲の刺さるような視線が体感できるような状況。

他の映画の中でも、学生達が夜に牧場に忍び込んで、牛を横から押し倒すいたずらをして回るなどの話が良く出てきますが、ティーン・エイジャー達がエネルギーをもてあまし、暴走したり、幾つかの類型的な「役」に押し込められて行くのが、よく分かります。

そんな中、数少ない留学生でほぼ常時一人しかいない日本人の私は、その地の人々から見て全く予想のつかない異邦人でした。保険屋のエージェントに伝えると車の保険料が激減するほどに成績が優秀であるのにも関わらず、煙草を吸い、夜更かしはし、パトカーの払い下げの燃費が信じられないほど悪い7400CCの巨大な車を乗り回していました。

ヘビメタをいつも聞き、車には音楽をかける設備がなかったので、ウォークマンから流れ出る曲を、首にかけた馬鹿でかいヘッドフォンで聞きながら、運転をしていました。金もなく、日本でできないことをできる範囲で体験しようと思っていたので、現地のかなり貧乏な人間でもしないタイヤのセルフ溝掘りまでしていましたし、いつも着古した同じジャケットを着て、ジーパンも本当にダメージの穴が空いたのをずっと履いていました。

日本ではなかなかできないことの一つのつもりでしたが、劇中のヘッシャーよろしく、砂利の敷かれた大学の駐車場で巨大な車をスピンさせてパーキングロットに収めていましたし、冬には夜のスーパーマーケットの霜の降りたアスファルトの駐車場で巨大な車でスラローム運転をして、楽しんでいたりしました。よく窓を全開で、セックスだのなんだのを当たり前に言っているようなヘビメタの歌詞を大声で歌いながら車を運転して居ましたが、気が狂っていると思われるからやめろと皆からよく忠告されました。

このブログの留学体験記『 My Life In Klamath Falls 』にも、描かれている通り、隣家の犬がいつも車にまとわりつくように並走しようとするので、恐怖で逃げ惑うその犬を、エンジンの轟音を立てて、荒れ地の中をバウンスしながら、追跡したりもしました。金も払わない居候を許してくれたホストファミリーで、高校生の息子が夜に家にいると退屈だと言っているので、私の巨大な車でドライブに行こうと言い、どこに行くかと尋ねられたので、「湖近くの駐車場に車を止めてセックスしている人々を、私の車の特殊仕様のやたらに明るいヘッドライトで照らして回ろう」と答えたら、目をまるくして引かれたこともあります。

そんなミニヘッシャーのような私の周りには、ロック好き、メタル好きのマイクロヘッシャーのような人間が友人として数人集まりました。大学に来ているぐらいなので知的レベルはそれなりに高く、映画の『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』、『グローバル・メタル』の監督のように、やたらと色々なことを知っていて、知的議論も普通にできる連中でしたが、メタルを聞き、煙草を吸い、酒をがぶ飲みするだけで、周囲からは距離を置かれていました。

所謂学歴的な知的レベルは置いておいても、私の知るメタル好きのアメリカ人には、かなりまともな人々が多く、『メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー』、『グローバル・メタル』に描かれる、米国の保守的な文化に対するカウンターカルチャーの表現としてのメタルを意識的に採用している人々に見えます。その観点から見ると、主人公のヘッシャーは中途半端に暴力的・破壊的ではありますが、或る意味、そのカテゴリーの人々を周囲の人々が見たイメージとして描いた結果に思えます。そのリアルな米国の二種類の人々が目を逸らせない関係になった結果を描いた面白い作品です。

『水曜日のエミリア』、『マイティ・ソー』、『ブラック・スワン』、そして私も見た『抱きたいカンケイ』と出演作が『メタルヘッド』も含めて、同時に五作も公開されているナタリー・ポートマンが、比較的マイナーな監督の本作の製作にも参加したのも、多分にこの面白さ故でしょう。そのナタリー・ポートマン演じる、何事もうまくいかないワーキング・プアのレジ係は、本当に貧乏臭さ全開で、おまけにたいした相互理解の機会があったとは思えない段階で、いきなりヘッシャーとセックスしてしまって、少年の淡い恋をぶち壊す荒み具合です。『抱きたいカンケイ』でも、かなり濃いセックス・フレンドを恋愛対象にしてしまって計算が狂う女医の役でしたが、製作サイドにも打って出るほどのナタリー・ポートマンであるなら、そのような役柄の選択も計算づくであろう筈です。何が起きているのか、インタビュー記事でも読みたくなるような多作状態です。

ヘッシャーが思った以上には良い人だったのが少々肩透かしでしたが、常識を根底から覆すような来訪者が現れて、米国の息が詰まるような日常を悉くぶち壊した揚句、その人々に人間性を回復させるようなストーリーは、古くはニック・ノルティがビバリーヒルズに紛れ込んだ浮浪者を演じた『ビバリーヒルズ・バム』や、モノクロの昔のテレビドラマの世界に現代の子供たちが紛れ込む『カラー・オブ・ハート』、そして私が好きな洋画のベスト10には必ず入れる『チャンス』などにも見つかる、非常によくあるパターンです。それでも尚、ヘッシャーのキャラクターのぶち切れ度とナタリー・ポートマンの快演故に、この映画はコンパクトに面白くまとめられていて好感が持てます。映画での曲使用を認めないことで知られるメタリカがストレートにメタルっぽかった初期の曲を提供しているのも、この映画を引き立てている材料の一つです。DVDは買いです。