『ランナウェイズ』

このブログに登場した映画の中で、これほどに「見逃してはいけない」と、危機感を募らせていた単館系映画はなかったと思います。東日本大震災が起きた次の日に封切られたこともあり、仕事のスケジュールが不安定な中で、なかなか見に行く時間を作れなかったのですが、漸く念願成就です。

午後から仕事のある平日、震災の影響か東電の人災の影響か、人の数がやたらに少ない渋谷のパルコの中の映画館(都内では唯一の上映館)で見てきました。観客は10人に満たないほどです。ロック好きそうな若いカップルなどが2組ほどと、残りの数人は私を含め、ランナウェイズ・リアルタイム世代と言った感じでした。

予想通り、大満足の映画でした。

この『脱兎見!…』でも、『デトロイト・メタル・シティ』や『アンヴィル!…』の文章で触れている…、どころか、経営コラムの筈のソリアズの7周年記念号でも、延々ファンだと語っている、伝説のガールズバンド『ランナウェイズ』の映画です。

私がランナウェイズをリアルタイムで聞いていたのは、中学生の終わりごろから高校生になる頃でした。日本での人気は爆発的で、篠山紀信が出した写真集の『激写・135人の女ともだち』のうちの5人はランナウェイズです。私はファーストアルバムを、カセットで持っていて、それを繰り返し繰り返し聞いていました。そのカセットには歌詞カードもライナーノーツも付いていなかったので、カセットのサイズしかないジャケットの上のほんの数枚の写真と『激写・135人の女ともだち』のみが、インターネットどころか、CDもビデオもない時代の、地方の中学生が得られる画像情報でした。

ランナウェイズが好きであるのは、基本的に、その音楽性によるところが殆どです。それよりやや後によく聞くようになったホワイトスネイクやクイーンなどは、その活動が長いが故に、ライブを直接見に行くことができましたし、その後、各種のメディアで情報を蓄積咀嚼することができたのとは、かなり状況が異なります。あっという間に解散したランナウェイズの私にとっての存在は、残された、大好きなアルバム数枚に留まったままでした。(正確に言うと、ランナウェイズ解散後にライブアルバムともう一枚のアルバムを購入したので、ライナーノーツと代表曲の歌詞は一応入手できましたが)

動いている姿を見たことがなかったランナウェイズのかなり忠実に再現されたライブ映像などが連発するだけで、私にとってのこの映画の価値大ありで、これだけで、DVDが出たら買いです。保存用と見廻し用の二枚を買うかもと言うぐらいに、「買い」です。

改めて気付かされたことも山ほどあります。例えば…

●私が当時の女性ロックシンガーで大好きだったスージー・クワトロとランナウェイズは私の中で全くつながっていませんでしたが、小銭を貯めに貯めて買った革ジャンを着た主人公ジョーン・ジェットが「グリセリーン・クイーン」と自分のことを言うなど、スージー・クワトロがランナウェイズの目標であり、アイドルであったこと。

●多くのランナウェイズの曲が、ジョーン・ジェットによって書かれていたこと。(王様までが直訳ロックに取り上げるランナウェイズの代表作『チェリー・ボンブ』は、オーディションに来たチェリー・カリーのイメージに合わせて、その場で、プロデューサーのキム・フォーリーとジョーン・ジェットが作っていることも新発見です)

●映画では一番現実と乖離した状態にぼかしたままになっていますが、パンフレットの情報によれば、ベーシストはかなりメンバーチェンジがあり、私が知っているジャッキー・フォックスは実は3代目ベーシストで、来日中に独りで帰国しそのまま脱退していること。

●劇中にも登場しますし、パンフにも書かれていますが、当時の日本のファンの多くは若い女性であったこと。

などです。その他にも、敢えてこの文章では、当時の表記にしていますが、チェリー・カリーは、本来の発音はシェリー・カーリーで、代表作の当時『チェリー・ボンブ』は(私も当時から表記ミスだと知っていましたが、)当然、『チェリー・ボム』であることなどなど、「やっぱり!」や「ああ、なるほど。そうだったのかぁ」が連発で出てきます。

その中でも最大の発見は、バンドのメンバーが15歳の少女達であったと言うことです。勿論、事実としてそれは当時から知っていました。そして、私は25歳でアメリカの西海岸に留学して、そこの女子高生や女子中学生の生態もリアルで見てきています。しかし、ランナウェイズは「曲が大好きなバンド」であって、メンバーのありようを想像したことがなく、私が留学中に周囲に見た「女の子」、それも「性別が女性の子供」と言う意味での「女の子」の極短い延長線上に彼らが居るということを想像したことが一度もありませんでした。

それが、中心メンバーのチェリー・カリーの自伝『ネオン・エンジェル』をベースに、同じく中心メンバーで、その後もロック界に影響力ある存在として生き残れたジョーン・ジェットのプロデュースで映画化された訳ですので、『チェリー・ボンブ』の歌詞にもある通りの、ガール・ネクスト・ドアの世界を生々しく描くことに成功しています。

悪く言えば海千山千の超プロのプロデューサーに、素材として見出された、ギターだけがすべてのジョーン・ジェットと、デビッド・ボウイの世界に憧れていて、家庭不和に追い詰められ、双子の姉以外に理解者もいないチェリー・カリー。それ以外のメンバーはなす術なくこの三人に振り回され、そこにいるだけで、辛うじて、リタ・フォードが色々文句を言う程度の構図で、伝説のバンドの短い道程が2時間に満たない中にコンパクトに生々しく収まっています。

その手の女の子を発掘しては組み合わせて、商品に仕立てる。観客の反応も予測して、ステージ上で物を投げつけられた時の対策練習までさせ、男が求めるのはセックスだと喝破し、それをパフォーマンスに反映するよう逐一説明する。このプロのプロデューサーの仕事ぶりには、学ぶものがあります。しかし、契約で縛っても尚、それぞれの夢や嫉妬や幼稚さで暴れ回るガキどもは結果的に自分達の可能性を潰していきます。日本のアイドル・ユニットをプロデュースする人々の苦労が想像されます。人材紹介や派遣を商売でやっていても、真剣みの欠ける登録者や不誠実な求職者に対して、人間不信になる者も多いぐらいなので、こういう商売を冷静にできる人物の仕事観には嘆息します。

画像構成も、PVの経験厚い女性監督を起用しただけあって、飽きさせません。アスファルトの上に滴り落ちたチェリー・カリーの初潮の経血のアップから映画が始まることだけでも、十分劇中の映像構成の在り方を占えます。

それでも尚、ランナウェイズを知らない人や、ましてやロックがそれなりに好きではない人には、ただのアメリカの普通のティーンエイジャーが悪乗りした結果を描いたメリハリの少ない中途半端な映画に見える可能性は大きいように感じます。なので、人には勧めない映画でもあります。